千年王国９７８年目、崩壊の前兆と愛について

◎終わりの日の跡

　霊者には二種類いる。

　天使と悪魔だ。

　人間も二種類？　いや、正確には三種類ある。

　まず、厭世家。これは、ハルマゲドンより前から生きている人たち。

　神に選ばれ、善人のお墨付きをもらった人間だ。

　じゃあ、ハルマゲドンの後に生まれた人間は、なんと呼ばれるか。厭世家とちがってこっちは数が多いから、わざわざ言葉は必要とされない。けれど、言葉がないわけではない。彼らは厭世家から、「無垢な人」という呼ばれ方をする。

　すれた世を知らない、幸せな楽園しか知らない、無垢な人たち。屈託がなく、無邪気で素直。神の王国は、まさにそんな子どもたちのためにある。

　彼らは祝福された子どもたちだ。だけど無垢な人は、見方を変えれば、裁きを受けていない人間でもある。彼らはときどき迷う。だから、無垢な人は二つに分かれる。これは霊者の分け方と似ている。つまり、善か悪か。

　善い人間は、信者と呼ばれ。

　悪い人間は、迷子と呼ばれる。

　ガルと守護者の家に歩いていたとき、私は間違いなく信者だった。神を疑わず、愛に生きる、正しい信者。じゃあ、迷子たちに拉致されてトーキョーに向かう私は？

　最悪だ。

　私は迷子かもしれない。

　意志の弱い人間。堕落した女。臆病者。

　悪魔のささやきにだまされて、引きずりおろされているのに気付きもしない、哀れな人。

　それが迷子だ。

「あのさー。下ばっか見てたら、酔うよ？」

　ねっとりした言い方が鼻につく。下を向く原因は、これ。

　私の隣にどっかりと腰かけ、片足を椅子の上に立てている男。私と同じくらい背が低いのに（まあ、これはおおげさだ。たぶん五センチはあっちのほうが高い。残念ながら）逆らえない威圧感がある。その正体は考えるまでもない。バスが揺れるたびに乾いた音を立てる、猟銃。そのせいで、私は顔を上げられない。

「あー、もー、コタロー。腹減ったよー」

　巨大な体をなんとか運転席に押し込み、バスを走らせている太った男が、文句を言った。

　バスはノンストップで東に向かっている。山あいに残る道ぞいには点々と人の住む家がある。猛スピードで走るバスを、誰もが怪訝な顔で見送るだろう。あんなに急いで、どうしたんだろう、といって。迷子たちがバスジャックをしているなどとは思わない。そんなひどいことをする人間がいるなんて、思いもしない。

　だって彼らは無垢だから。悪いことをする人間がいると聞かされても、首をかしげて、ぴんとこない顔をするだけだ。そしてこう言うだろう。「守護者の家に行ったら、きっと悔い改めるよ」とかなんとか。

「コタロー。腹減ったってば。なんか食いもんないの？　なあ、まじで」

「うるっさいなあ」

　コタローと呼ばれた猟銃の男が、乗せていた足をおろして床を蹴った。思わずびくっとする。それでも、顔は上げない。

「ほら、人質さんが怖がってるだろ。おまえはしっかり前だけ見てろ」

「エネルギーがもたないよ。なあイトナ、なんか持ってない？」

　一瞬の間。おそらく、スーツの男が首をふるなりしたのだろう。運転席から、太った男の大きなため息が響く。

　コタローがゲラゲラ笑い、反対の足を持ち上げて膝を立てたのが伝わった。隣にいるからわかってしまうのだ。本当は、ひたすら無関心でいたいのに。

「イトナの言うとおりだ、ガズラ。あと二十分もすりゃ境界だろ。腹はすかしとけ」

「無理だよ、もうおれ、ホント疲れたもん……いてっ！　何すんだよ、イトナ！」

「はは、前見て運転しろってさ」

　ちょんと肩をつつかれた。私はじっと、握った自分の手だけ見つめている。

「おまえ、もしかして祈ってんの？」

　無視しようかと思った。これまでずっとそうしてきたみたいに。でも、私はしばらく考えて、首をふった。

「あっそー。祈っててもいーのよ？　つか、そうしてくれなきゃ困る。人質として使えねーじゃん」

　私はますます強くこぶしを握りしめた。急に男の手が伸びて、私の両手を引きはがした。私は面食らって顔を上げた。

「何すんのよ！」

「それ以上握りしめたら血出るだろ。おまえ、まあまあ爪長いし」

　コタローはにっと笑って、自分のほっぺたをつついた。

「ほら、笑えって。かわいい顔が台無し。なーイトナ？」

　運転席の横に寄りかかっていたスーツの男は、相変わらずひと言も喋らない。ただじっと、冷たい目でこちらを見てくる。うすら寒くて、身震いした。

「あ、なんだ、寒いの？　つかおまえ、よく見たらノースリーブじゃん」

「……大丈夫です……」

「あのへんって、夜だとガチで寒くなる避暑地だぜ？　それで映画観ようと思ってたの？」

「……」

「おい、無視すんなよ」

　私はそっぽを向く。窓の景色がすっかり変わっていた。緑が減り、荒廃した雰囲気になっている。空は琥珀色に変わり、日が落ちる。コタローはしばらく黙っていたけれど、急に動いた。服がこすれる音がして、金属音とファスナーをおろす音が続く。いやな予感がして、思わずふり向いた。

　コタローは猟銃をおろして前の座席に立てかけ、上着を脱いでいた。白の長袖シャツ姿でにやっと笑い、私の背に革ジャンを引っかける。

「ちょっ、やめてよ！」

「へえ、気が強いね。上出来、上出来。その調子で神に助けを求めてよ」

　へらへら笑って、前の座席の背もたれに肘をかけ、頬杖をつく。

「運がよけりゃ、天使が迎えに来てくれる」

　のんびりと、まるで心から望んでいるように、そう言った。

　気味が悪かった。

　こいつ、迷子のくせに、何言ってんの？　天使が来たら、こいつらには髪の毛一本分も、勝ち目はないのに。自分の立場を悪くするだけ。それがわからないの？

　ああ、そうか。

　わからないから、迷子なんだ。

　私は顔を背けた。背にかけられた革ジャンを床に脱ぎ捨てることも考えたけれど、怖くてとてもできなかった。迷子は頭がおかしい。怒ったら何をしでかすか、わかったもんじゃない。殴られるのか、蹴られるのか。それはどれくらい、痛いのかな。

「ああ、そうだ。もうすぐエデンの外に出るわけだけど、ひとつ約束してくんないかな」

　日は地平線の下へ落ち、あたりは闇に包まれはじめていた。終わりの日に建てられた四角四面な建物が視界の中に転がりはじめ、コンクリートと汚れた土が手つかずの緑におおわれている。こんなところまで、来たことがない。この先は、悪魔の巣窟？

「おい、聞けよ」

　コタローの手が私のあごをつかんだ。その黒い瞳と、目が合う。

「間違っても、『迷子』にはなるな」

「……は？」

　背すじに、生あたたかくて不快なものが這っていく感覚。男は笑っているのに、その目は全然、笑っていない。

「迷子だと、人質の価値が下がっちゃうだろ？」

　にっこりと、首をかしげてそう言われた。

　私は何も言えなかった。コタローは立ち上がると、猟銃を肩に引っかけ、背もたれを支えにしながら前へ歩いていく。

「見えてきたな」

「おう」

　コタローとガズラの声に、私は目を上げた。

　空には星がまたたきはじめ、しんしんと夜がふっている。透き通った闇の中には明るさが残っていて、遠目にも、地平線や建物の輪郭がはっきり見える。

　バスが向かう先にシルエットが浮かび上がっていた。巨大な建造物。左右にどこまでも伸びて、地上に境界を刻んでいた。こっちとあっちを分断する、どこまでも続く巨大な柵。柵に向かってバスが突っ走る。

　じっと見ていると、得体の知れない悪寒が走った。あれは迷子たちを囲っている柵なの？　それとも、信者たちを囲う檻？

　シルエットに途切れが見えた。門だ。荒廃した大地が、迷いこんだ人間を飲み込もうと口を開けている。歯がカタカタと鳴り出した。私、本当にエデンの外に行ってしまうの？　ここから外へ？　悪魔と迷子のはびこる世界へ？

　無理だ。

　行けない。

　生まれてから――といっても、たった２７年だけど――私は無垢な信者だった。天使の死に遭遇した？　あんなの、私のせいじゃない！　人間が霊者を殺せるはずないのだから。私は「信者」だ。「外」へなんか、行けるもんか！

　急に立ち上がったので、目の前が真っ暗になった。だけど、かまうもんか。手探りで椅子の背もたれに触れ、歩く。二、三歩で視界はすぐに戻った。バスの前方で、スーツの男が背筋を伸ばし、コタローが気付いてふり返る。

「なんだよ、怖じ気づいたのか？」

　コタローは銃を手に持ち直した。銃口は下を向いているけれど、引き金に指がかけられている。

「さっさと席に戻れ。境界を超えるときに舌噛むぞ」

　私は動かなかった。乗客が次々と飛び降りたあのドアまで、一メートルもない。

「おい。聞こえてねーのか」

「聞こえてる」

　短く答えた。コタローが銃をちょっと上げる。

「なら従え。撃ち殺されたいのか？」

　バスのスピードが落ちた。コタローが舌打ちする。

「おいガズラ、スピード上げろ！」

「無理だよ、『境界』なんだ。あんまり速いと、はね飛ばされる」

「くっそ。おい、ドアから離れろ」

「迷子の命令なんかきかない」

　言うがはやいか、私は動いた。ロックをはずし、ドアが勢いよく開く。

「コタロー、おれ、停まらないよ。はやく帰って、なんでもいいから食べたいんだ」

「くそっ！」

　飛び降りる私の腕を、コタローがつかむ。

　次の瞬間、私とコタローはバスから転げ落ち、もんどりうって丸まった。固い地面がほこりを巻き上げ、手に、肩に、背中に、石のかけらが食い込む。

　想像より痛い。でも、死んではいない。

　バスは吸い込まれるように境界を越えると、速度を上げて走り去った。

　痛みをこらえて地面に手をつき、身を起こす。やばい、ホントに痛い。三メートルも離れていないところにコタローを発見して、ぎょっとした。力をふりしぼり、立ち上がる。だけど走り出す前に足をつかまれ、つんのめって倒れた。

　コタローが馬乗りになって腕をつかんでくる。私はバシバシ叩いて抵抗した。これまで出したこともないような、悲鳴とも雄叫びともつかない声が自分の喉からひり出されて、びっくりした。コタローもうなり声を上げながら、私を殴った。

　不思議と痛みがなかった。これがアドレナリンってやつ？　ずいぶん心強いじゃない。身をよじり、蹴っ飛ばし、つばを吐く。どけ、どけ、どけ！　私の前から消えろ、犯罪者！

　五分の格闘の末、勝利した人間がゆらりと立ち上がった。

　コタローがゼイゼイと私の髪をわしづかみにし、門へ向かって歩きはじめた。引きずられながら、私はわめいた。

「神様！　天使様、助けて！　迷子です、心の汚い迷子が私をさらおうとしてる！　お願い助けて！　聞こえますか？　神様ーっ！」

「神ってのがなんなのか、教えてやろーか！」

　急に立ち止まり、コタローが吠えた。

「祈っても無視する奴だ、くそったれ！」

　ののしりながら私を蹴っ飛ばし、境界を越えた。それでもまだ心配だといわんばかりに、コタローは５０メートルも私を引きずり続け、そこでやっと手を離した。私は門に向かって走り出した。でも、コタローにつかまるほうが早かった。私はまた引きずり倒され、蹴られた。

　コタローは「返せっ！」と言って、自分で貸してくれた革ジャンをひっぺがした。もう一度蹴って私を地面になすり付けてから、手首を踏みつけ、動きを封じる。銃を持ち直し、革ジャンを着こむコタロー。踏まれた手首が引きつるように痛む。皮膚がやぶけてしまう気がした。動けない。涙が出た。

「てめーのせいで、ガズラに置いてかれたじゃねーか、クソ女」

「帰して……帰してよ！」

「うるせー。目ん玉えぐり取られたいのか、サムソンみたいに？」

「嫌だ、嫌だ、嫌だ……神様！　天使様……」

「黙れ。もう聞こえやしねーよ。ここはもう『外』だ」

　コタローは踏んでいた私の手首をつかむと、荒っぽく立たせた。涙が止まらない。顔をゆがめながら首をふった。怖い。嫌だ。こんなところにいたら、殺される。

「嫌だ……いやだよ……ガル……おかあさん……」

「それみろ」

　コタローは吐き捨てるように言った。

「そっちの名前のほうが、大事なんだろ」

　コタローの言葉の意味はわからなかった。ただ、私はたった今、安全から切り離された。そう感じた。

　暗くて冷たい、廃墟の町。広大で、荒廃した、過去の大都市。終わりの日の遺物。隣には、粗野で気まぐれな、狂った男が私を捕まえている。

　エデンの外。

　トーキョーに、迷い込んでしまった。