手結
その視線を一切構わず、キミィは湯を沸かすと、有無を言わさず服を脱ぎ捨て、湯浴みを始める。
「ひゃあっ」
背後から、小さな悲鳴が挙がる。それに気付き、キミィはシオンに訊く。
「おお、すまん。
君も長い旅路だったんだよな。直ぐに、もう一桶、湯を沸かそうか?」
そうじゃない。というか、振り返らないで。と、シオンは顔を紅潮させるのみだ。
「ひ、ひえ……あ、あたしゃあ、けっこうでごぜぇやす……」声がうわずって、変な口調になる。
肝心の彼はそんな事、知る由もせず「そうか? 」とだけ言って、また背を向け、湯浴みを再開する。
くちゃくちゃになった思考を、泳ぎ続ける瞳で必死に
そもそも、この目の前の男は、本当に探し求めていた。あの。伝説であり、自分たち魔族にとっては忌むべき存在の『勇者』なのだろうか。
考えると、悪い方にばかり想像が行く。そんな、シオンの蜜色の瞳は彼の背中を偶然捉え、そして思考も言葉も一瞬見失った。
――凄い傷跡……‼
見事に隆起した筋肉の造形を覆う、その歴然の負傷の痕は。間違いなくこの者の激戦の歴史を物語っている。勇者でなかったとして、只者ではない事は最早明確であろう。
しかし、別人となれば、それすらも意味を成さない。
シオンの小さな胸に、思惑が生まれる。
目の前の男が、すぐに名乗らなかったのは、何故だろうか。
決まっている。
試されたのだ。その言葉を信じ、力を貸す事に足る者かどうかを。ならば、今度は、こちらが試すのはいけない事なのだろうか?
この人は――きっと悪い人ではない。
その審美眼には自信がある。だからこそ。もし。この人が……自分に同情して『勇者』を名乗ったのなら。
シオンは、ゆっくりと掌を、キミィの大きな背に向けた。
――この人を、危険な目に遭わせる訳にはいかない。
その、小さな掌に、空間を歪める魔力が集合せしめる。
「止めろ」
余りにも、それは唐突だった。小さな身体は硬直する。
その様子を見るでもなく、キミィは布切れを桶に投げ入れると、傍らの短刀を抜く。
思わず、シオンの小さい身体が波打つように、振戦を起こす。
が、次の瞬間、彼はその短刀を伸び切った自分の髭に向け、それを剃りだした。
「私には五属の精霊の加護がある。もし、私に悪意を持った魔力が向けられた時。何よりも早く、その内の
バサバサと重い音を鳴らして、白と、グレーが混じった汚ない髭が落ちる。
――この人は……
シオンの疑惑は、この瞬間を持って確信へと変わった。
――この人が……『勇者』
「さて」身の清掃が済むと、彼はおもむろに部屋の隅の箱を漁りだした。そして、そこから出て来たのは。
「わぁ」シオンが思わず感嘆の声を挙げる程、鮮やかな白銀の光を帯びた立派な鎧。
「儀礼用のハリボテだ。
流石に流浪者の様な格好では、王に謁見など出来ぬからな」
そう言って肩当ての部分をシオンに手渡す。
「ホントだ。軽い。木? 」
続けて鎧を取り出しながら、キミィはそれに補足する。
「ああメッキの塗装が表面に施してあるだけ。しかも、中は空洞だ。まぁ……礼服の様な役割の物だからな、防具としての価値はない」
本当はこれも、捨てようかと思っていた。が、いずれ金に困った時に使えるかもしれない。と思って取っておいたのだ。
――まさか、これを着る機会がもう一度訪れるとはな。
それだけは、想定していなかった。
「ふむ」
全ての部品を確認すると、その鎧をまじまじと眺めるているシオンに視線を向ける。
「君も、その格好では目立ちすぎる。服を貸すから、着替えなさい」
キミィが言うように、シオンの姿はとても露出部分が多い。胸と陰部、臀部の一部分にのみが、ラバーの様な黒い素材で隠されているだけだ。それが夢魔の自然の姿という事は理解しているが。王都で子どもがこんな格好をしていれば、即座に警備兵に捕まってしまうであろう。
その言葉に、シオンは少し顔を赤らめた。
「す、すいません。お見苦しいものを御見せいたしまして……」服を着る。というのは魔族でも一部にのみ浸透している文化だ。夢魔のシオンにとっては、その意識も文化もない。
つまり、これは。夢魔の裸、そのままの姿なのだ。
「ほら」
そう言うと、子ども用の毛皮のフードをキミィは取り出した。
それはキミィが着るとは思えない物だが、解れもない程とても綺麗に手入れされている。
「こんな、上等な物を……宜しいのですか? 」
それを聞くとキミィは寂しそうな色を、その瞳に宿した。
「死んだ娘の物だ」
その返答に、シオンは受け取ろうとした手を引っ込めた。
「そ、そんな大切な物……‼ お借り出来ません‼ 」
それは大袈裟な程、大きな動きで。
「構わない。服は、着なければ駄目になる物だしな」
少し、その仕草に笑いそうになった。
その言葉を聞くと、シオンはもじもじと、そのフードに身体を潜らせた。
「どう……でしょうか? 」
思わず、息を呑む。格好まで同じ様にすると。もう瓜二つだ。そのキミィの様子に、蜜色の瞳が揺れる。
彼は、フードを捲り上げその薄藤色の頭へ、顔が隠れる程、深く被せた。
「よく似合っている」
言葉短かな、その言葉を聞いて。少しだけ彼女は嬉しくなった。
「では、これより死霊の山を降り、王国『アポトウシス』へ向かう」
二人の外見は、先刻とは見違える。立派な騎士がそこには居た。
「す、すいません。キミィ様。このフードを被っていては、羽根が動かせません」
狼狽える彼女に、キミィは小さく首を振った。
「残念だが、王国の近くで飛んでいては、彼らに『見つけて下さい』と言っている様なものだ。心配するな。君の飛行速度と同等程度の速度で、向かう」
それだけ言うと、首を捻ったシオンに目もくれず、彼は宙に素早く印を結んだ。
「
そして大地を司りし『
その瞬間。キミィとシオンの周囲に、目には見えないが確かに、何か暖かい物が広がる。
「さて、それでは出るぞ」
そう言って、彼は戸を開けた。そして次に見える光景に、シオンは言葉を失う。
目の前に、一般のそれと比べ――いや。文字通り比較にならない。
「さぁ、乗るぞ。君の話を聞く限り。状況は切迫している。急ぐべきだろう」
そう。シオンもそれを言われハッとした様な表情を見せたが、すぐにその表情は幼さを隠し、凛々しくも強い決意が宿った。その言葉の通りなのだ。最早事態は一刻を争う。
差し出されたその太く、大きな腕を掴み。大切な者を、救いに。
一切の光を見出せぬ、その暗黒の森で。
小さき魔族と勇者は手を結んだ。まるで、御伽噺の騎士と姫の様に。
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