母娘

 少し、時は遡る。


 人混みに紛れたはいいが、シオンはすっかりと身動きがとれなくなっていた。

 下を見れば白すぎる程、白い床。

 上を見上げれば、人のそれに隠され、天井も見えない有様だ。


 ――本当によかった。あたしがまだ本能に目覚めてなくて。


 こんな状態で長時間人族と密着していたら。恐らく他の夢魔であれば、大惨事だろう。


 そんな、時であった。

 密着しすぎていて、何処の人族が言ったのかまでは解らなかったが、彼女は聞いた。


「えぇ‼ 今週、淫魔のショー無いの? 」


 フードに隠れた耳がはっきりと動く。


「先週大量に消費しただろ。何体かは残ってるだろうけど。淫魔はコレクターが多いからな。ショーに使われたのは『肉』として売られてっだろうし。

 生き残った個体は、ショーに使わないくらいだから、相当綺麗な見た目なんだろうな。まぁ、コレクター共に売られる方が、ショーに使われるより、ひでぇ目に遭わされるだろうけどな。ハハハ」


 その言葉の意味が解らない。詳しく尋ねようにも、誰が話しているのかは、相変わらず解らない。それどころか、雑踏が深くなり、シオンは、人混みから離れる事を余儀なくされた。

 先の不安が、彼女の心を壊す程大きくなっていく。


 ――ここで、待っていないと……キミィ様が、そう仰って……

 だが、彼女の鼓動は、それを否定する様に、大きく波打つ。

 ――やだ……嫌だよ……『肉』って、なに? あたし達をどうするつもりで……

 シオンは、顔を挙げた。その表情には、脅えが残っていたが。それ以上のものが彼女を動かしたのだ。

 ――ごめんなさい。キミィ様。

 迷いはない。シオンはフードから頭を出すと、薄藤色の髪がサラサラと小川のせせらぎの様に光を反射させた。

 そのまま、真上を見上げる様な体勢をとると、息を深く吸う。


 ――オカアサン‼


 夢魔の外見から解る様に、彼らは蝙蝠の特性を持つ。今、全力で叫んだシオンの声は、成人した人族ではまず、聞き取る事が出来ない。

 超音波。その場で唯一それを認識出来たのは、その振動に耐え切れず罅を身に起こした窓ガラスだけか。

 シオンは、全力の叫びで、その場に座り込む程消費した。

 この行動は、確率的に考えて、決して効率的とは言えない。その声が届く場にそれを認識出来る者が居なければ、全く意味がない。現にシオンは今、多大な体力を前払いとして失ったうえで、結果を待つ状態だ。これが、どれ程に危険か。

 だが。

 子が、母を求む全力の声は。叫びは。確かに実を結んだ。


 ――……シ……オ……ン?


 シオンは、蜜色の瞳が零れ落ちる程見開いた。

 ――お母さん⁉ どこ‼ シオンだよ⁉ 助けに来たよ⁉

 先程の大声はもう出せないが、彼女は必死で叫び続けた。


 ――あ、ああ……シオン……駄目。逃げなさい。お母さんの事はもういいから……

 その声には、恐怖と絶望が混じっている。

 ――大丈夫だよ、お母さん‼ シオンね? 勇者様を見つけたの‼ きっとね? きっと勇者様はあたし達を助けてくれる‼ どこ? お母さん、何処に居るの⁉ 会いたい‼ 会いたい‼

 ガクガクと震える膝を必死で起こすと、シオンは彷徨う亡霊の様に、ふらふらとその超音波の会話を頼りに歩き出した。

 ――あ……ああ……私の娘、シオン。お母さんの言った事を守ってくれたのね? でも、駄目。彼らは危険すぎる。貴女を巻き込む訳にはいかない。逃げなさい。すぐにこの悪魔の祭典から。悪魔の手の届かぬ場所まで、逃げるのです。


 シオンは、その言葉を無視する。いや、その意味を深く考える余裕も体力も無かった。


 ――お母さん……お母さんお母さん

 どれくらい、経ったのだろう。気が付けばその場にはあれ程溢れかえっていた人混みが、嘘の様に消えている場所。

 目の前に、頑丈そうな扉が聳え立つ。

「ん……ん~~~~」

 シオンは、身体全てをその扉に預け、キミィに軽々と持ち上げられる体重を掛けた。

「ん~~~~」

 何度も。

「ん~~~~~~~‼ 」

 噛みしめた牙が欠け、桜の実の様な唇から青い血が流れる。

「んーーーー‼ 」

 ギ……ギギと、その扉は僅かな隙間を開けた。シオンはそこに飛び込む。その時、引っかかった毛皮のフードが、身体から滑り抜けた。


「お母さん‼ 」

 シオンは、羽根を目一杯動かすと、その真っ暗な部屋の片隅で厳重に固められた檻を目指した。

 そこに、母が居ると確信出来た理由は、無い。

 だが、そこには、確かに居た。

 ずっと。

 ずっと、会いたかった母親の姿が。

「……あ……ああ……シオン……シオン……」

 その言葉は、先の超音波でなく。

 懐かしき、母の呼ぶ己の名。

「お母さん‼ 」

 ガシャアと、激しい衝撃音が起こる程、シオンはその檻に飛びついた。

 ぶつけた額から、涙の様な青い血が流れるが、シオンはその事を意に介さない。


「ああ……シオン。シオン」

 母親は、そこに手を伸ばすと、傷を癒す魔力を放ち、その髪を撫でる。


「お母さん、待ってて、今助けるから」

 だが、そこでシオンはようやっと、その不自然な状況に気付いた。

 その檻に入っていたのは、母を含め、数体のサキュバスのみ。里に居た男性型インキュバスも、幼体の友人達も居ない。

「お母さん、皆は? 別の所に居るの? 」

 その言葉に答えたのは、シオンが尋ねた母ではなかった。


「お友達は、み~~んな見世物になって、お偉いさん達のお腹の中にいっちゃったよ~」

 

 それは、とても危険な状況だった。だが、シオンの本能は振り向く事を拒絶する。

 シオンの背に向けられていたのは、多大なる狂気。生物は、その身に間違いなく起こるであろう惨劇の予感に直結した時。行動を停止し、生き残る事を考えるだけに徹する。

 母親の恐怖と、絶望の表情に、シオンは涙し、母はそれを撫でて拭き取る。


 涙に溢れた蜜色の瞳がようやっと後ろを振り向いた時。

 そこに立っていたのは、毛皮のフードを持った黒い鎧の騎士。

 到底人とは思えぬ表情で痣気笑うその姿だった。

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