第9話

「折角ですし、すこしデートしませんか」

 シェルツは私の病室でにこりと笑顔を見せながら、そう告げた。その身体の前には車椅子、シートには丁度尾てい骨の部分に空間が出来たシートが付けられていて思わず「準備が良いな」と言葉がこぼれる。「こう見えても医者ですからね」そう笑ったシェルツは、慣れた手つきで私を車椅子へと移すのだ。

「そこまでやらんでも、移動くらいは出来るぞ」

 そんな事を彼に告げれば「僕がやりたいんですよ」と笑顔で返される。先日の口論は何処へやら、シェルツはその事を蒸し返す事もなく私が乗った車椅子を静かに押し始めるのだ。


「アマネさん」

 何も言わず静かに車椅子を押し続けていた彼が私に声を掛けたのは、その車椅子が院内にあるカフェテリアに入った時だった。そこは入院患者やその家族、通院している者や休憩中の病院の医師や職員たちで賑わっていた。そんな中を彼は器用に車椅子を押し、奥まっている人の少ないエリアへと入っていくのだ。彼の呼びかけに、私は振り向くこともせず「何だ」と返す。視界の横にはガラス張りの宇宙が見える。シェルツは私の座る車椅子を窓の前に停めれば、そのまま口を開く。漆黒の宇宙はそのガラス窓を鏡のようにし、私はガラスに映るシェルツの姿をじっと見つめていた。彼は彼で、ガラスに映る自分と私を見ているのだろう。

「僕があなたの隣に立つ事を、どうすれば許してもらえますか?」

 静かに私へ問いかける彼に、私は小さく首を横に振る。「お前には他にも選び放題だろ、紳士だし、将来有望だし、それに顔が良い」冗談を言うトーンに口元だけで笑いながらそう返せば、「揚げ足を取らないでください」とピシャリと返される。

「揚げ足くらい取らせろ。それに、最初から押し切られただけで、元々付き合う気は無かったんだ」

 苦し紛れにそう答えれば「じゃぁ、何もしなければよかったじゃないですか。聞きましたよ、あなたが此処に運び込まれる前に携帯で誰かと連絡取ろうとしたって。それが僕との約束の話じゃないかって」会いたくなかったら来なくていいって、あきらめるって、言いましたよね。と彼は重ね車椅子がぎしりと小さくきしむ音を立てた。そんな彼の言葉に私は何も返せずに、ガラスに映る彼から視線を外し、膝の上に握りしめた拳をじっと見詰める。そんな私に追い打ちをかけるように、彼は言葉をたたみかけるのだ。

「僕は、あなたに、あなたとヒロミさんに背中を押して貰えてここに居るんです。ここではじめて会った時には気付かなかった、だけど、それでも僕はあなたにかれて、あなたの隣に立って歩いていきたいと思ったんです」

 ガラスに映る彼の視線は強く、目を反らした私でも感じる程の感情が込められていた。ここまで無碍むげにされてよくここまで真っすぐに言えるもんだ。と思いながらも、私はこれ以上彼の好意を否定する言葉を持ち合わせてはいなかった。自分でも分かっているのだ。私はもう、彼に好意を持ち始めているのだと。


「今回みたいに、怪我をした時に真っ先に駆け付けたい。あなたを守るなんて僕には言えないけど、せめて隣で支えたいんです……ヒロミさんのようにはいかないかもしれないですが」

 真っすぐに、そしてすこし自嘲気に呟かれたその言葉は、私の背筋を凍らせた。「お前は、宙海ひろみの何を知っているんだ」口から零れたその言葉は、自分でもぞっとするほどに低いものだった。「誰に話を聞いた!? フェルマー先生か、それとも浩介か!?」眼前のガラスに向かって思わず叫んだその言葉は、悲鳴にも似たもので。頬に水が伝うのを感じたが、それを拭う事すら忘れ、私は考える事などせずに言葉を放ち続ける「あんなに側に居たのに! もう、アイツは居ないんだって。皆そう言う! 前を向け、自分の人生を生きろ、宙海でさえも、そう言って……っ!」そこから先は言葉にならなかった。

「良いんですよ、アマネさんはそのままで。コウスケさんは「海の底から引きずり上げて欲しい」と言ってました。けれど、

 そう口を開いた彼は必死に嗚咽おえつを殺そうとしていた私の肩に軽く手を掛けて、静かに言葉を重ねる。「良いんです。ヒロミさんの手を離さなくても。その海の底で、僕も隣に立たせてください、サンセットヒルで見た、あの海なんでしょう?」と。そう言って、子供をあやすように私の肩をさする彼に、正直に言えば縋りたかった。けれど、私はその手に縋れない理由があった。笑われても、貶されても、それでもその差し伸べられた手を拒絶する理由が。

「駄目だ、お前に同じ思いをさせたくない」

 やっとの事で絞り出したその言葉に、彼はきょとんとした声で「え?」と呟く。それは思わず出てきたというようなそれで。私は目元を拳で擦りながら、小さく呼吸を整えてもう一度口を開く。

「私はこんな仕事をしているし、お前よりも年上だ。先に逝かれたくもないが、遺していきたくもない。だから、ひとりで生きてきたんだ。私が死ぬことで、私と同じ思いをさせたくはないんだ」

 宙海が死んで二十年、ずっと仕舞い込んでいたその言葉を口に出せば、彼は少しだけ目を見開いて、少しだけ声を上げて笑った。



   *



「私はこんな仕事をしているし、お前よりも年上だ。先に逝かれたくもないが、遺していきたくもない。だから、ひとりで生きてきたんだ。私が死ぬことで、私と同じ思いをさせたくはないんだ」

 そう僕に告げたアマネさんの言葉に、少しだけ驚いた僕は、次の瞬間にはアハハ、と笑ってしまった。彼女はどこまでお人好しなんだろう。そして、そういう所を僕は好きになったのだ。思わず笑ってしまった僕に、彼女は怪訝けげんそうな視線をガラス窓に向かってではなく、怪我に障らないように小さく、そしてぎこちなく振り向いて投げかける。その表情は彼女が言葉を出さずとも「何で笑ってるんだ」と思っている事が見て取れた。

「ねぇ、アマネさん。アマネさんとヒロミさんの時と、僕とアマネさんの時じゃ条件が違いますよ」

 そう告げれば、彼女は更に怪訝けげんな表情となり、僕は彼女を安心させるように笑って見せる。

「まず、僕はアマネさんが危険な仕事をしている事を知っていますし、これでも一応医者です。それに年齢差から言って先に逝かれるのは分かりきった事じゃないですか。二人で歩いた思い出を胸にその後を生きる準備が出来ますよ」

 そう答えれば、彼女は拍子抜けしたようにぽかん、という表情を浮かべて僕を凝視ぎょうしする。その表情は言葉よりも雄弁ゆうべんに「お前は何を言っているんだ」と告げていた。そんな彼女に、僕は言葉を重ねる「あぁ、もしも僕があなたを置いて死んでしまうような事があれば、死ぬ前にあなたを殺して死ねばいいですか? そうすれば、あなたが置いていかれることもないでしょう?」そこまで彼女に告げて笑って見せれば、彼女は唖然あぜんとした表情で固まっていた。我ながら突拍子も無い事を言ってしまったな、と思っては居るのだ。けれど、彼女の言う僕を拒絶する理由を絶つのであれば、それくらいしなければならないだろう。あとは、不慮の事故で即死しない事を祈るしかない。

「それは、本心なのか」

 恐る恐る、こちらを窺うアマネさんに「本心以外の何物でもありませんよ。あなたの隣で一緒に人生を歩かせてください」と告げる。僕の言葉を聞いた彼女は、長く大きな溜息を一つ吐いて、「そんなぶっ飛んだモノズキ、お前位しかいないだろうよ」と、この街で最初に出逢った時と同じ口元だけ上げる悪戯っぽい笑みを僕へ見せた。

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