第3話 冷風が灯り火を呼び覚ます・再来の心


 どよめきが波を打ち始めた。リングの上から怒髪天を衝くといった様子の永本玄治と、それを真正面から見据え、譲る様子も見えない藤崎大護と。

 ギャラリーからは「先生呼んだほうがいいって」「あいつマジで永森とやるのかよ」「『コールプレイヤー』だぜ? それもBランクだし……」「いやあいつならマジやるかも……」


 そんな喧噪は蚊帳の外とでもいうか、リング周りは完全にシャットダウンされている。永本の相貌をゆがませるほどの敵意が、真上から降り注いでいる。大護は逆に何の感情も感じ取れない能面のままだった。しかし、いっこうに永本の視線から逃れようとしない。


 大護がリングに手をかけようと左手を伸ばした。じゃり、と鎖がねじれ、岩をかみ砕くような重たく太い音を発する。上がってくる様子の大護を確認してから永本はリングの中央に戻る。

 が。


『その試合は認めません。本校『オーケストラ・リプレイ』部長咎原とがはらししねの権限において、今よりリングを解除します』


 注目は体育館入り口に、ほぼ全員の目が向けられた。

 体育館の入り口から、実況役の生徒から借りたマイクを片手に、緩やかな足取りでコツコツとかかとを鳴らす。


「咎原……ししね?……どこかで」


 悠然と歩いてくる一人の女子生徒に大護は眉を寄せる。

 長く黒い髪を結ばず腰元まで伸ばし、まるでフランス人形のような整いすぎているパースでできた顔立ちからは、生気というものを感じられなかった。がらんどう。この少女からは「活発さ」を感じることができなかった。

 まったく「動」の気配を感じさせない。それが技量によるものだと大護が理解した時にはすでに、リング手前へと立っていた。

 咎原ししね。そう、彼女は……


「去年の女子全国大会、優勝者……のっ!?」

「自己紹介は省いても良さそうね。永森くんも、今回はやりすぎよ。慎みなさい」


 わずかな間だけ、永森とししねは視線を削り合わせていたが、すぐに永森が肩をすくめる。


「あ~あ、気が抜けたぁ。帰る」


 永森はそう言うと仏頂面のままリングから、軽い身のこなしで飛び降り、誰の目線も気にすることなく体育館を後にした。その様にはあ、と重たいため息をおとし、ししねは大護に深く頭を下げた。


「こちらの不徳申し訳ありません。けがの方も、しかるべくして処理いたしますのでひとまず応急手当を……」


 丁寧で慎ましく。そんな「気品」を感じさせる咎原ししねに大護は慌てて首を横に振る。


「そ、そんな大げさなことじゃ……それに処理って……と、とにかく大丈夫ですから!」


 ようやく顔を上げてくれたししねに大護はほっとした。まるで令嬢を相手にしているような気配りで、無礼あってはならぬと雰囲気がそうさせていた。


「あ、あの……!」


 と救急箱を手に走ってきたのは、先ほど見事な試合を行っていた女子選手だった。


「夕日、ちょうど良かったわ、救急箱をとりにいかなきゃって思ってたから」

「いえ、自分こそ止められもせずにこう……申し訳ありません!」


 今度は勢いで押すような圧迫感は、生真面目で他意もない。親切からくる素直な声だった。

 気圧されてばかりの大護だが、とりあえずの応急処置を受けた。額を軽く切っただけで出血ももうとまっている。処置は大きめの絆創膏一枚で事足りた。


「本当にごめんなさい、すみません、こういう時は自分が前にでなきゃって役割だったんすけど」

 

 何度も何度も、深く頭を下げる女子選手。高野夕日、とアナウンスでは呼ばれていた。

 大護は困りに困って視線をどこにむけていいものか、このままだと床に着くまで頭を下げるかもしれないという勢いだ。

こちらも「大丈夫です」と何度も返し、高野夕日は少しはほっとした顔を見せてくれた。

 あどけない顔を悔し涙でしめらせながら、リングの上で見ていた彼女とは同一人物かどうか、ギャップが大きく現実味わかない。


「それが悪いことじゃないの、夕日。でもあなたは少しは周りを頼ることを覚えなさい」

「は、はぁう」


 涙と鼻水が同時に声色を縮ませこくりとうなずいた。


「着替えてらっしゃい。今日は一緒に帰りましょう」

「は、はい!」

 もししっぽがあったらぶんぶんと降られていただろうなぁと思わせる、わかりやすい喜びようであった。手早く救急箱を片付け外へと出て行く足取りは軽い。


「あら?」


 ふと、ししねの視線が大護の左手首……『デヴォイド』に吸い寄せられた。


「かなり古いタイプのものだけど『デヴォイド』ね……あなたも『オケリプ』を?」


 ぎくり、とわかりやすい硬直をみせ、ぶんぶんと首を横に振った。


「い、いえ! たしなむ程度というか何というか、本格的には……」

「大会に出場は? どれぐらいやっていたのかお伺いしたいのだけど」

「え、え、と」


 完全に大護はパニックに陥っていた。

 生まれてこの方17年。年の数だけ恋人はおらず、また積極的に女子と関わる機会もなく自ら前に出ようともせず。

 今は和らいだ口調で話しかけてくるししねの目を見ることもできなかった。


「『コールプレイヤー』を目指しているのかしら」

「え、いえ……趣味程度といいますか、その、たしなむ程度といいますか」

「そうなの? 永森くんと向かい合っていた時のあなたは」


 ししねはわずかな笑みを口元に浮かべた。


「間違いなく、選手の……戦う者そのものである目をしていたわ」

「え……」

「もったいないと思ったの。あなたなら、いいところまで行けるかなと思ったのよ」


 そうこう話しているうちに、この学校の制服に着替えた夕日が戻ってきた。やはりうれしそうな犬系のテンションを感じた。


「もしよかったら途中まで一緒に帰らない? お住まいにしているお寺から別になってしまう途中までだけど」

「え、いい、いいんですか!? そ、そりゃもち……」


 すさまじい勢いで首を振る大護だったが、ふと顔を上げる。


「なんで、寺に宿を取ってるって、分かったんですか?」


 寺に宿泊し自宅代わりにしているとは、書類を出した教師たち数人ぐらいにしか伝えていない。もちろん、ここにきて誰とも話していない。滝宮ともそこまで話していないことだった。

 問う声にししねはいたずらっけのある顔で笑い、


「案外冷静なのね。プライベートを荒そうとしたわけじゃないわ、ごめんなさい。私はあの和尚様とも交流があるの。時々お邪魔してるわ」

「え、和尚様、と……?」

「ええ。あなたがこちらに来る少し前から、あなたのことを聞かせもらっていたの」


 ししねは微笑を浮かべたままで、しかしその目は獲物を捕らえた鷹の目をしていた。


「戦いなさい、藤崎大護。あなたには強くなる必要がある。その『デヴォイド』を側に置いているのならなおさら」


 目の前にいたにも関わらず、たいした動作でもない、手を差し出したというししねの動きが、全く知覚できずにいた。


「目指すべき場所があるはずよ。でなければ、『それ』はもう捨てなさい」


 大護の左手首を見る目が細く研ぎ澄まされた。その視線に熱でも当てられたのか、鎖と鎖のつなぎ目をこすり合わせる確かな振動を、思わず強く握っていた左手が感じ取っていた。


「あ、あの……咎原さんは、どこまで知って……」


 熱がよみがえる。ついに届かなかったものに、今度は自分が手を伸ばせと叫び、日没に終わったあの日あの時がよみがえる。

 鎖のつなぎ目一つ一つがこすれ合い摩擦熱が吹き上がる。ああそうだ。これは、この手は。


「と、今日はもう終わり」


 戻ってきた夕日を迎え入れ、視線からは慈しみを感じる。高野夕日という存在を大切に思っている、その証だった。


「帰りましょうか、藤崎くん。さっきまでのことはまた今度にしましょう」


 大護もまた、慈しみの微笑で迎えられた。

 つららのような冷気と鋭利さ、獲物を逃がさない射殺す視線。そして朗らかな笑み。

 一瞬で何人もの人物と一気に会話したような、全くまとまらない印象の三年生、咎原ししねはこちらがうなずくのを待っていた。大護から思えることはただ一つだけだった。


(この人は……強すぎるんだ。同じ感覚ではいられない……認識できるものにも落差がある)


 何もかも見透かされているような、では済まされなかった。しかし予備知識などというもので言葉を重ねたものではなかった。

 今放たれた言葉は、確かに自分の心臓を貫いたのだ。

 まるっきり違う場所から言葉をもらった大護は、それを「セリフ」とは受け入れることができなかった。


 目指す場所。でなければ、これは……左手首に巻き付けたものは、いらない。いらないのなら、手首から切り落としても何ら問題はない。

 だが。

 だが、だが。

 ここじゃない。

 僕が行くべき場所は、「先生」が向かった場所は。手を伸ばした先にあったものは。

 この手は。この手には何がある。何のために



「つかみ取るためだ。贅沢してもいいんだぜ? 人間には二本腕があるんだからな」



 そう陽気に笑っていった声が、最後の夕焼けから聞こえた。


「あ、あの! 咎原さん!」


 夕日と雑談をしていたししねが首を傾ける。


「と、とりあえず帰り道、ご一緒しま……させていただきます!」


 今言える精一杯の言葉としては情けない。だが、ししねも、隣にいた夕日も苦笑して迎えてくれた。


「あ、そうだ。滝宮くんはどうするか……」


 せっかくならみんなで帰りたいものだ。大護はこの体育館に来る前の移動中、互いに通信アプリでメッセージを送れるようにしておいた。そのアプリには早速一つのコメントが残されている。


『両手に花! やっちゃいなよYOU!』


 何故ジャニーなのか。

 ともあれ気を利かせてくれたか、使わせてしまったか。明日に礼をしておこう。

 待っていてくれたししねと夕日に向かい、ぱたぱたと上履きをはねさせながら合流した。


 心には微熱が灯った。宙ぶらりんでつるされていた目印は、今受けた咎原ししねの言葉で着地しつつある。


 何のために。そう問うには、ずいぶんと空洞が空いて久しい心だった。

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