第8話
そのひとは、静かに眠っていた。病室の片隅で、いくつかの管が
「アマネさん」
僕の声に彼女は一度まばたきをして、マスクの中で小さく「迎えに――いや、違うな」と呟いた。
*
それは突然の出来事だった。仕事が終わったタイミングでフェルマー先生がそっと僕へ耳打ちをする。その報せは彼女がこの病院に運ばれたという事だった。先生に教えられた病室へと走る。そして僕はベッドで眠る彼女と対面するのだ。
「まだ生きてる」
そう呟いた彼女の心底悔しそうな呟きに、僕は「生きててよかったです、ほんとうに、良かった」とだけしか返せなかった。そんな僕の言葉に彼女は「そうか」とだけ答えてその瞼を下ろすのだ。死ぬような状態でない事はフェルマー先生から教えられていた僕は、彼女の周りの機械が異常を検知していない事だけ確かめ、ベッドサイドに置かれた椅子に腰を下ろす。
「あれ、シェルツ君じゃないか」
知った顔の医師が僕の姿を認め、声を掛けてくる。僕が彼に会釈をすれば、彼は片手をひらりと上げて僕の隣に立って口元だけで笑う。
「小隊長とキミ、知り合いだったんだな。こうやって夜中なのに病室に忍び込む程度には」
そんな医師の言葉に「僕が一方的に好意を寄せてるだけです」と返せば「小隊長だって本当に嫌だったらぶん投げてるだろ、あの人割と暴力に訴えるタイプだから」なんて言葉と共に小さく笑い声を上げるのだ。そんな彼に、「アマネさんとは以前から知り合いなんですか?」と疑問を投げれば、「たまーにこうして運ばれてくるんだよ。俺がお前位の頃からさ。最近はやっと落ち着いたのか来てなかったんだがな」なんて言葉が返って来る。そんな彼の言葉に顔を顰めてしまってたんだろう、僕の表情を見た彼は「本当に小隊長の事が好きなんだな」と笑う。
「好きですよ」
「若いっていいねぇ、ま。小隊長はこんな人だし、男っ気ないどころか小隊長が男って感じだからキミでも手こずりそうだけど、頑張れよ」
彼は笑みを浮かべたままそんな事を僕に告げ、病室を後にする。僕は僕で、ベッドサイドの小さな台に置かれたメモ用紙に一言だけのメモと名前を残して彼女の眠る部屋を後にするのだ。
*
それは不思議な夢だった。夢の中で夢と気付いたのは二十年も前に死んだ筈の男が、青年の頃のそのままで私の前に立っていたからだ。夢でなければ、遂に私の頭がおかしくなったとしか思えない。私はどこかに寝かされているらしい。まるで、二十年前のあの日が逆転したようだった。迎えにきたのか、と彼へと告げようとしたけれど、身体全体が生きていると臓器を動かしている事を感じ己でその考えを否定する。「まだ生きてる」まだ、連れて行っては暮れないのか、と隣に立つ彼に声を投げれば、その男はシェルツに姿を変えて「生きててよかったです、ほんとうに、良かった」と小さく、しかしはっきりと私へと告げたのだ。
「天音」
ぼんやりとその場に横たわり続けていれば、私の名を呼ぶ声が投げられる。声の方向に視線を投げれば再び隣には彼――
「天音、幸せになってくれよ。もう二十年だ」
彼も上体を起こし草原に座り込むような姿勢で私の耳に心地いい言葉を私へと告げる。それは、彼と会うのを心のどこかで楽しみにしている罪悪感が、彼の幻影に私が彼に求めている言葉を言わせているかのようで、息が苦しくなる。彼の本心など、もう誰にも分らないのだ。生者は死者の言葉を代弁するかのような顔で、好き勝手に死者を代弁する。生きている者たちが、死んだ者が何を考えているのかなんて、分かる筈がないのに。
「宙海、ごめん。ごめんなさい、」
その言葉を口にすれば、堪えきれなかった涙が零れ、
「ひろみ、すきだ。本当に、好きだったんだ」
彼が生きている間に、遂に言えなかったその言葉を私は
「俺も、好きだったよ。でも、天音は生きていて、俺はもう死んでるんだ。俺は天音を連れて行こうとは思わないし、生きている中で幸せになってほしいと思ってるのは変わらない」
「それでも私は、お前の事を放したくない」
次に目を開いた時には、私は病院のベッドの上へと寝かされていた。夢の続きかと一瞬思ったのもつかの間、ジンジンと痛む身体に夢ではないという事を知らされる。
「よぉ」
ヘラリと笑いながら私に声を投げるのは、昔なじみの男だった。「浩介、どうしたんだ」と寝ぼけた状態で声を投げれば「酷いな、時嗣さんからお前が入院したって話聞いて出勤前に様子見に来てやったのに」と口元だけで笑うのだ。
「そりゃぁ、お見舞いご苦労さん。爆発で吹き飛ばされた記憶から向こう、なんも覚えていないんだが」
「俺が聴いた限りでは全身打撲に足と尾てい骨折れてるってさ」
「そら痛ぇワケだ。痛み止め切れたかな」
それだけ言えりゃ大丈夫だな、と彼は笑い、ワザとらしく今思い出したかのようにそうだ、と再び口を開く。
「あと、起きるまで泣いてたけど、大丈夫か」
その言葉に慌てて目元に手を当てれば、指に感じる水滴が私が涙を零していた事を物語るのだ。「これは、」慌てて何か取り繕うような言葉を探しても、見付からず、私は彼にポツリと呟くのだ。
「罪悪感を消すためだけに言って欲しかった言葉を、私の脳が勝手に喋らせただけだ」
そして「もう死んでるのにな」と重ねた言葉に、彼は誰の事を言っているのか分かったのだろう。「もう、自分を許したってバチは当たらないぜ?」と静かに笑う。「シェルツだって、」そう続けた浩介に、私は無理矢理笑みを浮かべて肯定もせず、否定もしなかった。私がシェルツを受け入れないと最初から決めていたのはそういう事ではないのだ。確かに、宙海に対する罪悪感も感じていた。けれど、彼の好意を受け入れない理由は、もう一つあるのだ。今度こそ仕事に行くと慌てて病室を飛び出していった浩介の背中を見送りながら、私は私を気に掛けてくれた浩介に、心の中でだけ礼を言った。
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