4
天橋立を渡り終えるまでに、結局二時間ほどがかかった。宿に着くころには、濡れた服も既に乾ききっていた。
海に面した宿は木造の趣のある旅館で、部屋数は全部で十に及ばず、喧騒から離れた、静けさに包まれる場所だった。どこか懐かしさを覚える装いは、簡素ながらも重厚な木造の温もりを感じさせる。時の流れを匂わせつつも、近年改築を施したらしく、外観も内装も清潔で、レトロとモダンを上手く調和させた和テイストを醸しだしていた。
夜。
風呂から上がった碧が部屋へ向かい、板張りの廊下を歩いていると、ある一部屋の扉が開いているのが目に入った。
そこは、紫苑の部屋。
思わず足を止める。鍵も掛けず、外に出てしまったのか。室内は暗く、明かりも灯いていないようだった。扉に手を掛け、中をそっと覗く。
壁一面を占める窓から、煌々と照る巨大な満月が覗いていた。ぼんやりとした月明かりが、室内を柔らかく照らしだしている。
その朧気な月明りの下、紫苑は一人、酒を呑んでいた。
傍らに徳利を置き、座敷に胡坐をかいて、月を眺めながら猪口を傾ける。
開け放った窓から、潮騒が届いた。夜風が紫苑の黒髪を撫でる。
「碧か……」
紫苑は振り向きもせずに口を開いた。気配で察したかのように、静かに声を漏らす。
「なんだ、夜這にでも来たのか?」
「いや、すみません。戸が開いてて、不用心だと思って……」
「構わん。この宿は貸し切りじゃ。わしを襲おうなどと考える不徳の輩は、お主くらいじゃ」
振り返った紫苑が笑いながら言う。
「今宵は、良い月じゃ。少し酒が呑みたくなっての、一人で晩酌しておったのじゃ」
そうですかと、相づちを打つ。紫苑が猪口をまた傾けた。
「明日の夜は妖狐とまみえる。心境はどうじゃ?」
「緊張はしてません。思った以上に落ち着いてるし、焦りもない。どちらかと言うと、これで本当に終わりなのかという不安の方が強いです」
「案ずるでない。今のお主ならば、妖狐など容易いじゃろうて。それに、その先のことも心配いらん。それをなんとかするだけの力を碧、お主は持っておる」
碧はふと、千草に大阪で言われた言葉を思い出した。倒すのでも殺すのでもない。浄化し、救ってやるのだと。狐も怨霊も一緒なのだと。
「そうか。千草がそんなことを……」
その時の話をすると、紫苑は静かに息を吐くようにつぶやいた。
「千草は少し甘すぎる。優しさだけではどうにもならないこともあるというのに……。そんな考えでは、いつか裏をかかれてしまう」
月を仰ぎ、抑揚なく告げる。まるで人形のように言葉を発する紫苑に反感を覚え、抗議の言葉を発しようと身を乗り出したところで、紫苑の頬が緩んだ。
「じゃが、千草は真っ直ぐな良い娘に育ってくれた。そう思うじゃろ?」
そう言った紫苑の表情は、はばかることのない笑顔でほころんでいた。
「あの子たちは皆、わしの自慢なんじゃ。もえぎも千草も瑠璃も。……まあ、概ね良い娘に育ってくれた。それぞれ個性的ではあるがな。……しかし、千草は優しすぎる。もえぎのようにとは言わないまでも、もう少し自分のことを考えてもらいたいものじゃ」
まるで親のような表情を見せる紫苑。その柔らかな紫苑の微笑みに、碧も安堵の表情を浮かべた。
「いつまでもそんなところに突っ立ってないで、こちらに来て座るが良い。お主も一杯どうじゃ?」
紫苑が手招きをする。
「いえ、俺は未成年だから……」
「ほう、随分と律儀なやつじゃの。これだけ異形のものと相対して、それでもまだ人の世の戒律を守ろうと言うのか?」
碧の答えに、紫苑が驚きの表情を見せた。
「人間など小さきもの。人の社会や戒律などは、世の自然の上では無意味に等しい。わしらはその人の規律の及ばぬところに立って、この世にあらざるものと対峙しておるというに……」
「でも、俺は人間だ。鬼の力を持ってはいるけど、決して鬼じゃない。……紫苑様は、人ではないんですか?」
紫苑が笑う。それはおかしそうに。しかしどこか満足気に見える、小気味良い笑い声。
「そうか、お主は本当に面白いやつじゃ」
笑いながら腰を上げると、紫苑は備え付けの冷蔵庫からジュースを取り出した。コップも一緒に用意し、また手招きをする。
「酌くらいしてはくれんか?」
碧は紫苑の隣に腰を下ろした。
紫苑は碧のついだ酒を旨そうに呑んだ。この辺りの地酒と言っていたが、碧には分かる由もない。ただ、紫苑が酒をあおる姿は妖艶で、それは遠い昔の書物に描かれた、美しい女性の姿をした妖怪や、魔女を見ているような錯覚にとらわれた。
空いた徳利が、二本、三本と転がっていく。
「記憶は、もう戻っておるのか?」
ふと紫苑が、碧の目を透かすように見て言った。記憶とは、前世の記憶のことだ。真白としての、過去の記憶。急に瞳を見つめられた碧は、少しドキリとした。
「全部、思い出してます。前みたいに、自分とは関係ないなんてもう思えない。でも、それは記憶が戻ったというより、昔話を読んだ感覚に近いかな。そういう物語があって、でも、その真白の気持ちは直接伝わってきて、それが自分なんだと、どこかで紐づいていて、理解できる。俺はあくまで俺なんだけど、その中に真白という人間の記憶を思い出すことができる……みたいな感じ」
良く分かんないやと、碧は結局結論を投げた。紫苑はその様子を、楽しそうに見つめていた。
「……さっき、わしは人ではないのかと、そう聞いたな?」
不意にそう口にした紫苑の表情からは、それまでの笑顔は消え、どこか神妙な面持ちで碧をみつめていた。
「わしのことを、知りたいか?」
その問いに対し、碧は明確には答えなかった。
知りたいが、それは開けることを禁じられた箱を開くような、そんな恐怖と興味が入り交じっていた。
しばらくの沈黙を待って、紫苑が碧から視線を外し、月を仰ぐ。
「わしは、長く生きすぎた。だが、わしもまた人間と変わらぬ、弱い一つの個体じゃ。……いや、個体ではないな。一つの魂じゃ」
ゆっくりとした口調で紫苑が語りだす。月を見ていたはずの黒い瞳は、今はどこを見ているのか分からない。滑るように動く唇が、月明かりを浴び、誘い込むような魅力を帯びた。
「昔話じゃ。もう、七十年も前になる。その頃わしには、今のもえぎや千草と同じような、師弟関係を結んだ娘がおった」
まあ、師匠と弟子といった、改まった関係では全くなかったがな。と、紫苑は懐かしむようにクスリと笑った。
「ちょうど戦争の只中でな。わしも力を持つ身、戦火の中を駆けずり回ってその娘とともに人々の救援救護に尽力した」
次の言葉を待つ碧の目に、一瞬紫苑の表情が曇り、その意志の強い瞳が揺らぐのが感じられた。
「ある時、運悪く空襲に巻き込まれてしまってのお。ひどい惨状じゃった。家々が消し飛び、あっという間に一面火の海じゃ。その頃のわしは、身体も、力も弱り切っておってのお。わしは瀕死の重傷を負い、身体はもう、使い物にならなくなっておった。その時、隣におったのがその娘じゃ。彼女は奇跡的に軽傷で済み、献身的にわしの介抱をした。しかし、わしの身体は、もうどうしようもなかった」
「分かるか?」紫苑は問うたが、碧はなにも答えなかった。
「わしは……わしは、その娘の身体を……奪ったのじゃ。魂を侵食し、その身体を我がものとした。娘はそれを望んだが、人の魂を喰らいつくす恐ろしさと罪悪、この感覚は拭おうとも決して拭いきれん。今もわしの中には、その娘の魂がかすかではあるが、残っておる。わしは、これを決して失くす訳にはいかぬ。死ぬまで、彼女とともに生き続ける」
紫苑がゆっくりと息をつく。そして、ほんの少しの寂しさを残す笑顔を碧に向ける。
「気立ての良い、とても美しい娘じゃった。名を……九条紫苑といった」
身の毛が粟立つ。恐怖で背筋が凍りつきそうだった。目の前の女性が、自分に微笑みを向けているこの女性が一体誰であるのか分からない。紫苑という名を名乗る、このヒトが……
紫苑がおもむろに立ち上がる。一面の満月の光を浴び、妖艶な陰りを見せる。
袴の帯に手を掛け、無造作にそれをほどいていく。衣擦れの音がして、静かに緋袴が落ちる。紫苑の艶めかしい脚が、露わになった。
思わず碧は頬を紅潮させ、顔を背ける。
「目を逸らすな。……碧よ、お主には知っておいてもらいたい」
静かな声の中に、なにか悲痛の叫びのような冷たい響きがあった。
白衣の前をはだけ、腕を通したままで肩を滑らせていく。うなじから肩、背中。紫苑の白い肌が月明かりに照らされていく。
白衣がはらりと、紫苑の手を離れた。
碧が、息を飲んだ。
一糸まとわぬ紫苑が佇む。青白い、冷然とした月明かりを浴び、細くしなやかな肢体が、満月に影のように浮かびあがる。
紫苑が振り返る。長い黒髪がさらと風になびき、紫苑の香、薔薇の淡い香りが広がる。
双胸の膨らみと、なだらかな腹部が、月影に輪郭を描く。痩せた肉に、肋骨が卑しくも透けていた。
ふと、紫苑の身体の処々に黒い、影のようなものがあることに気付いた。あざがあるのかと思い、薄暗闇の中、目を凝らす。
それは、あざではなかった。
「見るが良い。これが自らの罰も受けず、いたずらに時の流れに逆らい続けた、化け物のなれの果ての姿じゃ」
赤黒く変色した肩、胸、脇腹、腿。それはあざなどではない。
身体が、腐っていた。
肉体の随所が腐敗している。どす黒く、拳大に肉がえぐり窪むように露呈している。肉が、溶けだしていた。
唖然として、碧は言葉を失った。見たくないのに、どうしても目を逸らすことができない。禍々しく、神に仇名す罪人の姿。なのに何故だろう、その忌まわしい姿に見とれてしまう。その妖艶さと、あえかな儚さを美しいとさえ思ってしまう。
微かな息遣いを残した、沈黙が続く。
やがて紫苑は、静かに白衣をまとった。袴を上げ、粗雑に帯を結ぶ。
「わしは、生きすぎた。魂も、身体ももう限界じゃ」
腰を下ろしながら紫苑が微笑む。
「わしはもうじき死ぬ。千草がなにを思っておるかは分かるが、わしはそれを望まぬ。九条紫苑として、紫苑の身体でもって、この魂は果て、いずれ滅びの時を迎える。それがわしの望みじゃ。この世の摂理に則り、わしは無に還る」
「でも、それじゃあ……」
碧が口ごもると、紫苑は吹きだすように笑いだした。
「なにをしけた面をしておるのじゃ。わしが死ぬのは、あと五十年は先じゃ。お主と同じ尺度で考えるでない。下手をすれば、お主より長生きするやもしれぬぞ。わしはもう千を超える四季を巡ってきておるのじゃ」
「まだ、やらねばならぬことも残っておるしな」と言葉を続ける紫苑の顔には、先ほどまでの危うげな影はもう、微塵も感じられなかった。
煌々と照る月を仰ぎ、紫苑は残った酒を一気にあおった。
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