◎ギャンブル
誰も何も言わなかった。
誰もが目を閉じ、うつむいて、神に祈った――私以外は。
私はとてもそんな気分じゃなかった。今の自分に、祈るだけの価値はないように思えた。神に助けてもらうだけの権利があるようには、どうしても思えない。
だって、私のせいで、天使が死んだかもしれない。
太った男は運転席にどっかりと座り込み、鼻歌を歌いながらギアを動かした。バスがガクンと揺れ、悲鳴が上がる。バスは前へ進んでいたより速いスピードでバックした。カーブを抜け、ゆるい坂道をものすごい勢いでくだっていく。
赤毛の運転手が叫び、太った男は歓声を上げた。まるでブランコにはしゃぐ、子どもみたいに。砂利道に近いでこぼこの道を、ときどき歩道に乗り上げながら、バスはバックでくだっていく。
私は叫んだ。
死ぬ。
はじめてそう思った。
「いやだねー、この人たちときたら、困ったことがあるとすーぐお上に助けを求めるんだから」
がたがた揺れる混乱の車内で、のんきな声が響いた。
猟銃を背負った男が、つり革を両手でつかんで体重をあずけている。バスが巨大な凶器となって坂を疾走している中、涼しい顔をして。人々が身をかがめて祈るのを、しらけた目で見おろし、全員に聞こえるような大声で言った。
「ちったあ自分の力で乗り越えることを学んじゃどうかね? なあ、イトナ?」
私は舌を噛まないように口をぐっと結んで、顔を上げた。
猟銃を持った男はバスの前方へ顔を向けていて、表情は見えない。運転席では太った男が窓から顔を出しながらバスをバックしている。そのとなりの柱に寄りかかるようにして立つ、スーツの男。冷たい目をしたその男は、銃の男にちらりと目を向けて肩をすくめた。
森を抜けて、畑との境界に出た。ここで道は十字路になっている。太った男がスピードを変えずにハンドルを左に切り、ことさら悲鳴が上がった。バスが傾き、右側のタイヤが宙に浮かんだ。ずしり、と四つのタイヤが地面を捕まえたとき、私はこらえきれずに息をついた。
やばい。吐きそう。
バスは進路を南から東に変えて(バックする前は、北へ向かっていた)再び暴走を再開した。今度は前方に走っていたのが、せめてもの救いだ。
「いったい、どういうつもりですか。何が目的なんです?」
誰かが震えた声で言った。座席に追いやられた赤毛の運転手が半分立ち上がって、スーツの男にすがるように問いかけていた。
「こんなことをして何になります。一緒に守護者の家へ行きましょう。神は迷子たちを導いてくださいます」
「あーっと、ごめんね、おにいさん。そっちに話しかけても無駄」
猟銃の男がのんきな声でさえぎった。
「質問があったらおれにしてくれる? 悪いね」
赤毛の運転手は猟銃の男を見た。その顔には、「あなたとは話したくない」という感情がありありと見て取れた。
「ごねんねー。ただね、そいつはとーっても口が重いのよ。君ら善人さんとちがって、迷子はちょっとばかし、面倒くさいのが多くってさ」
「お願いですから、他の乗客たちを降ろしてください」
赤毛の運転手はきっぱりと言った。正義感にあふれて、悪に屈しない、堂々とした物言いだった。
「こんなことをして、神が悲しまれます」
「だろうね」
猟銃の男はつり革から手を離したかと思うと、くるりと振り返って、バスの真ん中にあるドアを開けた。手動のドアは外側に開き、風圧でバスの側面に勢いよくぶつかった。近くに座っていたポニーテールの女の人が、小さく悲鳴を上げた。
「あ、ごめん。びっくりした?」
猟銃の男はとぼけた顔で女の人へ声をかける。赤毛の運転手が顔をしかめた。
「なんのつもりですか?」
「うん、だからさあ、降りてもいいよ」
男はバスの乗客をぐるりと見回した。とてもいい笑顔で。
「お降りのお客様はいらっしゃいますかあ? どうぞどうぞ、降りてくださいよ。怪我したってどうせ治るだろ? 運悪く死んじゃっても、本当に神を愛してれば、また復活できるだろーし。さ、遠慮はいらない。一人ずつ、順番だぜ」
「おい、やめろよ、コタロー」
非難がましい声を上げたのは、荒っぽい運転を続けている、太った男だった。
「この人たち、超善人ばっかなんだろ。そんな提案したら、一人残らずバスから飛び降りちゃうよ。せっかくここまで来たのに」
スーツの男が、そのとおりだ、と言わんばかりにうなずいた。だけど、猟銃の男は目をらんらんと輝かせ、しんとした乗客たちを見渡した。
「そうなのか? おまえら、そんなに善い人間なのか?」
一歩前に出て、一人一人、顔を見る。目をのぞき込む。
「まじで? ほんとに? 一人残らず神を愛してるってのか? 嘘だろ、おい。本当にそうなら、見せてくれ。疑り深いおれに、真実の愛ってやつを理解させてくれよ」
「やめろよ、コタロー」
「いいや、おれは本気で知りたいんだ。この目で見てみたい。なあ、心の底から神を信じてるのは何人だ? 信じてるって、存在を知ってるって意味じゃないぜ。確実に、完全に、信頼してるって意味だ。でないと、悪魔だって神を信じてることになっちまうんだからな。おい、このバスに乗ってるのは何人だ。にい、しい、ろ、や、9人か。よし」
「もう、コタロー、今度はなんのつもりだよ」
太った男はぶつぶつ言いながらカーブの道を突き進んでいく。遠心力が働いて、悲鳴が上がる。映画祭の会場は、はるか後方だ。
「いったい何人、痛みを恐れずに飛び降りることができると思う? なあ、賭けをしようぜーーおれは、そうだな、3人だ。おまえは?」
ぴりりとした空気が流れた。赤毛の運転手が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「神の愛を試そうだなんて、よくもそんなことをーー!」
「おっと、勘違いすんなよ。おれが試してるのは神じゃなくておまえらの愛だ。なあガズラ、おまえは何人だと思う?」
「9人中だろ? こいつらみんな、『信者』だろ?」
ハンドルを握ったまま、太った男がぶっきらぼうな大声を返す。
「9人。あーあ、まーた人質を調達し直さなきゃならないじゃん。めんどうくさいなあ、もう」
「9人、全員か。よしイトナ、おまえは?」
イトナと呼ばれたスーツの男は、ゆっくりと一人一人の顔を見ていった。近くの人間から順に。赤毛の運転手、三つ編みを頭に乗せたそっくりの姉妹、あたたかそうなベストを着た男の人、楽しげに映画の話をしていた三人組の男の人たち、おりたたみ自転車を持ち込んだポニーテールの女の人、そして最後に、私をじっと見た。
スーツの男は片手を上げ、手を広げて示した。それを見て、猟銃の男がすっとんきょうな声を出す。
「5人?」
そのあと、スーツの男はいったん手を握って、また指を立てた。その数は、三本。
「8人か。オーケー、おまえはこの中の一人だけ、尻込みするって予想だな?」
猟銃の男はぱちんと威勢よく手を叩き、そのまま両手をこすり合わせて、にやっと笑った。
「さあて、じゃあ、もう少し飛び降りやすくしてやろう。おれたちはこれから2、3時間ばかしドライブするわけだが、目的地の話をしないとな。どこだか、当てたい奴はいるか? ヒントはな、間違っても、『守護者の家』じゃないぜ」
赤毛の運転手が、またしても叫んだ。
「あなたたちに踊らされるようなことはしない! このバスに乗った人々は、誰一人、怪我を負うこともなければ命の危険にさらされたりもしない。すぐに天使たちがあなたたちに気付いてーー」
「まあまあ、最後まで聞けよ」
猟銃の男はちょっとうざったそうに首をかしげた。
「年長者の言うことは、黙って聞くもんだぜ?」
「私は、二世だ!」
猟銃の男が、ひゅうと口笛を吹くのが聞こえた。ああ、やっぱり。二世ってことは、厭世家の息子。ということは、900歳か、800歳くらいなんだろう。思ったとおり、長生きをしている人だった。
太った男がケラケラ笑った。
「二世だってさ。イトナと一緒じゃん」
スーツの男は黙っていた。赤毛の運転手にちらりと目を向けたかと思うと、まるで興味はなさそうに、冷たい目をバスの進行方向へ向けた。バスに乗っていた三人組の一人が、まじかよ、と声を上げた。
「あいつも二世? なんで迷子なんかといるんだ」
「ああ? 二世に迷子がいちゃ悪いのかよ」
猟銃の男が三人組を睨みつける。赤毛の運転手はこぶしを握った。
「祈るべきだ」
小さな声だったけれど、その声は芯を持ってバスの乗客全員に届いた。三つ編みを頭に乗せた姉妹が、身を寄せ合ってすすり泣きをもらした。
「きみたちは……もう一度、一度でいいから、祈るべきだ。そうすれば、きっと救ってくださる。神は決して、見捨てたりはなさらない」
「うん、それね。聞き飽きた」
猟銃の男は、これ以上ないくらいの爽やかさで、にこっと笑った。
寒気がした。まるで言葉が届いていない、悪魔かなにかに語りかけているようだった。どんなに愛を注いでも、一滴たりともしみ込まず、はじけてしまう傘を持っている人に話しかけているような。どんなに救いたくても、命綱を自ら切り落としてしまう人に、何度もロープを投げつけているような。
「なあ、誰も当てる気はないのかな? このバスがどこに向かってんのか、誰もわからない?」
猟銃の男は乗客を見回した。ぼりぼりと頭をかき、肩をすくめる。
「好奇心がないってのは、つまらんなあ」
赤毛の運転手は首をふってうつむいた。猟銃の男はにっと笑った。
「じゃあ、教えてやるよ。このバスはおれのホーム、トーキョーに向かってまーす」
バスがしんとなった。これ以上、冷えきるなんて不可能だと思ったのに。人々は凍りつき、それを見て喜んでいる猟銃の男は、ひどく心の冷たい悪魔に見えた。
――もしかしたら、この男は。
本当に悪魔なのかもしれない。
猟銃を背負った男はふざけたときに親しい人にやるように、運転手の鼻をちょんとつついて、あははと笑った。
「そんな、この世の終わりみたいな顔して絶句すんなって。そ、皆さんご存知、『エデンの外』へご案内しようって話だよ。悪魔がごろごろいて、迷子はもっとたくさんいて、臭くて汚くてゴミみたいな場所。連中を導くために天使や厭世家がやってくるけど、それだって担当決めて、なるべく行かなくてもいいように順番決めてる。ようするに、天使でさえ行きたかないってこった。『ベール』のせいで、祈りはエデンに届かないしな。ま、神なら聞き届けてくれるかも知らんけど、天使とちがって奴の腰の重さは周知の事実だろ?」
猛スピードで進むバスがうるさい音を立てていても、人々の静寂は不思議と聞き取れた。赤毛の運転手は、たった今まで赤らめていた顔を蒼白にし、三つ編みの姉妹たちはお互いを抱きすくめ、三人組の男たちは不安げに目を見交わした。
猟銃の男は赤毛の運転手に向かってうやうやしくお辞儀をし、開いたままのドアを示した。
「さあどうぞ、二世様。あんたから降りるのがふさわしい。子らのお手本になってやれ」
すすり泣きが聞こえ、誰かが「やめろ」と叫んだ。赤毛の運転手は唇を引き結び、意を決したように立ち上がると、乗客を見渡した。
「申し訳なかった」
誰かが、ちがうよ、と小声で言った。そう、ちがう。この人には、何も謝る必要がない。
「一本ちがう、別の道もあったんだ。そちらを通っていれば、こんなことには……」
赤毛の運転手は猟銃の男と、スーツの男と、太った男を見て、それから顔をしかめ、私たちを見た。
「みなさん。ここで意地を張って「外」へ連れて行かれるか、迷子たちのお遊びに付き合って神への愛を見せつけるか。私は、降りたほうが賢明だと思う。だが、どうか、自分の意志で決めていただきたい。私たちはみな、自由意志を持っているのだから」
猟銃の男が、ぱちぱちと手を叩く。
「いいこと言うねえ。おれ、泣きそう」
赤毛の運転手は顔をしかめて首をふりーーバスから飛び降りた。
心臓が、どくんと鳴った。
落ちた。
ほんとに。
「ひえー! 本当に降りたよ、あの人。馬鹿だねー」
猟銃の男がドアから身を乗り出し、「大丈夫かー」と叫ぶ。私もとっさに振り向いた。道の端を、あの運転手が転げていく。どこかを打ち付けて、すぐに動かなくなる。バスのスピードが速いせいですぐに小さくなったけれど、視界からは消えない。動かない。遠目にもわかる。
「はい、じゃあ、二世さんのスピーチに感動した人から、お次をどーぞ」
猟銃の男がからかうように言った。
三人組の男たちが立ち上がり、猟銃の男の前に立った。猟銃の男は背が低く、三人組に囲まれると、後ろからは見えない。何かを話しているけれど、三人組のほうは、小さな声で聞き取れない。ときどき、猟銃の男が「そりゃまた大変だね」とか「あー、さいですか」と、半分聞き流すような相づちを打っている。
三人組はこちらを振り向き、まじめくさった顔で「祈りましょう」と言った。そして、ドアに向かう。
猟銃の男が、あわてて一歩、前に出た。
「ちょ、ちょっと待ってよ、おにいさんがた。あんたらが三人降りたら、もうそれで四人になっちゃうだろが」
三人のうち、一人が眉を寄せた。一人はもう、飛び降りている。
「だからさ、おれが賭けに負けるっての!」
「賭博は終わりの日の悪しき風習だ」
もう一人、飛び降りた。猟銃の男が気の抜けた声を出す。
「あっそう」
そして最後の一人も、なんのためらいもなく、飛び降りた。
次々と人が立ち上がり、赤毛の運転手の後を追った。田舎の道を、次々と信者たちが転げ落ちていく。彼らは飛び降りる前、「神よ、お守りください」とつぶやき、体を丸めて飛び降りる。
「ちぇっ、なんだよ、次々飛び降りやがる。これじゃ、ガズラの勝ちかー?」
「へん、だから言ったじゃないか。帰ったら肉おごれよ。どうせまたすぐ、人質かき集めに来なきゃならないんだからさあ」
おりたたみ自転車を乗せてきた女性が、先に自転車を落とし、私を見た。残っているのは、もうこの二人だけだった。
「お先」
彼女はにこっと笑って、体を折り曲げ、頭を守る体勢をとってバスから身を投げた。そして、私は一人になった。
私は動かない。
一番後ろの席に座ったまま、じっとしていた。降りようとも思わなかった。
彼らはーー飛び降りた人たちは、確信していたんだ。自分の愛を、神への信仰を信じていた。自分の意志を、疑いもしなかった。愛があれば、神は必ず応えてくれる。見守ってくれる。
私も神を信じている。信頼していると言ってもいい。だからわかる。神は見捨てないだろう。愛があれば。信仰心さえあれば。
でも、私は。
「あっれー?」
猟銃の男が、ぶはっと吹き出して私を見た。
「おい、一人、残っちゃったよ! まさか、嘘だろ? この流れで、逆にすげー勇気」
スーツの男が手を動かした。私にはさっぱりわからなかったけれど、どうやら何か意味のある合図だったらしい。猟銃の男はそれを見て、ははっと笑った。
「まあな、日本人だったら絶対飛び降りんだけどね。さすが海外の方は個人主義的でいらっしゃる。頭が上がらないわー」
もう一度、スーツの男が手を動かした。さっきよりも短く。
「あー、そうだな。おまえの勝ちだ、イトナ」
猟銃の男は振り返って、開け放したドアから身を乗り出し、ぐっと引いて扉を閉めた。
騒音がほんの少し、静まった。そして私は一人きり。
頭のおかしい迷子たちのただ中に取り残された。
怖くなかったと言えば嘘になる。
だけど、他にどうしたらいい?
どうせ映画祭の会場に着いたら、今度はもっと遠くへ向かって走り出していたに違いないんだ。私は遠くへ向かっていた。できるだけ遠くへ。だったら、その先がどこだろうと、かまわない。それに、本当はわかっていたんだ。
私は、きっと神に見捨てられるだろうって。
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