5
翌夜、十五夜。
夜空に浮かぶ月は満ちていた。昨晩よりもその輪郭をはっきりと強く描き、満月は不思議な光を放って輝いていた。
碧は、天橋立の砂浜に立っていた。
狩衣というのだろうか、平安時代の貴族が着用しているような、それに似た衣装に身を包む。衣は着物のような合わせになっており、下は袴に草履という出で立ち。腰帯びには緋色の鞘を持つ日本刀が差されていた。
先ほど紫苑に着付けてもらったものだ。
この衣は火浣布という特殊な布で作られたもので、火鼠の毛を織り込んだ、炎に耐性をもつ貴重品だと紫苑が言っていた。
帯に差した刀を、そっと抜いてみる。
すらりと白刃がその姿を現し、月影に冷たく輝いた。
刀身に映る自分の目を覗き、静かに息をつく。それから碧は静かに刀を収め、辺りを見渡した。
砂浜に沿って、かがり火がどこまでも並んでいる。揺らめく炎が天橋立を彩り、それはまるで炎の架け橋のように、夜の闇に浮かびあがった。
夜のしじまに、波の音が微かに聞こえていた。
不意に砂利のこすれる音がして、紫苑と瑠璃が松並木から姿を見せた。
「待たせたな」
二人は白衣に緋袴という巫女装束姿。その上に、純白の千早を羽織っている。手には五色の布を付けた神楽鈴がそれぞれ握られていた。
「今宵の月はまた格別じゃな」
紫苑が月に手をかざす。
「準備は、もういいのか?」
「今さらもう準備することもないですよ。覚悟も、できてます」
「そうか。あとはお主と狐の問題じゃ。わしらが口を出す道理はないな」
紫苑は、ぽんと碧の肩に手を置き、一瞥の笑みを残す。それから思い出したように、
「そうじゃ、明日この近くで花火大会が開かれる。全部終わったら、皆で見物に行こう」
それだけ言うと手をひらひらと振り、踵を返して浜辺を歩きだした。
「あ、あの……碧くん」
紫苑の背中に隠れるようにしていた瑠璃が、おずおずと声をかける。
手に隠すように持っていたものを碧に差し出す。
「これ」
それは、瑠璃がいつも使っている護符だった。十数枚の、束になっている。
「これは?」
碧は護符を受け取りながら、瑠璃の顔を不思議そうに見つめる。
瑠璃は少し頬を紅潮させて、
「あの、それ、もえぎさんと千草さんと私で、三人で作ったの。少しでも役に立てればと思って」
「ありがとう。でも俺、法術使えないし、護符の使い方だって──」
「だいじょうぶ。ちゃんと碧くんを助けてくれるように念を込めてあるから。使い方が分からなくっても、ちゃんと役に立ってくれるから。私たちの気持ちだから、一緒に連れて行って」
そう一気に言った瑠璃の顔は、心なし、増して紅潮していたように感じられた。
「分かった。サンキューな、瑠璃」
受け取った護符を袂にしまう。そして、「そうだ」と思い出したように、手を入れた袂からそれを取り出す。
「これを……預かっててもらえないか?」
「お面?」
取り出したそれは、先日、狐面が落として行った、白い狐の面だった。碧はおもむろに瑠璃の頭に手を伸ばし、即頭部に面を被せるように紐を優しく結んでやる。
きょとんとする瑠璃が、頭につけられたお面にそっと指を触れる。
「大事なものだから。この戦いが終わるまで、瑠璃に持っていて欲しい」
不思議そうな顔をして、しばらくその言葉の意味を考えていた瑠璃だったが、「頼んだぜ!」と碧に背中を軽く叩かれ、思考も中途半端に歩きだした。
瑠璃は紫苑とは逆側に向かっていく。と、振り返って、
「碧くん、がんば……あの……だ、大丈夫だから。……だから……あの、がんばってね!」
激励の言葉をくれようとしたのだろうが、結局上手く言葉がまとまらず、瑠璃はとにかく笑って手を振った。碧も、それに応えるように笑顔で手を振るう。
「まったく……最後まで締まらないな」
苦笑して、ぼそりとつぶやく。
紫苑と瑠璃が、浜辺に碧を挟み込むように位置する形となった。
静けさに包まれ、空気がピンと張り詰める。
──ついに始まる。
そう全身に渡る神経と感覚が、一斉に告げていた。
囃子音が、どこからともなく響いた。
風に煽られたかがり火が、炎を上げて火の粉を舞わす。
月光が、呼応するように揺らめいた。
──シャン
──シャン
紫苑と瑠璃が鈴を鳴らし、舞い始める。神楽。
草木が黙り、海が表情を変える。
波が、ざわめきだす。
風が、激しく吹きすさぶ。
──シャン
──シャン
紫苑と瑠璃が淡い、青白い光を帯びていく。
立ち込める光が逃げ水のように、景色を歪め、砂を浮き上がらせる。
雲が駆けるように流れ、星々が見え隠れする。
かがり火が吹きすさぶ風に、踊るように舞いあがった。
どこからか、じりじりと、電磁波の発するような音がした。
──シャン
──シャン
圧力に押しつぶされそうになる。鈴の音が鳴る度にその圧力は増していき、立っているのもやっとなくらい、身に重くのしかかる。
紫苑が舞い、瑠璃が舞う。
二人から溢れた光が、立ち昇る。
振り上げた腕が弧を描き、松林が揺れる。
──シャン
──シャン
紫苑の身体が光に持ち上げられるように、地面から足が離れ、ゆっくりと浮かび上がっていく。
瑠璃もまた、紫苑に牽引されるように浮かび上がる。
二人の巫女が空を舞う。
光をまといて夜空を駆ける。描く軌跡は流星のように闇を彩り、星の瞬きを受ける。
その姿はまさに天空を舞う天女。
月を憂うように弧をなぞり、なぜるように月を廻る。
──シャン
──シャン
激しい風に誘われるように、雲が集まりだす。
満点の星々が雲に覆われ、月が朧に陰りだす。
帯電した雲が細い線のような光を閃かせ、重い雷鳴が轟いた。
雷雲が立ち込める。
黒雲に月が隠れ、雷鳴と稲光に包まれる。
──シャン
──シャン
明滅する世界に、烈風が吹き荒れる。
松並木が大きくしなる。
海は時化のようにうねり、波が暴れ狂う。
鈴の音も、囃子音も、全てがかき消されていく。
これまでにない怒りと、狂気に辺りが満ち満ちていく。
不意に、沈黙が訪れた。
一瞬の静寂。風も、波も、光も、雲も、全てが静止し時が止まる。
暗転したように、暗闇に包まれる。
精神も、身体も、感覚も、自分自身さえも、なにもかもを失くしてしまったような刹那の時。
──シャン
打ち破るように、真っ白な光が満ちた。
目も開けていられないような、光明の閃き。
閃光が空を、黒雲を突き抜ける。
いなづまが落ちた。
遅れるようにして、空気を突き破るような雷鳴が響く。
轟音。
……そして、また静けさが戻って来る。
碧が、ゆっくりと瞼を開く。
黒雲は既に消え去っていた。きらめく満点の星空に、満月がぽっかりと浮かぶ。
波は穏やかに砂浜に寄せ、夜風が涼やかに頬を撫でる。
「よう、久しぶりだな」
目の前には、九尾の狐が鎮座していた。
全長は優に十メートルを越えている。金色の毛をなびかせ、九つの尾が優雅に舞う。牙を剥き出しにして、碧を睨みつける。今にも襲いかからんとする気迫。
ゆっくりと呼吸を整える。その圧力も、恐怖も、全てが強大過ぎて、全てを通り越して、碧の心は驚くほどに落ち着き払っていた。
懐かしくさえ思う、九尾の妖狐の姿を見上げる。
金色の毛並と、朱の瞳が美しく輝く。
妖狐が、吠えた。
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