1-8 月は血に濡れて -Blood rain-
正確に何時それが始まったのか知る者は限られている。私はそれについてあまり多くを知らない。
メセト・メセナ期の初期の石碑には既にその争いについての記述があったという。今から約三十七億年前の事らしい。
当時の言語を正確に翻訳するのは難しいが、背に翼のある異形と黒い獣たちの戦いがその起源であるという。
戦いは長期に渡って続いて、最終的解決のために巨大な筒を用いて、神の声を伝えたという。たちどころに黒い獣たちは退散して、月に平穏がもたらされた。
やがて神と翼の異形は何処かへ姿を消し、残された人々はこの争いを二度と繰り返さないよう約定を設けた。
これがネル・ハ・カーヌの戒めと呼ばれる法である。これにより長きに渡り平和な時代が続いたが、ムロ期イバ王朝の時代に各地で反乱が起こった。
各国の王たちが蜂起したのだ。その影に黒い獣の姿があったという。それ以来争いは絶えず続いた。
時は流れて、現代。
相変わらず戦いの中にあった月の情勢を揺るがす噂が広がった。かつて黒い獣を退けたという巨大な筒が発見されたというのだ。
それは赤の月の衛星軌道上にあり、まだ起動が可能らしい。
その操作には三つのトライアングルが必要とされ、内一つがカネルハに封印されているという。つまりは現在のリネウスにだ。
即座に軍を動かしたメガリスに占領されたリネウスだが、トライアングルが見つかったのかは定かではない。銀の月、黄金の月からも軍が押し寄せ、メガリスとの乱戦に突入したという。
「――私が知っているのはそれくらいです」
リストは白い花に視線を落として、ぽろりと涙を零した。
「……大変興味深いお話でした。私が筆記者を引き継いで以来の衝撃的な内容です」
ベルドリッジは羽根ペンをスタンドに差して、ふぅーっ、と興奮気味に息を吐いた。俺はリストの手をそっと握って、憂い顔で横顔を覗く。
「申し訳ありませんが、今日はこれでお引き取り下さい。話の内容について思索したいので」
言うが早いかベルドリッジは別の本を開いて、恐ろしい程の速さで読み始めている。俺は立ち上がって、鞘の帯を締めた。ゆっくりと扉の方へ動き始める。
「ああ、そうそう。ビッグボアは大変良い味でした。お礼と言っては何ですが、フゼの最後の足取りについて教えておきましょう」
俺はぎょっとして、ぴたりと足が止まった。振り返って、ベルドリッジの顔を凝視する。
「下です。村の下で何かを見つけたようだ」
こちらに目線を送らずにベルドリッジが語る。俺は黙礼して、リストと一緒に部屋から出た。ビラーノが扉を閉める。
「本日は当館へお越し頂いてありがとうございました。これはささやかですが、お土産となります」
ビラーノに包みを渡された。重箱のような物が中に入っているようだが。
「ビッグボアの肉を調理致しました。お口に合えば幸いです」
なるほど重箱だったようだ。ありがたく頂戴しよう。
俺はビラーノに目礼して、リストと一緒に屋敷を出た。
何処に足を運ぼうか? 行く当ても無い。
「少し、村を散策しようか」
そういえば案内がまだだったと気が付いて言ってみた。
「ええ。この村の事もっとよく知りたいです」
リストは幾らか元気を取り戻したのか、微笑を浮かべている。出歩けるのは赤の陣営だけだが、まあ、いいだろう。
皆に紹介がてらぶらぶらと歩こう。五番区には確かテムの店があったか。あそこには剣の稽古の時以来顔を出していない。マスターは元気だろうか? いや、元気に違いないが。不死だしな。
俺は自嘲的な笑みを浮かべながら埃っぽい道を行く。
目抜き通りから一本外れたここは一応高級住宅地に入るはずだが、道行く子供たちの格好はお世辞にも整っているとは言えない。貧困だ。
ここに来て、仕事らしい仕事は世話して貰えるはずだが、馴染めない子供たちも少なからずいる。俺もその一人だったからよく分かる。皆腹ペコだ。
「あ……良い匂い」
七歳くらいの魚みたいな顔の女の子が指を咥えている。それに釣られるように周囲の子供たちも俺の重箱に視線を集中させた。目が釘付けで離れない。
俺はリストに視線を送り、無言で許しを求めた。リストは目礼で答えてくれた。
魚みたいな顔の女の子に重箱を渡してあげた。わっと子供たちが集まってきて、歓喜の声が割れんばかりに響く。こんな事ならもっとお土産を貰えば良かったか。これが最後という訳ではないし、次もあるさ。
俺は快活に笑って、リストの手を引いた。
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