6
夜。時刻は午前零時を既に回っていた。各々が、千草の指示に沿って配置につく。
碧、千草、瑠璃がそれぞれ三方に別れ、広場を囲むようにして身をひそめた。
瑠璃はさっきまでの私服を着替え、巫女装束姿になっていた。千草がいつも着用しているのと同じもので、仕事の時は巫女装束を着るのが通例なのだと言っていた。
ホテルの部屋で作戦の打ち合わせをした際、千草から小型のヘッドフォンにマイクのついた、ヘッドセットというものを渡された。無線機になっていて、これで作戦中連絡を取り合うらしく、無線の範囲は数キロメートルに及ぶそうだ。思ったよりも現代的なんだなと碧は驚いた。
と、その無線に連絡が入る。
「はろーはろー、こちら瑠璃です。聞こえますかあ?」
気の抜けた声が耳に直接聞こえ、思わず緊張の糸が解ける。これは天然なのか、それともわざとやっているのか、未だに瑠璃の理解し得ない部分は多い。
「こちら千草です。聞こえています、どうぞ」
「こっちも問題なしです」
無線機の性能は良いらしく、ノイズは少なく、ヘッドフォンから聞こえてくる音声はとてもクリアだった。
「とりあえず今は待機していてください。じきに怨霊は姿を見せるはずです」
「現れたら、俺が先に切り込めばいいんですよね?」
碧が先ほどの打ち合わせを思い出しながら確認する。
「はい。私の合図で出てください。ただ、相手は怨霊。無理に止めを刺そうとせず、深追いも厳禁です」
「了解。でも、怨霊ってどんな奴なんだろうな?」
「分かりません。大体の力の大きさは把握しているのですが、その形態も能力も一切情報がありませんから、決して油断しないように。危険だと判断したらすぐに下がってください。私と瑠璃がフォローしますので」
「恐いのじゃないといいなあ……」
おどおどした声色で瑠璃がため息をつくように言う。霊が出るのもそうだが、暗がりに一人でいるのが恐いのだろう。怯えてキョロキョロと辺りを見回す様子が目に浮かぶ。
ふと雲が流れ、十三夜にほど近い、こうこうと浮かぶ月がその姿を隠した。辺りの影が深まり、静けさに包まれる。
「現れます」
囁くようなトーンで短く言い放った千草の一言で、碧の緊張感が一気に高まる。目を凝らし、海岸線を辿る。ゆっくりと、刀の柄に手を伸ばした。
広場の中央、海岸付近に白いもやが音もなく立ちこめていた。そのもやは徐々に濃さを増し、霞がかったように広がっていく。
雲が切れ、隠れていた月がその美しい姿を露わにした。月光が降り注ぐように広場を照らし出す。すると、立ちこめた霞は溶けるように、まるでなにもなかったかのように静かに消えていった。
そして、そこに残るように、怨霊が姿を見せた。
その姿はまるで、人間の女性のようだった。白い日傘を差し、真っ白な、ドレスともワンピースともつかない服を身にまとい、ポツンと海岸沿いに立っている。こちらに背を向け、それは海を眺めているのか、それとも月を仰いでいるのか分からない。肩に掛けた日傘に隠れ、背中から上は確認することができなかった。
静寂が続く。雲が駆け、波の音だけが聞こえていた。怨霊は、一向に動こうとしない。
「千草さん……」
沈黙に耐えかねた碧が、急かすように小声で千草を呼ぶ。
「危険です。相手がなにを考えているのか分かりませんし、性質が分からない以上、不用意に動くのはリスクが大きすぎます」
「でも、向こうはこっちに気づいてない。今なら確実に後ろを取れます」
「しかし……」
千草は言葉を濁し思案する。それでも怨霊は全く動かない。海を眺め、ただ佇んでいるだけだった。もしかしたら、標的が現れるまで動く気がないのかもしれない。
「……分かりました」
そして、千草が決断する。
「碧、怨霊を背後から叩いてください。でも、傷を負わせて相手を消耗させるだけでいい。絶対に甘く見ず、近づきすぎないこと。それから瑠璃、浄化はあなたに任せます。私は碧のサポートに入るので、相手の力が弱まったらすぐに陣を張って下さい」
「了解」
碧と瑠璃が声を揃える。
沈黙が走り、場の空気が一気に緊張で張り詰める。
「……それでは、お願いします」
千草の言葉と同時に碧が飛び出した。
鞘を払い、瞬間的に相手の背後を捕えると同時に斬りかかる。
振り下ろした刃が、傘の生地と骨を断つ。勢いは止めず、そのまま怨霊の首元から腹までを一気に切り裂いた。肉を切るような重い、粘りつくような感覚。
白い傘が怨霊の手を離れ、空を舞った。
完全にとらえた。碧はそう確信した。
身体を大きく切り裂かれた怨霊の身体が痙攣する。碧が顔を上げると、傘に隠れて見えなかった怨霊の黒くて長い、乱れた髪があった。
と、痙攣していた怨霊の首がぐるりと九十度回り、碧の顔を見た。
血の気を失い、まるでミイラのように干乾びた土色の肌。目は節穴のようにえぐれ、深い黒のなかに不釣り合いに小さい眼球がギョロリと、目線を定めることなく碧を見ている。口は大きく裂け、口の端からヒビが入ったように肌が破けている。歯はあるのかないのか分からない、ただ口の中には真っ黒な闇が広がっていた。
ごそりと髪が抜け落ちた。地肌が剥き出しになる。眼球が血走り、裂けた口がさらに肌をブチブチと破って大きく広がる。痙攣が増し、首をカタカタと揺さぶらせる。
「ぎいやああああああああああああああああああああああっ!!」
怨霊が悲鳴を上げた。それは人間の声をしていたが、人の発音ではなかった。
鼓膜が破れるかと思うほどの悲鳴。断末魔であるかのように、怨霊の身体が震える。
「いああああああああああああああああああああああああっ!!」
怨霊の悲鳴が止まらない。思わず碧が刀から手を離しそうになる。
その時、怨霊の顔が碧の視界から突然消えた。そして悲鳴が止む。一瞬碧は、怨霊の首が地面に落ちたのではないかと錯覚した。しかしそれは違った。落ちたのではない。怨霊の身体が、碧の切り裂いたところから左右にめくれ落ちたのだ。まるで骨と支えを失ったように、柳の枝のように傷口から、腹から怨霊の身体は二つに分けて垂れ下がった。
「あっ……」
碧が思わず声を上げる。そして、そのまま言葉にすることなく、その声を飲んだ。
垂れ下がった傷口から、青く濁ったドロドロとした液体が溢れだしたのだ。その液体は粘度の強い気泡を生み、それが無数の人間の顔を形成していく。消えては生まれ、消えては生まれ、ドロドロの液体に人の顔が浮かぶ。その顔は一様に苦しみに満ちた表情で、恨みと呪いの言葉を残していく。
『……苦しい……恐い……痛い…………死にたくない……憎い……助けて……』
呪文は頭の中に直接流れ込むように響き、脳と思考が蝕まれて狂いそうになる。
怨嗟の渦に飲まれたように、苦しみの叫びが幾重にもこだまする。血のように青い液体が流れ落ちる。感情のない無数の目が碧を見る。口が無造作に動き続け、声が止まない。耳鳴りがし、目眩がした。
「あ……これ、は……ひと……人……間……?」
刀が手から滑り落ち、冷たい金属音を立てて地面を転がった。碧が崩れるように膝をつく。
目はうつろに虚空を仰ぎ、頬には涙が伝っている。
「お、俺……人を……人を……そんな……」
手が震える。頭が真っ白になる。それでも叫びは止まらない。
もう、耐えられない。
碧の瞳の色が薄れていく。
その時、怨霊の身体から溢れ出した青い液体が勢いよく噴射した。それは無数の顔を残したまま、上空まで噴き出すと、まるで生き物のように碧を狙って襲いかかる。
「──危ない!!」
瑠璃が叫んだ。しかし、その声は碧には届かない。
碧は虚を見つめ、涙を流し、懺悔をするように何事かをつぶやき続ける。
怨霊から出でた青黒い液体が、碧を射るように降下していく。
動けない碧の頭部を、突き刺すように射抜く。
と、その刹那、オレンジ色の光の障壁が碧の前に展開した。
「碧!」
千草の姿が目の前に飛び込んで来ていた。
手にした護符から、光が放出される。瑠璃が使っていたのと同じ、光の壁だ。しかし、その完成度は段違いと言っていい。千草の作りだした壁は、護符を中心に美しい六角形を瞬時に描き、強固なオレンジの光を持って輝いている。
槍と化した青黒い液体が、光の障壁にぶち当たる。当たった瞬間、強力な電流でも浴びたかのように怨霊の身体が明滅し、火花を散らしながら、後方に大きく吹き飛んだ。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
怨霊が悲鳴を上げながら地面にベチャリと落ちる。
しかし、すぐにまたうごめきだす。溢れた青く濁った液体が、初めの女性のような身体をじわじわと飲み込んでいく。骨を砕くような音がした。
そして、完全に青黒い液体と姿を変えた怨霊は、ゼリー状の不格好な球体状の形をとっていった。全身に悲痛に満ちた顔がはっきりと刻まれる。
「ぎゃははははははははははははははは!!」
突如、怨霊が狂ったように大声で笑い出す。球体状の身体を弾ませるようにして動きだした。高く飛び上がり、ボールのように飛び跳ねる。
こちらに襲い来ると思いきや、怨霊は逃げるように遠ざかり、広場を出てあさっての方向へと跳ねていってしまう。
怨霊の向かった先、あちらにあるのは駅。そして、テーマパーク。
「瑠璃、後を追って!」
「……あ、はいっ!」
千草が血相を変えて叫ぶ。呆然と立ち尽くしていた瑠璃が千草の声で我に返り、怨霊を追って走りだした。と、急に走りだしたものだから、袴の裾を踏んづけてつんのめった。「わわっ」と情けない声を上げながらも、なんとか態勢を立て直し、そしてまた走りだす。
広場を出ていく危なっかしい瑠璃の姿を見送ってから、千草は震える碧に向き直った。
「碧……しっかりして、碧」
碧の両肩をゆする。
「俺……人を斬って……人を……人……」
焦点の定まらない瞳で、碧はつぶやき続ける。触れている肩から、震えが伝わってきた。
「あれは人じゃない。あれはあくまでも怨霊」
「でも、悲鳴が……苦しいって……」
碧が両の掌に目を落とす。手が痙攣したように震えている。うわ言のように、自分を責め立てる。表情が憔悴する。完全に、飲まれてしまっていた。
「碧、こっちを見て……。碧……碧!」
乾いた音が響く。千草が、碧の頬を叩いた。
碧が驚いたように顔を上げる。そして、今まで忘れていたかのように呼吸をし始める。肩を上下に揺らし、荒げた呼吸を繰り返す。
目の前の千草を見る。怒ったような、案じたような表情の千草がそこにいた。
目を見つめる。黒い、温かな光を持った、意志の色濃い瞳が碧を見つめていた。
「あれは、人じゃない。ただ、人の残した強い想いが集まって形を成した、残留思念の結晶でしかないの」
「でも、確かにあれは言った。死にたくないって……痛いって……」
一言一言を確かめるように、碧が言葉を口にする。
「だから……あれは人と同じなんだ。斬ることは……殺すことは……出来ない」
ゆっくりと呼吸を落ち着かせ、瞼を閉じる。涙が、やっと途切れた。
その様子を見て、どうにか正気と冷静さを取り戻してきたと判断した千草が、静かに口を開く。
「あれは人とは違います。負の感情の塊でしかない。放っておけば被害がどんどん広がってしまいます。このままにしておく訳には……」
「分かってる!」
碧が思わず語気を強める。
「分かってます……でも、恐いんです。幾つもの目が俺を恨みがましく見た。叫び声を上げた。死にたくないと、泣いていた……なのに、俺は剣で、傷つけてしまった……」
俺には耐えられない。と、かすれる声で碧は嘆いた。
あの声が、目が、叫びが、呪いの言葉が、頭に焼きついて離れない。どうしようもない恐怖。その全てが碧を臆病にし、立ち止まらせ、追い詰めていった。震える指が、剣を握ることを拒んだ。
「ねえ……碧」
千草の長い黒髪が、かすかに揺れる。不意に、千草の胸元に抱き寄せられた。頭にのせられた手のひらから、温かな、生きた重みが伝わってくる。優しく包み込まれるような安心感。
碧は、突然のことに言葉も出ない。
「碧は、あの子たちの顔を見た?」
千草はゆっくりと頭を撫でながら、まるで小さな子供にものを諭すような柔らかな口調で話しだす。
「みな、苦しそうな顔をしていたでしょう? 助けてって、声が聞こえませんでしたか?」
確かに聞こえていた。怨嗟の渦の中、助けてと、救いを求める怨霊たちの叫びが確かに聞こえていた。
「私たちは、その声をちゃんと聞いてあげなきゃいけないの。あの子たちは所詮、ここで命を亡くした人間たちの意志が地脈によって力を得た、残留思念の塊でしかありません。でも、あの子たちは苦しんでいるの。人の想いは、他人を襲うことや怨霊を生むことなんて望みはしない。あの子たちは、不幸にも怨霊と化してしまった、かわいそうな想いの葉なのです」
千草の表情は窺い知ることはできない。ただ、耳元に千草の悲痛な言葉が響く。
「私たちは、あの子たちを救ってあげられる。私たちなら、あの子たちを苦しみから解放してあげられる。私たちは……決して、あの子たちを傷つけている訳じゃない」
ふと、碧の頬に一雫の水が落ちた。温かな水が、碧の頬を撫でる。
「千草さ──」
千草の緩んだ腕の隙間から、顔を上げた碧が言葉を失う。
千草が、泣いていた。あの表情を決して表に見せない千草の頬に、涙が伝っていた。
「狐面だって、あの子たちと一緒──」
その言葉を聞いた瞬間、碧の心臓がひと際大きく鼓動を打つ。
「碧、あなたは傷つけるために、刀を振るうの? 殺すために、狐と戦うの?」
狐面が苦しんでいる? あの怨霊と同じように、妖狐もまた、苦しみを抱え、救いを求めている?
「それでは、あなたはただの鬼になってしまう……」
自分が戦うのは、憎しみのため? 誰かを守るため? 誰かを救うため?
でも、それがなんのためであれ、結局それは憎しみの連鎖を生む。狐のように、次は自分自身が怨念に飲み込まれてしまうかもしれない。もしかしたら、狐の叫びがまた新たな怨霊を生むかもしれない。
──私たちなら、あの子たちを救ってあげられる。
千草の言葉を反芻する。
「浄化……」
倒すためではなく、救うために。そう心の中で繰り返す。
碧が立ち上がる。千草が釣られたように顔を上げ、碧の顔を見る。
「碧?」
「千草さん、すみませんでした。俺……」
千草の目に映る碧の表情からは、先ほどの恐れも、憔悴も、不安も、全てが消え去っていた。その瞳には、意志の光が色濃く宿っていた。
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