第3話

 冷たい海に浮かぶ星のような形をした白い花弁は波に揺蕩たゆたう。献花として投げられたその花は暗い海の水面に白く浮かび、その光景はまるで子供の描いた星空のようだった。

「大丈夫か」

 船の上からじっと彼の欠片が散らされていった水面を見つめていた私に、隣に立つ男が声を掛ける。ちらりと隣の男に視線を投げれば、昔なじみの男が二人、気遣わしげに私へと視線を投げていた。

「――」

 その時、私は何を答えたのか、私は覚えてなどいなかった。十数年経った今でも、私が放り投げたのであろう小さな金属が水に沈む小さなポチャリという水音が耳から離れない。


「――夢か」

 自然光など入らない人工都市にある単身者住宅の部屋に備え付けられているベッドの中で、私は呻く。あんな夢、久々に見たな。なんてひとちながら暗い部屋の中で身体を起こせば、部屋の電気が自動的に点灯される。窓すらないこの部屋で、私は今日も生活をしている。飾り気の全くない壁に掛けられたカレンダーに視線を投げれば、今日の日付に付けられていた殴り書きの文字列に「今日だったか」と呟く。きっとあんな夢を見たのは、その所為だ。今日は、シェルツとの約束の日である。



   *



「待たせたか」

 前回、フェルマー医師と浩介も揃って顔を合わせたカフェで彼は私を待っていた。早め早めの行動が身についていた筈だが、そんな私よりも彼は早く到着していたらしい。コーヒーカップを目の前に置いた彼はぱぁっと表情を輝かせ「待ってないです! アマネさんも早いじゃないですか」と言葉を返す。時刻は約束の十分前。一体この青年は何分前に着いていたのだろうか。

「とりあえず、何か飲みますか?」

 彼の向かいの椅子に座れば、そう言ってメニューを渡してくる。近づいてきた店員に紅茶を注文すれば、彼は意外そうな顔をする。

「この間お会いした時も思ったんですけど、コーヒーじゃないんですね」

「よく言われる……昔はブラック党だったんだが、胃がやられてから受け付けなくなってな」

 そう答えれば「身体が資本みたいなお仕事なんでしょう? 気を付けてくださいよ」と眉尻を下げて心配そうな声を投げかけてくる。

「そう言われてもなぁ。もう何年も前の話だ」

「これからの事を言ってるんですよ! アマネさんって結構不健康そうな生活してそうですし」

 何故それを知っているのだろうか。訝しげに首を傾げるが、彼はフェルマー医師の元で働く研修医だった。きっと私の生活習慣などフェルマー医師から筒抜けなのだろう。普通であればプライバシーの侵害だが、少しでも情報を流してやろうという指導医心なのかもしれない。それでもプライバシーの侵害には変わりない。

「きみにとやかく言われる覚えはない」

「好きな人を心配する位許してください」

 私が冷たく突き放したところでこの男はめげないのだろうか。暖簾に腕押し、という慣用句が頭の中を駆け抜ける。店員が持ってきた紅茶を啜りながらそんな事を考えていれば「今日は何処に行きましょうか」と彼はにこにこと話を切り出すのだ。

「決めてなかったのか」

「オーベルト市の事、そんなに知らないんですよね。来たばかりなので」

 私の問いに彼はそう言ってすこし恥ずかしそうに笑う。「先生にアドバイスを貰おうとしても役に立たなくって」と困ったように笑いながら彼も目の前のカップに口を付ける。

「フェルマー先生は一体何を言ったんだ」

「「アマネが別にそれは良いって肯定してるなら既成事実作っちゃえばいいじゃない」って……」

 その言葉に思い出されるのは、先日の浩介とのやり取りである。夜明けのコーヒーかよ。そしてそれを私に報告するっていうのはどれだけ素直なのか。

「じゃぁ夜明けのコーヒーでも洒落込むか?」

 揶揄からかうようにそう問えば彼は顔を真っ赤にして「ダメです!」と真剣な顔で告げる。

「僕はそういうのは大事にしたいので、ちゃんとリツカさんにも僕を好きになってもらってからにしたいんです」

 真剣な表情でそう切り出す彼に、「そうか」とだけ返した私は心の中でだけ、もしかしたら。と呟く。もしかしたら、違うタイミングで出会っていれば。しかし、それは結局は仮定の話である。私は私でこの数十年をこうして生きて、彼は彼で別の道を生きてきた今このタイミングで、私は主義主張を変えるつもりはなかったし、変えられる訳が無いのだ。


「どうかしましたか?」

 長考してしまったのだろうか、心配そうな面持ちで私の顔を覗き込んできた彼に「いや、すこし考え事をしてただけだ。それで、何処に行きたい? この街なら少しは案内出来る」と返してやれば、「アマネさんのよく行く場所に行きたいです」と嬉しそうに笑うのだ。

「分かった――その前に、一つだけ訊いていいか?」

「何でしょう」

「どうして私なんだ。お前なら若い可愛い女の子でも選び放題だろう?」

 先日からの疑問を何物にも包まずにそう問えば、彼は少しきょとんとした顔をしてから柔らかな微笑みを浮かべて口を開く。

「僕は真っすぐな人が好きなんです。外見とかそういうのではなくて、心根がシャンとしてる人。この間助けて下さった時に思ったんです。アマネさんはまっすぐで強い人だなって。昔会った――僕を此処まで連れて来てくれた人によく似ているんです」

 微笑みを浮かべ、嬉しそうにそう答えた彼に、それは買い被りすぎだろう。と突っ込む気にもなれず、相槌を打つ気にもなれなかった。私は彼の言う真っすぐとは程遠いねじ曲がりにねじ曲がった性格の持ち主だろう。いくつか頭に浮かんだ皮肉を飛ばす気にもなれなかった私は、きっと彼の悪意の無さに毒気を抜かれてしまったのだ。

「此処まで連れて来てくれた人?」

 その代わりに口から零れ落ちていたのは彼がその後に告げた言葉のリフレインで。私のその言葉に、「僕の事に興味を持ってくれたんですね!」と正に花が綻ぶようにその整った顔を綻ばせる。

「……いや、いい」

 あまりの勢いに圧倒された私は話を切り上げてカップの中身を一気に喉に流し込む。


「行くぞ、少し歩くけど大丈夫だな?」

 椅子から立ち上がれば、彼は「勿論!」と私に続き椅子から腰を上げたのだ。

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