5
翌朝、千草は現場の下見と準備がしたいと言って、結局テーマパークへは来なかった。
うまく逃げられたと碧は思ったが、そんなものは早い者勝ちである。碧までそんなことを言ったら、瑠璃が泣きだすのは目に見えている。もはや碧は腹を括るしかなかった。
開園前、エントランス前に来ると既に溢れるほどの人で長蛇の列ができていた。この時点で括った腹が緩みだす。
定刻十分前に開場した園内に入ると、そのテーマパークのキャラクターである着ぐるみたちが出迎えた。皆キャーキャー歓声を上げながらあっという間にキャラクターたちを取り囲んでいく。瑠璃もその例に漏れず、赤い毛むくじゃらのモンスターに駆け寄っていく。
しかしこの炎天下、着ぐるみの中は地獄だろう。一体あの中はどれほどの温度になるのか、考えるだけで汗が噴き出してくる。
瑠璃が、赤いモンスターの腕を掴みながらこちらに手招きしている。どうやら写真を撮れということらしい。しかし、背の低い瑠璃とモンスターが並ぶと、頭から丸ごとぱくりいかれてしまいそうな雰囲気がある。そうなったら瑠璃は泣いて恐がるだろうとその様子を想像し、込み上げる笑いを碧はこらえた。
おざなりにデジカメのシャッターを押してやるも、瑠璃は満足したらしく、まずは人気のアトラクションに乗るのだと言って歩き出した。
移動中、瑠璃に渡された場内マップを見る。
「最初はここね」
そう言って、マップの中央付近を指差す瑠璃。
「いきなりジェットコースターからか」
「一番人気なんだって。早く行かないと並んじゃうよ?」
ジェットコースター乗り場に着くと、もう順番待ちの長い列ができていた。急いで来た甲斐あってか、これでもまだ並んでない方なのだという。
「このジェットコースター身長制限あるみたいだぜ。琴引小さいから引っかかるんじゃないのか?」
並んでいる間暇だったので、瑠璃をからかってみる。
「そんなことないよ! そんなにちっちゃくないもん! 伏見くんいじわる言って……」
瑠璃はムキになって怒っていたが、かなり気にしたらしく、その後キャストの横を通り過ぎるたびになにか言われるのではないかとビクビクするわ、規定の身長計の前を通る時などはそうとうドキドキだったらしく、こっそり背伸びをしながら通り抜けていた。まあ、結果的には身長計からはかなり余裕があり、止められる訳もなかったのだが。そもそも、小学校三年生にもなればジェットコースターなんて大抵どれも乗れるはずで、高校生にもなってお断りをくらうことなんてまずないことなのだが、瑠璃の挙動不審な姿が面白かったので、碧はそれを黙っていた。
随分長い間並ばされていた割に、ジェットコースター自体は三分ほど度で終わってしまった。なんだか思ったよりも呆気なかったな、と碧は思った。そういえば、子供のころはジェットコースターを随分怖がった記憶がある。それも鬼の力を使うようになってからだろうか、全く恐いとも感じなくなった。あれだけの身体能力がついたのだ、それは当然と言えば当然なのだが。
ベンチに座りぐったりとうなだれる瑠璃を眺めながら、そんな昔のことを碧は懐かしんでいた。
「うう、ぎぼちわるい……」
「なぜ苦手なモノに、いの一番に乗りたいと言いだした?」
「だって……だって……」
瑠璃が涙ぐむ。
ジェットコースターに乗りこむまで、結局四十分ほど並ばされた。やっと自分たちの番が来て、碧がやれやれとコースターに腰を落ち着けると、隣に座る瑠璃は既に肩を震わせ安全バーを全力で握りしめていた。出発のベルが鳴り、コースターが動きだすと同時に叫び出す瑠璃。途中、ループを回った辺りでぱたりと悲鳴が止み、やっと静かになったかと思うと、出発地点に戻ってきたときには瑠璃はぐったりとして声も上げなかった。碧は動かなくなった瑠璃を無理矢理コースターから引きずり出すと、やっとここまで持ってきたという訳だ。
「アンバサ……」
「へ?」
突然意味の分からないことを口走る瑠璃に、とうとうおかしくなってしまったのかと碧は驚く。
「アンバサ、アンバサが飲みたいの!」
「気持ち悪いのに炭酸飲むのかよ?!」
「あの……ごめんなさい」
それから十分ほどして、やっと落ち着いた瑠璃が申し訳なさそうに、だがどこか拗ねたように顔を伏せて言った。
「いや、いいよ別に。俺もずっと並びっぱなしで少し座りたいと思ってたから」
人が目の前をひっきりなしに通り過ぎていく。ワクワクと心膨らむ音楽が流れ、子供、大人、家族、友人、恋人とあらゆる種類の楽しげな声が四方から聞こえてくる。喧騒。それが嘘のように、碧の心は今ゆったりとしていた。なにか心地よささえ覚えるこの感覚。
「アンバサ、おいしかった……」
「変わったのが好きなんだな? 俺も子供の頃よく飲んだよ」
空になった紙コップを覗き込む瑠璃を見て碧は笑って見せた。
「あの、あ、あお……伏見くん……?」
瑠璃がもごもごと口ごもり、なにかを口にする。しかし、その言葉は尻すぼみになって、碧にはほとんど聞き取れない。
昨日からこうだった。時折碧に話しかけるとき、もじもじとなにかを恥ずかしがるように瑠璃は言葉を濁す。昨日の夕飯の時も、朝もそうだった。「どうかしたか?」と聞くと、瑠璃はすぐにかぶりを振った。しかし、碧はなぜ瑠璃がこんなに居心地悪そうにそわそわしているのか、本当は分かっていた。
それは名前だ。大阪に来た時から千草が碧のことを呼び捨てで呼ぶようになっていたのを瑠璃は気にしていたのだ。もちろん瑠璃は、碧が自分から呼び捨てにするように千草に頼んだことを知らない。急に碧と千草の仲が縮まったように感じ、自分だけが碧のことを未だに名字で呼び、また自分だけが名字で呼ばれていることに対し、なにか焦りのようなものを感じているのだろう。まるで自分一人だけが置いていかれてしまったような、そんな焦燥感。名前でもなんでも、呼びたければ好きに呼べばいいと碧は思うが、瑠璃はどこか気の小さい、臆病なところがあってそれが出来ないのだろう。まあ、そういう気弱な小動物のようなところがかわいくて、今までそれに気付きながらも、ついつい気付かない振りをしてしまっていたというのもあるのだが。
「あ、あ……お……伏見くん。次は、どうしようか……」
碧は小さくため息をつくと、瑠璃の問いには答えず、無言で立ち上がる。そして歩きだした。
「え? あの……」
急に背を向け歩きだした碧に、瑠璃はなにか怒らせるようなことをしたかと勘ぐるも、訳が分からず混乱してしまう。「え? え?」と瑠璃が連呼する。
十歩ほど歩いて碧がおもむろに足を止める。振り返り、困惑する瑠璃を見据えて口を開く。
「まだアトラクション一杯あるんだろ? 早く行こうぜ──瑠璃」
碧の突然の言葉に呆気に取られる瑠璃だったが、三秒ほど遅れて顔がほころんでいった。
瑠璃は勢いよく立ちあがると、立ち止まって待っている碧の元へと駆けて行く。
「待ってよ、碧くん!」
嬉しそうに碧の後ろについて歩く瑠璃。その姿は、まるで親の後をついて歩く子犬か子猫のようだった。
それからパーク内を一通りみて回った後、二人は今夜の仕事のことを考えて、早めにパークのゲートをくぐった。
夕日で赤く染まる海岸沿いを二人で歩く。瑠璃が碧の数歩手前を歩いて行くが、伸びた影は寄り添うように重なり合っている。
「瑠璃、ありがとうな」
影が止まる。瑠璃が振り向いた。
「なんのこと?」
「いろいろだよ。今までずっと世話になってたけど、ろくにお礼も言ってなかったなと思って……」
「なんだ、そんなこと」
「今日も、楽しかったよ」
「なら良かった。碧くん、はじめ嫌そうな顔してたから、つまらないと思ってないか心配だったんだ」
宵の淵が迫り、徐々に空が紫色に変わっていく。星が一つ、二つと輝き始めた。
「今年の夏休みは俺、本当に嬉しいことで一杯なんだ。こんなに嬉しいと思ったのは初めてかもしれない……。初めは怪しい変なヤツだと思ってたけど、瑠璃と一緒に京都に来て──」
「あ、ひどーい」瑠璃が頬を膨らませる。
「それから紫苑様やもえぎさん、千草さんに会って……。千草さんの料理、ホントに旨いよな!? 俺、母さんの身体があんなだろ? だから手料理ってずっと食べてなくて……。他にも京都を回ったり、大阪にまで来ちゃってさ。旅行なんて、今までほとんどしたことなかったから、ホントすごく楽しいんだ」
「そう……」
「狐面のことも、瑠璃のおかげでやっとここまで来れた」
瑠璃は碧の顔をじっと見つめる。しかし、薄暗闇のせいで碧の顔には影がかかり、表情は良く見えなかった。
「だから、瑠璃のこと……瑠璃に会えたこと、本当に感謝してる」
静かな波の打ち寄せる音が聞こえてくる。
歩道に沿って立てられた街灯が、一斉にオレンジ色の明かりを灯した。
どこからか、海に浮かぶ船の汽笛が、霞むように小さく鳴った。
街灯に照らしだされた影が揺れる。レンガ調のタイルがコツコツと乾いた音を立てた。
ゆっくりと、こんどは本当に二人の影が重なり合う。そしてまた、ゆっくりと影は歩きだした。
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