7
◇ ◇ ◇
「……浄化とはなにか、分かっておるのか?」
昨晩の、紫苑の部屋での会話。
妖狐を浄化し、救ってやりたいと告げた碧に、紫苑は驚いた表情を見せた後、一拍置いてそう言った。
「千草が怨霊を光に還した浄化も、お主が力で狐面を葬るのも、結果的には同じことじゃ。元となる残留思念がこの世から消え去るだけ。ただ、千草はそれを最も骨の折れる形で成しておる。浄化とは、すなわち怨念を断ち切り消滅させること。千草は怨霊の想いを包み込み、昇華することで怨念を消滅させておる。優しさでな。対してお主は、力でねじ伏せることで怨念を消滅させておる。そもそも、残留思念とは行き場をなくした想いの塊じゃ。本来あるべき無に還っただけにすぎん」
紫苑が猪口を煽る。
「しかし、妖狐は違う。妖狐はただの思念の塊ではなく、一つの魂を持った歴とした命じゃ。人と、同じようにな」
「だからこそ……だからこそ、俺はあいつを救ってやりたい」
「魂を怨念から解き放ち、救ってやるというのは、思念の浄化とは訳が違うぞ。数百年の積もりに積もった呪いじゃ。打ち倒すことの方がどれだけ楽なことか。……真白は、どうであった?」
「……結局、妖狐を救うことも、完全に滅ぼすことも出来なかった。中途半端な力と、想いが、そのどちらも邪魔をして……迷っていたんだ。結果、数百年に渡って琥珀を苦しめることになってしまった」
「真白の叶えられなかった想いを、お主が遂げようと言うのか?」
「いや……それは少し違います。俺は真白じゃない。俺は俺として、伏見碧として琥珀と向き合い、苦しみから救ってやりたいんだ」
碧が拳を強く握る。しかし、その拳はすぐに力なく開かれる。うつむき、悔むように口を開く。
「でも、真白に出来なかったことを、前世に結んだ縁があるというだけの、因果の浅い俺にできるのだろうか?」
「大丈夫じゃ。お主は真白ではない。だからこそできることがある。それに、お主にはわしらがついておる」
紫苑が優しく微笑みを向ける。
「碧、お主ならば必ず妖狐を因果の鎖から解放してやることができる。自分を信じろ。結局、最後に物事を決めるのはここじゃ。気持ちの強さじゃ」
手のひらをそっと碧の胸に当てる。紫苑の小さな掌と碧の鼓動が繋がる。
「明けぬ夜はない。必ず、太陽は昇る」
◇ ◇ ◇
碧が地面に着地する。
妖狐が、地に向かって猛追してくる。
放たれる炎の矢に、疾風の刃を打ち返す。ぶつかり合った中空で炎が炸裂し、熱風が巻き起こった。
熱波の壁を越えて、妖狐の牙が碧を貫こうと喰らいつく。
横っ飛びになって、牙をかすめて砂上を転がる。すぐに態勢を戻し、瞬時に回り込んで、がら空きの横っ腹に刀を突き立てた。
妖狐がその巨大な口を空に開き、悲鳴を上げる。すぐさま炎をまとった尾が碧を弾き飛ばす。直撃を受けながらも、もんどりうって、なんとか立ち上がる。尾に触れた左腕が黒く焼け焦げ、すすを吹いた。
空へ飛び上がる妖狐を追って、跳躍。急速な上昇を見せる。
浮上する妖狐の腹を真下から突き上げた。肉に刃が食い込み、再び妖狐が悲鳴を上げる。さらに突き立てた刀を軸に、身体を振り子のように回転させ、頭越しに妖狐の土手っ腹を後方に向かって蹴り飛ばす。
妖狐の表情が歪む。えぐり込むように蹴られた腹から、妖狐の巨体が吹き飛んでいく。突き立てた刀身がずるりと抜け、長い放物線を海上に描いた。
傷を負い、妖狐が落ちていく。着水とともに、空に水柱が上がった。
妖狐の、目の色が変わる。
水柱も立ち消えぬ間に、再び妖狐が水上に姿を現す。
水面を走り、その目は碧以外のものは捕えていなかった。
『……し……ろ……じ……ろ…………』
まるでうわごとのように、呻くようにつぶやき、妖狐が吠え、発狂する。
朱の瞳に、闇のような濁った黒が差す。どす黒い炎が生まれ、妖狐の黄金色の身体を覆う。傷はもう既に消えていた。
「怒ってるのか? ……だよなあ」
全身から放出された、赤黒い炎が碧を急襲する。人の腕のように炎が伸び、手のように握りつぶそうとする。
──今までの炎とは、ものが違う。
切迫し、身構える。
そのどす黒い炎は、今までのそれとは比べ物にならないほど速く、熱く、残虐に全てを飲み込んでいく。その後には、塵芥すら残らない。
碧は危険を感じ、後方に飛びずさり、大きく距離を取ろうとする。しかし、炎がそれを許さない。逃げる碧を黒い炎が追いかける。舐めるように地を這い、波のように頭上を覆っていく。
海面を走り、逃げる碧をそれでも猛追し続ける。海上ですらなんの足枷となることなく、炎は水をも焼き尽くす。
そして、さらに妖狐の追撃の嵐が舞う。黒い炎の矢が海を射る。走る碧の影を追うように、炎の矢が海を次々と辿っていく。
と、次の瞬間、爆発が起こった。
妖狐から、黒い炎を収束させた極細の閃光が放たれたのだ。それは着弾とともに水を超高温の赤色に変え、全てを溶かしつくすような大爆発を引き起こした。
碧は爆破の衝撃に吹き飛ばされ、水面を転がるようにして、なんとか岸にたどり着いた。
そこへさらに、二発、三発と黒い炎の閃光が飛ぶ。
とっさに避けた碧の足元に続けざまに爆風と爆炎が巻き起こる。
「まじかよ、これ……冗談抜きでやばいだろ」
額に脂汗が浮かんだ。
閃光が着弾した跡が、まるでクレーターのようにえぐれ、焼けた砂が赤く、溶岩のような液体と化していた。
「まずいな……」
つぶやくが、そんなことなどお構いなしに、妖狐が猛威を振るう。
飛び上がりざまに吐きだされた炎が、地面を這い、炎が走る。
砂浜がみるみる火の海となっていき、足場を失った碧が中空へと逃れた。
しかし、それを妖狐が待ちわびる。
遠吠えとともに尾が黒い光を帯び、燃え盛る無数の炎矢が生み出される。妖狐の背後にずらりと並んだ黒炎の矢がその矛先を一斉に碧へと向ける。
──空中は、やはり不利か……
頭の片隅で思うも、それ以上考える余裕はない。集中。狙う無数の炎に全神経を傾ける。
炎矢がほぼ一斉に放たれる。碧の身体を蜂の巣にしようと飛び狂う。弾幕のように殺到する炎。
刀を薙ぐ。その一振りで数十の矢を撃ち落とす。さらに刀を振るいて、矢羽を打つ。もはや目で視認している暇はない。感覚で、反射だけで刀身を振り合わせる。
一本の矢が頬をかすめた。対応しきれなかった。直後に皮膚が、肉ごと溶けてただれだす。一つの進撃を許してから、二本、三本と太刀をくぐり抜けた炎が碧の身体を焼いていく。
さすがに数が多すぎる。それでもなお、間髪いれずに向かい来る炎矢。
碧は全身の力を集中させた。闘気のような空気が碧の身体に渦を巻く。
「はあああっ!!」
気合とともに闘気が爆発的に広がる。闘気に触れた炎がかき消えるように消滅していった。
残った十数の矢を刀で打ち払う。と、そこへ収束された炎の閃光が横を通り過ぎる。
地上で、爆炎が舞いあがった。
それも一発だけで終わりではない。数百の矢をやり過ごしたと思えば、閃光が次から次へと降り注ぐ。
この黒い閃光は刀ではやり過ごせない。身をひるがえしてかわすが、空中ではそれも限界がある。
連続で放たれる閃光に追い詰められていく。逃げ場がない。
身を捻るようにして、超高速で疾走する閃光をなんとか避けるが、それを追うように一線の炎が碧に向かう。完全に、後れを取った。
黒炎の閃光が、碧に着弾する。どうあがいても避け切れない。そう直撃を覚悟した、
まさにその瞬間だった。
目の前が閃き、光の壁が展開した。オレンジ色のまばゆい光を放って、六角形の障壁が、黒き閃光の前に翼を広げる。
閃光の着弾とともに爆音が鳴り響き、黒煙が上がった。それでも、光の障壁はその力を一分も失わず、碧の前に燦然と輝き続ける。
「これは……千草さんの?」
それは、大阪で見た、千草の作りだした光の壁と全く同じものだった。
ふと、着物の袂が強い光を放っているのが目に入った。
手を入れ確かめると、中にあった護符が白い光を帯びて輝いていた。
戦闘の直前、瑠璃から渡された護符の束。
触れれば、その光はとても温かく、安らぎと温もりを与えてくれた。千草の優しさが、護符を通して伝わって来る。
──私たちの気持ちだから、一緒に連れて行って。
瑠璃の言葉が脳裏に蘇る。
「みんな…………」
思わず、碧が言葉を失くす。
左右から、続けざまに黒い閃光が飛んだ。
しかし、碧に当たる直前で、光の壁が一つ、二つと覆うように展開し、黒い炎を退ける。
力を失った護符が炭となり、夜風に散っていった。
碧は空中で、取り出した護符の一枚を握る。そして、強く祈る。
「お願いだ。力を貸してくれ!」
瞬間、手の中の護符が光を放つ。
空中に、青い光が陣を描いた。それは足場となって、碧の身体を空に支える。
碧が飛ぶごとに陣は現れ、光に後押しされる感覚が、さらに碧を高く舞いあがらせる。
碧が、空を駆ける。
妖狐の攻撃を抜け、白刃が乱れ飛ぶ。
夜空に、二つの光が交差した。
攻防が続く中、また護符が光る。それは火傷するほどの熱さでもって、袂を焼かんとする勢いで力を発する。
「なんだ? でしゃばりな護符だな」
その熱さに耐えかねて、碧が護符を袂から引き抜く。と、護符はさらに光を増し、手の中ら抜け出そうとするように暴れだした。
「くそっ、抑えきれない……!」
奮い立つじゃじゃ馬のように暴れ狂う護符が、ものすごい力で碧の掌から躍り出る。
飛びだした瞬間、護符はまばゆく発光しながら六つに分かれ、光の球となって、中空を舞う。
妖狐の放つ閃光を、迎撃するようにいとも容易く射抜き、碧の周りを旋回する。まるで意志を持つかのような六つの光は、襲い来る炎を的確に打ち、さらに妖狐を狙い、鋭角に飛んでいく。
逃げる間もなく、光の球に囲まれる妖狐。そして、護符より出でた光の球の猛攻が始まる。超高速で飛びまわり、攻撃を仕掛ける六つの光。それが触れるたび、妖狐の身体が引裂かれていく。それはまるで、暴風の真っ只中に立ちつくすように、見る間に妖狐がズタズタになっていく。
耐えかねた妖狐が、光の球から逃げ惑う。しかし、光の球は逃げる妖狐をどこまでも追尾していく。
光の球の形状が変わる。六つが集いて一つとなった光は、尾を伸ばし、龍のようにしなり、空を昇る妖狐を追いかけていく。白雷となりて、妖狐を襲う。
光の龍が妖狐を捕え、巻きつくように締め上げる。
龍が、いななく。
放たれた無数の稲光が全身を貫き、妖狐が悲鳴を上げた。
「すげえ、なんだあれ……」
あの妖狐を圧倒する護符の力に碧は思わず見とれ、宙に描かれた陣の上に足を止めた。
妖狐が力を失い、弱っていく。しかし、それだけでは妖狐の恨みの炎は消えることはない。
妖狐が猛る。全身を奮い立たせ、黒い炎が爆発する。広がる炎が、夜空を染め上げる。光の龍が、炎に飲み込まれていった。
妖狐が碧をぎろりと睨む。目は、まだ死んではいない。
怒りの遠吠えを上げ、傷ついた身体が瞬時に再生する。
碧は、刀を握りなおす。そして、空を駆けた。
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