8

 ふと、母のことを思った──

 恐かった。母さんがあんな姿になってしまったことが。

 自分のせいで、母の自由と幸せを奪ってしまったことが。取り返しのつかないことをしてしまったと。

 けど、母さんは優しくて。

 俺のせいなのに、俺はなにも言いだせなくて。俺は、卑怯で、弱くて、情けなくて……

 ──ずっと、母さんから逃げていた。

 真実から目を逸らし、なにもできない自分を卑下することで、狐面のせいにすることで、ずっと逃げて来た。

 自分自身を責めることで、罪の重圧から逃れようとしていたんだ。

 なにも、解決しようともしないまま……



 俺は弱い。今でも、そう思う。どんな力を得ても、それは変わらないだろう。俺は、一人きりじゃなにもできない。

 でも、だからこそ俺は今、剣を振るう。大切なものを守るために。そして、もう二度と大切な人を傷つけないために。

 そのための、それができるだけの力を俺は、得ることができたから。

 支えてくれた、みんながいたから。

 紫苑様、もえぎさん、千草さん。そして、瑠璃──

 俺には、こんなにも多くの支えてくれる、助けてくれる人がいる。

 なのに、俺は……

 ──琥珀。

 俺は、お前の支えになってあげられなかった。お前を、一人ぼっちにしてしまった。本当に……すまなかった。



『じろ……し……ろ……』

 妖狐が舞う。恨みの言葉を述べ。瞳は黒く、復讐の闇に染まる。

 煉獄の炎と、憎しみの闇を放ち、襲いかかる。

「俺は……」

 刀と爪がぶつかり、火花が散る。

 炎が、踊り狂う。

「俺は……」

『……ろ……じ……ろ……』

「俺は……」

 碧も、妖狐も、もはや限界だった。いや、限界などとうに超えていた。

 長時間に及ぶ戦いに力は既に底をつき、治癒能力すらも及ばなくなっていた。

 気力と気力がぶつかり合う。想いの強さだけが、二人を突き動かしていた。

 飛翔する妖狐を、碧が追う。炎をかいくぐり、刀が牙を打つ。

 妖狐の、さらに上空に舞う。

「俺は……俺は白じゃねえ、碧だ! 色違いだって言ってんだろうが!!」

 碧が怒鳴る。叫びのように、言い放つ。

『……あ……お……?』

 瞬間、妖狐の動きが鈍る。その、ほんの一瞬の隙を逃さない。

 足を振るう。放った蹴りが、妖狐の顔面をみごとに捕える。吹き飛び、地を射るように妖狐が落ちていく。

 地鳴りとともに、妖狐が地面に叩きつけられた。

 碧は大きな深呼吸を一つして、地面に這いつくばる妖狐を見下ろす。そして、目を見開き、叫ぶ。

「俺は強いだろう!? 俺は、強いんだ!!」

 起き上がった妖狐が碧を見上げる。揺れる頭を振りながら、空を仰ぐ。

「……だから、もうお前を一人にしたりしない! お前を、置いて行ったりしない!!

 だから、だから──琥珀!!」

 妖狐が、動きを止める。

 妖狐の脳裏に、懐かしい温もりが蘇った。

 それは遥か昔の、とうに置き去ってしまった、忘却の記憶。その、欠けら。



 真白が、全てだった。琥珀にとって、真白の存在が全てだった。

 本当は、恨みたかったんじゃない。殺したかったんじゃない。壊したかったんじゃない。

 ただ……恐かった。寂しかった。苦しかった。

 本当は、助けて欲しかった。あの時、戻ってきて、自分のことを抱きかかえて連れて行って欲しかった──



 夜空の一点を見つめる妖狐の瞳に、光るものが浮かんだように見えた。

 しかし次の瞬間、立ちのぼった黒い影が炎となって、妖狐の全身を包み込む。

 苦しみの叫びを上げる妖狐。まるで肉を締め付けられ、骨を砕かれるような悲痛の叫びがこだまする。

 心までもむさぼりつくされるような、苦しみと恐怖に支配される。再び瞳に黒い闇が灯り、妖狐が狂う。

 牙をむき出しにし、怒号を上げながら、碧に向かって飛翔する。



「光よ──」

 碧の掌に乗せた護符が、言葉に応じるように淡い光を帯びる

 光をまとった最後の護符を、強く握りしめる。

 夜の闇がほのかに薄れていく。

 白亜の満月が光をこぼす。月影が、碧に降り注いだ。

「……これで最後だ。琥珀を救う、力を貸してくれ」

 祈るようにつぶやく。

「俺だけじゃ……俺じゃ、あいつを傷つけることしかできないんだ。頼む、真白の想いを……俺の想いを、琥珀に届けるのを手伝ってくれ──瑠璃」

 意志こそが力。願いと、祈りが力となる。

 念じる。数百年の想いと、その長い苦しみに終止符を打つために。今、思う。

 握られた護符から、青い、清浄の光が溢れ出す。

 溢れた光は、波動のオーラとなって吹き上がり、碧の身体を包み込んでいく。

 温かい、全てを包み込む光。

 救いの光。

 ──自分が救われた光で、今度はお前を救い出してみせる。

 刀身をそっとなぞる。護符が青い光と同化し、刀身に吸い込まれるように消えていく。

 青い浄化の光が、闇を照らす。

「琥珀っ!!」

 刀を振り上げる。

 飛翔する、妖狐に向かう。

 願いを込めて、想いの全てを込めて、その光の剣を振り下ろす。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

 剣線から放たれた青い光が、包み込むように妖狐を飲み込んでいく。

 突き進む妖狐の目の前が、光で満ちる。目を開けていられなくらいの、まばゆい青い光。

 そして真っ白に、光が転換していく。

 温かな光と、想いがあまねく。



 ──俺の母ちゃんも、死んじゃったんだ。

 真白は言った。いつかの、遠い昔の記憶。

「俺のことをかばって、盗賊に殺されてしまった。……俺と琥珀は、一緒だな」

 真白が微笑んだ。

「でも、悲しんでいるばかりじゃ駄目なんだ。この世は辛い、苦しいことばかりじゃない。希望を持っていれば、必ず幸せは訪れる。闇はいつかの日か晴れる。こうして、俺が琥珀と出会えたように」

 ──太陽は、また昇る。



 ──琥珀。

 そう、名前を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。

 懐かしい響きに、心が滲んでいく。

 真っ白な光の中、琥珀の瞳に涙が溢れた。



 光が瞬き、爆音が轟いた。風が吹き荒れ、松並木がしなり、波がさざめき立つ。

 砂煙が立ち込め、視界を遮っていく。



 碧が砂浜に降り立つ。

 砂塵に覆われた空を見上げ、乱れ切った息を整えていく。

 砂浜に放るように刀を突き立て、ふらふらと尻をついて座り込む。

 明けの明星が輝く。

 空が白み、水平線の先に太陽が昇り始める。

 朝日を受けた海が、キラキラと輝いた。

「まったく……世話かけさせやがって」

 碧が力なく笑う。もう、一分の力も残っていなかった。立ち上がることさえもままならない。

 砂煙が、ゆっくりと消えていく。

 砂浜に残った爆発の跡。クレーターのように大きく窪んだ砂地の中心に、すやすやと安らかな寝息を立てる、子狐の姿があった。

 身体を丸める子狐の金の毛並が、朝日に反射する。

 つむる目には、涙がきらりと輝いていた。

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