1――ハシゴ酒で凍死体(後)


 怒木慫矢は、名前と裏腹に全く怒らない温厚な人物だ。

 極めて柔和な中年男性。

 非常に呑気で、ときに鈍感と揶揄されることさえあった。本人もそれを自覚しているようで、何事も受け流す柳のごとき姿勢が高く評価されている。


 尤も、逆に言えば愚鈍かつ無感動でもあるらしく、マイペースさが妻の不興を買って離婚した経歴を持つ。

 ――持つのだ、が。


「離婚はしたけど、娘はぼくが引き取ったのさぁ」


 警察総合庁舎の七階、科捜研の第一化学科・化学第二係にて、当人は苦笑を湛えた。

 徳憲が鑑定依頼を申請しに訪れた際、もののついでに挨拶を投げる。


「まさか事件現場に怒木さんのお子さんがいらっしゃるなんて思いませんでした」

「住まいは実ヶ丘じゃないんだけどねぇ。大学へ行く途中の駅にあるから、そこをパート先に選んだらしいよぉ」


 笑顔で喋る怒木を見るにつけ、父子家庭は円満のようだ。

 普段からコミュンケーションも多めに取っているのだろう、相互理解の深さも窺い知れた。父と娘の場合、性別の違いで距離を置かれてもおかしくないのに。


「娘は今日も、いつも通り家を出たよぉ。早朝シフトは珍しくないからねぇ。昨夜は深夜の閉店シフトもやっていて、締めの精算をしてから帰宅したねぇ」

「今どきスーパーの閉店って、終電近いですよね……心配じゃないですか?」

「夜遅いときは迎えに行っているよぉ。本当は閉店シフトをやめさせたいけどねぇ、あまりガミガミ口出しすると家族の空気が悪くなるから避けているのさぁ」


 怒木慫矢という男の、温和で事なかれ主義な性分は、他者に過干渉しないことが中核に据えられている。

 とにかく人の領域に踏み込まない。放任、自由、個人主義。

 だからこそ円満で居られるわけだ。例え家族であっても、他人は他人。


「近頃はスーパーの廃棄品を密かにもらって来て、家計も助けられているよぉ」

「ははは、食料品店ってそういうオマケがありますね。本当は良くないんでしょうけど」

「副店長と懇意だったからねぇ。彼が娘に融通してくれていたんだよぉ」

「え……」


 副店長。

 徳憲は罰が悪くなった。

 まさにその副店長こそが、今回の被害者ガイシャだからだ。


「副店長……愎島ふくしま慶太けいたさん二五才が、凍死した状態で発見されたんです」

「らしいねぇ」ゆっくりと椅子を回して正対する怒木。「娘とは六歳違いで、ステディな仲だったんだけど、とても残念だなぁ……まだ若いのに」

「ん? 娘さんと副店長さんって、そんなに仲良しだったんですか?」

「家に連れて来て食事したりしていたよぉ。ぼくも紹介されたんでねぇ。交際していたのかも知れないなぁ」

「なんと……!」

「ぼくも驚いて、必死で店のことを調べたさぁ。店長や店員の構成、スーパー系列店の経営状態や歴史に至るまでねぇ。娘と付き合うに足る男なのか……ははは、我ながら親馬鹿だよねぇ、何ぶん唯一の肉親なもので、つい」

「いえ、気持ちは判ります」


 徳憲は相槌を打ってから、天井を仰いだ。

 現場では聞き得なかった情報だ。

 恐らく慫子自身、隠していたに違いない。こっそり付き合っていたのか。父親のみが知っていた新事実だ。


「職場恋愛ってやつですか。全く、俺でさえろくに女性と付き合ったことがないのに」


 どうでもいい劣等感を煮えたぎらせる徳憲だったが、すぐに顔を振って切り替えた。


「そうか、慫子さんが異様に青ざめて動揺していたのは、交際相手が死んでいたからでもあったんだな……!」


 彼女は顔面蒼白で震えていた。

 及び腰で、言葉も途切れがちだった。単に死体を見付けた衝撃だけでなく、恋人の死という驚天動地の現実にてられたのだ。

 気丈に意識を保っていただけでも、充分に慫子は強い女性だと言えよう。


「とはいえ、最近はあまり呼ばなくなったけどねぇ」

「そうなんですか?」

「倦怠期かなぁ? 喧嘩でもしたのかなぁ? スーパーの廃棄品は相変わらず持ち帰っていたけど、彼氏の話題はめっきり減ったねぇ」


 不仲になったのか。

 恋愛は複雑だから、いろいろあったに違いない。よもや死体で再会するとは夢にも思わなかっただろうが。


「聞き取り調査によると、副店長の愎島さんは昨晩、店長と飲みに出かけたそうです」

「酔った状態で冷凍貯蔵庫に閉じ込められたら、凍死するのも当然だねぇ」

「店長が言うには、かなり酩酊していたとのことです。だからハシゴ酒の途中で切り上げて、それぞれ帰途に就いたそうですが――」

「倉庫の鍵は事務室に一つきりだって娘から聞いたよぉ。何者かがそれを持ち出して、愎島さんを閉じ込めたことになるねぇ」

「加害者は楽だったでしょうね。何しろガイシャは酔っ払いですから、ろくに抵抗もしなかったでしょう。庫内に運んで寝かせるだけで、そのまま凍死させられますから――」



「おっ何なに? 酒の話してんのかあ?」



 ――話半ばで首を突っ込んで来る輩が居た。

 同じ化学科に勤める研究員の、慂沢ようさわ友悸ともきである。

 男やもめという言葉が似合う、うらぶれた壮年男性で、酒焼けした赤ら顔が特徴だ。無精ひげ、寝癖そのままの頭髪、まぶたは常に酔っ払ったような半眼、酒を飲んでいないのに体臭は酒の匂いが染み付いている。


「三度の飯より酒が好き! 酒代を稼ぐために働いているオレサマを差し置いて、酒に酔った会話なんかしてるんじゃあねえぞお?」


 蓮っ葉な語気で話しかけて来るこの男は、徳憲にも遠慮なく絡んで来た。

 徳憲も、こういう人物は嫌いではない。裏表がないので気を置けないし、フレンドリーで捜査協力もしやすいのだ。

 いざというときは酒を奢れば簡単に乗ってくれる、という点も付き合いやすい。


 ただし酒乱には違いなく、絡み上戸かつ陽気な世話好きでもあるため、酒癖の悪さから女性には人気がない。

 本人も完全に割り切って「女なんぞに金かけるより、酒と飯に費やした方が有意義だ。自分の血肉になるからなあ」と豪語している。

 もう四〇歳近いのに独身貴族を気取っているのも、そんな性格ゆえだろう。


「アルコール検査ならオレサマが詳しく見てやんよお? 死体の胃袋から血液まで、はたまたコップの容器からビール瓶まで、酒が付着した物質ならくまなくさあ!」


 彼の属する第二化学科・化学第四係は、薬物やアルコールの鑑定に一日の長がある。

 麻薬や毒物、睡眠薬と言った、人体に影響のある物質の化学反応を調べることもある。

 酒好きな男がアルコール分析を生業にするのも因果な話だが、彼自身が望んでこの職業に就いたのだから、これぞ天職と言うのだろう。


「じゃあ死体をこちらへ回すよう手配しておきます」


 鑑定依頼の手続きをすべく、徳憲は入口へ引き返した。

 後方から慂沢が「頼むぜえ兄弟?」と手を振っていたが、彼と兄弟の血縁はないし契りも交わしていない。

 シラフなのにもう酔っているような口を利くのが、彼の特徴だ。


「徳憲くんはどうするのさぁ?」


 怒木とすれ違う寸前、呼び止められた。

 徳憲は立ち止まって、肩越しに怒木へ振り返る。


「俺はもう一度、ガイシャの行動を洗い直します。警察は足で稼ぐものですからね。聞き込みと目撃証言を追いますよ」

「そうかぁ。無理しないようにねぇ」


 副店長の前足――事件に至るまでの行動や移動経緯――を探るのだ。

 ついでに店での評判、店長や店員たちとの親密度など、恨まれるような動機はなかったかなど、調べたいことは山積していた。




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