第5話 まるでハリウッドみたいに
(医者)
ちょっと夢見たシチュエーションだ、とタキが真面目な顔をして言う。横倒しにした六人掛けテーブルの影で。
「戦火のなかではぐれた恋人をみつけだす……みたいなの」
「全然ちがう、とだけ言っておこう」
駅周辺は、あちらこちらが燃えさかり、なによりヘリが散布して行った発火性の化学薬品の異臭と煙で、ぎりぎりまで近づくのが精一杯だった。街路樹が燃え、松屋の化学繊維ののぼりが燃え、看板が燃える。火に巻かれずに動けるゾンビたちが、煙を避けてのろのろと、風上の方へ移動していた。
「たぶん、計算してやってんだろうな」
タイル張りの床に紙ナプキンを広げて、ボールペンで燃えている部分を太いCの字に書いて塗りつぶす。Cの内側が街中、一方だけ開けてある逃げ道の先に、大きな円を書いて、『公園』と書き入れる。
「ここに集めて、一網打尽に燃やす腹づもりだ」
「で、俺たちが今、ここだろ?」
タキの指が、燃える円の外縁ぎりぎり、一方だけ開けられた逃げ道の端を指す。
「ん。……静かに、してろよ ……」
医者とタキが隠れている場所は、公園口のオープンカフェだ。見晴らしと遮蔽物の兼ね合いで選んで、できるだけ姿勢を低くして外からの視線を避けている。
目の前の通りには、アメリカでも見たことのない数と密度で、ゾンビが列をなして歩いていた。まるでパレードだ。ゾンビの行動は、個性も混乱による判断のぶれもない。同じ条件を与えたら、同じ反応を返す。多分、作戦は、指示した人間の予想を上回って上手くいっている。
(今にも胞子汚染が始まるかもしれねぇけど……上から発火剤降ってくるかもしれねぇけど ……)
医者は、さっきからしくしくと痛む胃をそっと撫でた。明らかに神経性だ。
「大丈夫だよおっさん」
じっと視線を通りに注ぎながら、タキが声だけ寄越す。
「俺はサワと、サワを食ったヤツのことなら、絶対に見つけ出せる」
こいつもなぁ、と医者は、今朝知り合ったばかりの男子高校生を横目で見る。
多分狂ってるんだろうな。
理由は知らないが。
「……ほら、な」
どっちもいるじゃん、とタキの声が小さく呟く。横目で見ていたから、その時の一瞬の表情が目に入った。
その、泣きそうに眉をひそめた、変に口元だけ微笑んだ、きれいなまなざしの横顔。
人がそんな顔をする感情を知っている気がして、それがタキの『理由』だとも思って、でもその正体まで深く考える暇はなかった。
胃が痛いてぇなぁ、と思いながら、用意していた注射器ケースに手を伸ばす。胞子性の毒素を押さえる中和剤入りだ。アメリカの、優秀な人材ぞろいの、ゾンビ対策チームの面々を思い浮かべる。ホァンにメアリにイー・チェンにジョージ。多分全員が腹を抱えて笑う。
この中和剤を目標のゾンビに投与する、妙案は何にもないのだった。ただゾンビの群れにつっこんで行って、タックル掛けて、注射器を射す。その後は死ぬ気で逃げる、逃げられなければゾンビに食われる。
おしまい。
右足も痛ぇしなぁ、と、立ち上がりながら考える。タキの視線を追って、真緑の肌のゾンビは見つけていた。隣で、二つ用意した注射器ケースの一つをつかみ取って、タキが軽く屈伸した。
「じゃぁまあ......」
立ち上がって全身を晒した二人に、道を流れるゾンビたちが気づき始める。ぎぎ、と音がしそうな動きでいくつかの首が回されてこちらに向く。緑色の、会社員風のスーツのゾンビは、群れの流れに乗って着実に近づいてきている。
医者は隠れていたテーブルを迂回して、タキはテーブル板を飛び越えて、通りに出た。
「どっちか、成功しますよーに」
タキが駆け出す。用意の鉄パイプを掴み、少し遅れて、医者もゾンビの群れにつっこみに行った。
(タキ)
ゾンビに腕を掴まれて、振り払ったら爪がざっくりと腕を切り裂いた。気にしなかった。この程度で感染はしないはずだ。医者の薬が本当に効いているなら。
……カフェのテーブルの裏で、作戦(ともいえないような作戦)を立てて、それから医者の説明を受けて、注射のために腕を差し出した。
『この薬を入れれば、一日くらいは、菌が入っても感染は抑えられる』
『なんで早くそれ出さねぇの』
『副作用がひどい』
『……なに。どんなの』
『効果が切れた後、三日三晩下痢と腹痛でのたうち回って死んだ方がいい目に遭う』
『マジ?』
『マジだ。下手すると三キロくらいやつれるから、向こうではゾンビダイエットって呼ばれてる』
それからなぁ、と注射針の先から液体を少し押し出して空気を抜いて、医者は付け加える。
『噛まれてもゾンビになれないから、死ぬところまで食われ続けてすげぇ痛い思いをする』
『あぁ ……』
じゃあサワはそんなに長い間は痛い思いをしなかったのか、と、まずそれに安堵した。それから、サワならどっちがいいって言うだろうと思って、改めて腕を差し出した。アルコールに浸したガーゼを腕の内側にこすりつけられて、ひやりとする。
静脈にきれいに針が入ってくる。ゆっくりとピストンを押し込みながら、医者が静かな声で、キチガイめ、と囁いた。
タキは大人なので、あんたもな、とは言い返さなかった。
「……っ、でも」
もう一度別のゾンビから腕を掴まれて、今度は足を使って蹴りはがす。ガチガチッ、と、首筋の近くでゾンビの歯が噛み合される。死ぬ死ぬこれは死ぬ、とはっきり分かった。頸動脈を食い破られたら死ぬ。
ゾンビの動きは遅い。言われた通り、振り払い振り払いひたすら先を急ぐ。足を止めたらおしまいだと教わった。だが、数が、多い。進むことに疲れたら危ない、と、ひしひしと感じる。
「どうっ、考えても、おっさんのほうがおかしいだろ ……っ」
うぉおおお、とゾンビの波の向こうで吼えて猛っているのは、医者の声だ。タキのように掻き分けているのではない。鉄パイプを振り回し、行く手のゾンビの頭や背骨を叩き割りながら道をあけてゆく。テーピングで固定したとはいえ、かなりの腫れの右足首にも、容赦なく体重をかけている。痛みを感じていないのかもしれない。
ゾンビ専門家怖ぇ、というのがタキの総合的な感想だ。
自分も目標を見失わないように、歯を食いしばって、ゾンビたちの腕を叩き落として進む。視線の先には、緑色の肌をした、ダークブルーのスーツの、首の骨を折って変な方向に頭をぶらぶらさせた男。覚えている、一かけらも忘れない、その、姿。
お前がサワをあんな風に。
ころしてやる、と思うことの矛盾は、分かっていても変えようがなかった。
「……、痛ッ」
手首に喰いつかれた。子供のゾンビだった。目標のゾンビはもうすぐ近くだ。邪魔をするな、という怒りだけが頭を占めて、その首もとを掴んで、持ち上げて投げ飛ばす。それで目標までの道を一気に開けた。
反対側から、医者が緑色のゾンビに辿り着いたところだった。白衣に、叩き潰してきたゾンビの体液が飛び散ってひどい色の模様がついている。
医者と目が合った。医者が、緑色の男に飛びついて背後から羽交い締めにする。タキはケースから注射器を取り出した。子供のゾンビの体を踏みつけにして、迫り、ゾンビの腕を掴む。腕を取るようにして、スーツの腕をめくり上げる。刺すのはどこでもいい、と言われていた。腕を選んだのは、多分、少し前に自分がされた注射の印象が強かったからだ。
ぐっと針を入れて、ピストンを押し込む。しね、と喉がひきつった。
瞬間、緑の男に、なんの変化もなかった。確かめるように医者を見る。医者は、強く頷いた。
次の瞬間、緑の男の喉から、絶叫がほとばしった。鉄を思い切り引っ掻いたような、大音量の、とても生きているもの出す音ではなかった。注射針の入ったところから、見る間に腕が水気を失い、皮膚が黒く、蝋のように固くなる。蝋化はあっというまに腕から首、頭、全身に広がる。男が強く身を仰け反らせるのを、医者は最後まで羽交い締めにして離さなかった。
医者が腕を解くと、緑色だった男の体がごつりと地に落ちる。黒い、固い表面がその全身を覆っていた。もう生き物にも、腐ってゆくものにも見えなかった。
「……おわり?」
信じられずに、呆然と呟く。息を荒げた医者が、もう一度頷いた。
タキは、ばっと振り返って周囲を見回す。サワの姿を探した。さっきは、この近くにいたはずだった。何を期待したのかは説明できない。仇はとった、と伝えたかったのか。それとも、もしかしたら万一、たとえば悪の根源をやっつけたら呪いが解けるみたいに。
ひどい呪いが解けて俺の知ってるきれいなサワが昼の陽を浴びて笑ってるんじゃないかとか。
思ったり、したのかもしれなくて、やっぱりこの目は特別に、素早くサワのことをくっきりと映し出す。通りの端の方に立っていた。紺のダッフルに赤いマフラーを巻いて、やっぱり死んだ目をして、左腕を上げかけては下げる痙攣を繰り返して、それから、
緑色の膚を、して。
「タキ!」
医者が、背後から強く肩を掴んだ。びくりとして、タキはそちらを振り向く。医者の目もはっきりとサワを捉えて見開かれていた。
「胞子体が、もう一体いやがる」
「うん、……うん」
せんせい、と口にしたこともない呼び名で声を揺らすと、医者が今までで一番動揺した顔をした。もしかして、と掠れた声で確かめてくる。
「あれが、お前の、『サワ』か」
「そう」
どうしよう、と、完全に途方に暮れてタキは立ち尽くす。何も考えられなかった。目の前の先生が、何かすばらしいやり方を教えてくれないだろうかと思った。
医者は、白衣の胸ポケットから、もう一本の中和剤の注射器ケースを取り出して、タキの手に握らせる。
「……頼んだ」
タキは、自分が頷いたかどうか、自信はない。
緑の男の断末魔に怯えたように、やや遠巻きになっていたゾンビの群れ。そこに、サワのほうに向かって、走り出して突っ込んでゆく。ゾンビも反応して、タキに追いすがり、腕を掴み、髪を掴み、ガチガチと歯を鳴らす。それらをタキは、今までの倍の激しさで振り払い、引きはがしてたたき落とした。一刻も早くサワのもとに辿り着きたかった。
サワの前まで来て、一瞬足を止める。周りの音が消えた。胸ポケットにしまった注射器に片手で触れる。
サワ。赤いマフラーの似合う、誰にも容赦のない、俺の片思いの、ともだち。
冬の真昼で、太陽は真上にあった。よく晴れていて空気はしびれるほどに冷たかった。ゾンビは体温がないから、どれだけ群れ集まっても暖かいということはない。サワ、と声に出して呼ぶと胸が震えて苦しくて泣き出しそうだ。けど、それはいつもサワの前に立って感じる気持ちと、何も違いはなかった。
それを、……この手で?
「タキ!」
背後から医者の、厳しい声が届く。急かされているのかとびくりとした。だが違った。ようやくタキの耳にも、上空に響き渡る、ヘリのプロペラ音が入ってきた。
はっと空を見上げる。真上より少しだけずれた公園上空。茶色の液体がまかれ、そしてそれはヘリの移動に従って、どんどん、こちらへ……。
熱風が公園の方から押し寄せた。黒煙と、化学薬品の異臭と、それから肉の焦げる匂いが混じって吹きつける。
「あ、あ ……」
やれっ、と医者の声がする。炎の気配はもうあちらこちらで上がっていた。ゾンビたちが、ある方向に揃って踏み出して、そちらが駄目になるとまた別の方向に揃って踏み出す。奇妙に揃ったその動き。
「タキ、そいつを焼かせるな、早く!」
そうだ、とタキは背筋を伸ばす。高温に晒されると、緑変した胞子体のゾンビは菌を巻き散らす、そうだ、俺は。
サワを守らなければ。
タキは、サワの手を掴んで、その場から駆け出した。
(医者)
「……あの、キチガイ ……」
緑変したゾンビの手を掴み、タキが通りから路地へと走り去る。医者は、熱風と黒煙と異臭に巻かれながら、それを見送ることしか出来なかった。アドレナリンが切れて右足首がひどく痛む。ゾンビたちが、炎のほうに優先度高く反応して、医者のことなど気にしなくなったのが不幸中の幸いだ。
右足を庇いかばい、医者も安全なほうを探して歩き出す。今度も自分は死なないかもな、とぼんやり思った。だいたい医者の幸運と生き汚さはかなりのもので、ホァンにメアリにイー・チェンにジョージが全員ゾンビになっても生き残ったぐらいだ。半年前の事件で。
(間違えるなよ ……)
もうタキには届かない願いを、煙に巻かれてふらふらする頭で、医者はただ念じる。体が新鮮な空気を求めて歩くのに、任せる。途中で自衛隊員のゾンビを見かけて、あとで覚えていたら無線を取りにこようと思う。
人間の形をして動くものに、心を見いだして、人間のように思う。
その時、心が、ほんとうはどこにあるのかを。
(間違えるな)
……間違えて、それを手放すな、タキ。
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