第9話 蛇の愉悦・火種の穿ち

「へ、へへ。リング……か。悪くねえな」


 固いコンクリートの地面から弾力のあるマットへと地面が変わっている。男は足踏みでその感触を確かめ、興奮した様子を見せた。


「公式委員会から認められた、え、Aクラスの人間は臨時のリングを貼れるって聞いたが……こいつはすげえもんだ」

「それはどうも」


 静かに一礼するししねだが、視線は一度もぶれず男の挙動を全て捉えていた。


「それに、そ、その氷の槍……へへ、どんな『スティグマカバー』か知らねえが、ずいぶんきれいだぜ。その顔に似合って、美人も映えるってもんだ」


 男の右手が耳に突き刺さる音を立て、電流が手のひらからあふれだした。


「くく、そんな美人がどんな顔で泣くか許しを請うか、考えただけで……」


 男がマットに足を踏み込み、ドタバタと音を乱雑に立てながらししねへと突撃した。


「もう我慢ならねえ! こいつをぶち込んでお前も食ってやぶぶうぶ!?」


 男の声が途中でつぶれ、男そのものも顔をひしゃげゆがませた。どたん、と尻餅をついた。ししねとはおおよそ2メートルの距離であり、どちらの腕も届かない間合いだった。

 ししねが槍をかざし腕を伸ばしたとしても、若干遠い。男は何がどうなったのか分からず、パニック寸前で四方をぎょろぎょろと見渡していた。


「な、なんだ……今、何か……」

「ふふ、美人だなんて褒めていただけたので、照れてびっくりしてしまいました」


 微笑を口元に浮かべ、ししねは片方の目をつむって見せる。その顔からは、言葉通りの意味合い以上も以下も推し量ることはできなかった。

 残暑で夕方であっても夜に差し込もうという時間でも、ただ立っていれば汗ばむ季節である。だというのに、あたりの空気は凍結されたかのように変動しない。

 男は気づけなかった。体感温度に変化がなくなったことに。


 今まで犯行に及んでいた時、蒸し暑さにうっとうしく思いながら、泣きわめく被害者女性たちを陵辱する瞬間だけはその熱が愛おしかった。

 まるで自分の体そのものが熱となり、女性たちを溶かしているという感覚が、絶対的な征服感となりたまらなく快感を与えた。


 だが今はその熱はおろか温度は下がることもなく、そして自分の最大の武器である右手にも、何も感じることができなかった。

 それについては、当たり前というしかない。

 もう右手首には先がなく、あるべきはずの手は足下に赤い水たまりを作り転がっていた。


「ひ……」


 男が悲鳴か、苦悶の声か、言葉を……息を吸い込むまもなく、のどの奥が機能を停止した。口内の水分は全て凍てつき、呼吸を禁じる。のどの筋肉も食い込んできた冷気に固まり、男は無言以外を許されないまま倒れた。びくり、と体を震わせる。リングが解除され、淡い光が粉雪のように空へと降っていく粒子の海で、ししねは小さく息をつく。


 マットだった地面はコンクリートに戻り、男の口からは大量の水が吐き出され、嗚咽を上げながらも目の覚める様子は見せなかった。


「さあ、もう大丈夫です。そろそろ警察も来るころでしょう」

「あ、あ……う」


 女性はししねの声にうなずきながらも、まだ平静さを取り戻せていなかった。膝を震わせながら、視線は男の手首に釘付けになっていた。


「……残念ながら、私も危なくなっていたのです。やるか、やられるか。そんな場面でした」


 これ以上説明するのは骨が折れる上パニックを引き起こすだけである。ししねは女性の首元にそっと手を回し、意識を絶つ「つぼ」を刺激した。女性はびくり、と身をはねさせたあと身を預けるように、ししねの腕の中で眠った。

 あとは警察が来るまで待つだけだ。自分の行為も咎められるだろう。だがそれでも……。


 と、感傷に浸りかけていたししねが弾かれたように顔を上げて飛び下がった。

 男の……正確には、男から切り取られた右手から、女性をかばうように立った。


 気のせいか? 今感じた怖気は、ひどく不快感をあおり、粘り気を持ち地面を這う……まるで蛇を想像させるものだった。

 用心深く男を見据える。男はすでに気を失い、かろうじて息はしているが、動く様子はない。

 リングを解除したことで、ししねの氷も解除され、男の口の中から大量の水となってはき出されている。のどを詰まらせ死ぬことはない。

 しかし、神経を逆なでさせる感覚は、じゃらり……と蛇行する音になり耳へと入り込んだ。


「ヨウ、間抜けナ雪女ヨォ」


 合成音のような声が視界の端から……男の右手から離れた位置から聞こえてきた。男の右手からできた血だまりから、するすると地面に引きずったかのような血の跡が続き、


「ヘヘ、マダ分からないカ、間抜けニモほどがアルゼ」


 伝う血痕の理由と、じゃらりと音が鳴った理屈が分かった。それにししねは冷静になれと自身に言いかけ目の前にあるを凝視した。


「ケケヘヘ、間抜け。まあコンナ人間デモ楽シメタシナ。次はお前の体ヲいただくカネ」


 蛇。そう直感した感覚に間違いはなかった。

 男の首からぶら下がっていたペンダントを模した『デヴォイド』は、チェーンをくねらせ四角に縁取られた鉱石が蛇のように頭をもたげ、口もないのに声だけを発していた。


「……っ!?」

「ヘヘ、悲鳴を上げないノは評価してヤルゼ雪女。イヤ、氷女かネェ」


 ペンダントが笑っている。身を震わせ、血みどろのチェーンを体とし、赤く濡れた鉱石の頭がゆらゆらと鎌首を持ち上げ、ししねの正面に回る。


「……『スティグマカバー』……いえ、『スティグマカバー』の、中身!?」

「ヨウヤクお察しかイ? そう、は中身さ。テメエら人間が抜き取った過去の英雄や悪魔たちの要素それだけを抽出したカバーの中身……つまりは『』サ」

「……そんな……『デヴォイド』には無数のセキュリティがかけられているのに……!」


 扱うものは、人間には過ぎた大きすぎる過去の遺物。それらを制御下に置くため厳重な安全装置が仕組まれてある。実戦にも出たことのない志願兵を一瞬にして達人へと変える装置。それが『デヴォイド』であり、宿った力は『インデックスレコード』によりコントロールされる。

 システム面で言えば、『デヴォイド』は『インデックスレコード』にセットされない限り効力を発揮しない造りとなっている。

 『スティグマカバー』の中身が表面に現れ、力が制御下から離れないように。

 それらは人間に無数の力を与える。それだけの力を持った存在。

 それが制御下を離れたらどうなるか。


「ヘヘ。サアて、次の獲物ハ何にスルカね……」


 『デヴォイス』の体……チェーンから稲光が発生した。先ほど男が使っていた規模とはかけ離れた現象だった。空気中の水分を蒸発させ、大気に食い込む電撃の杭は人間など一撃で昏倒させ……いや、焼き尽くすだろう。

 短時間で、均一に、等しく電流を流し込み、最小限で人体を破壊することができる。


 例えリングを展開しても、『デヴォイド』だけで動く『スティグマ』にルールなど……取り決められた「選手を守る」約束事など通じないだろう。

 先ほどししねが男の右手を切り離したように、正常なリングであればあそこまでの攻撃は許可されない。ダメージにはなるが、リングの特性により選手を守る役割を果たすのだ。


 ししねが男の右手をはね飛ばせたのは、相手がすでにルール下におらず直接『デヴォイド』を晒し、『インデックスレコード』のサポートもなく、男だけが『オケリプ』の管轄外にいたからだった。

 男の状態はどっちつかずであったからこそ攻撃できたものだが、今度はそれを可能にした「どっちつかず」そのものが這い寄ってくる。ししねの背筋に冷たい汗が落ちた。どうする?


「咎原先輩、動かないでいてください!!」


 とっさに聞こえた少年の声に、ししねは振り向きたくなる体をこわばらせ、背にした雑木林……山道ともつながる獣道から飛び出た熱風の行き先を見た。


 重たく震える太い鎖が、電撃を纏う『デヴォイド』がいた場所へとたたき込まれ、コンクリートの地面に深い亀裂を刻んだ。その後を火炎が追いかけるように鎖へと纏い、火の粉を散らす。


「ふ、藤崎くん……!?」

「っち」


 チェーンの体をバネにして飛び上がり、距離をとった電撃の『デヴォイス』が舌打ちするように言った。


 長く、鎖は太いもので、それが炎によってコーティングされている。揺らめき立つ火に当てられて、大気は歪む。それを手にする藤崎大護は、火に濡れる鎖を握りしめ、ししねの前に立っていた。


「お前……何モンだ?」


 電撃の『デヴォイド』は警戒心をあらわにして、体中にスパークする電撃の衣を纏った。

 それに対する大護は、握った指の間から吹き出る炎を手にして言い切った。


「……僕は、『ソロプレイヤ-破損選手』だ」

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