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「大阪、ですか?」
紫苑からの突然の申し出に、碧はすっとんきょうな声をあげた。
翌日、朝食後部屋で休んでいた碧は、千草と瑠璃に本殿に連れてこられた。
本殿に着くと、そこには紫苑と、なにか気持ち悪いくらいニコニコしたもえぎが待っていた。
「そうじゃ。怨霊退治の依頼が来ておっての、それを碧にこなしてきて欲しいのじゃ。まだ満月まで日もあるしな。二、三日行ってきてくれんかの? これだけただ飯食わせて、部屋も用意してやっとるんじゃ、まさか嫌とは言わんだろうな?」
「いや、それはもちろん。でも……」
「でも、なんじゃ? 情報によれば、碧ならば簡単に退治できるほど度の怨霊じゃし、依頼主は市政じゃぞ。報酬は税金からがっぽりじゃ!」
「いや、そんなこと力いっぱい言われても……関係各所から苦情が来ますよ? それに心配してるのはそんなことじゃなくて……俺、大阪一度も行ったことないから」
「なんじゃ、そんなことか。心配には及ばん、今回もまた瑠璃には同行してもらう」
「また、一緒だね」と瑠璃が、碧に笑顔を向ける。
「それに今回は正式な依頼事じゃ。まさか碧と瑠璃の二人だけで行かせる訳にはいかん。そこで今回は引率として──」
そこで、例のニコニコ顔のもえぎが胸を張って一歩前に出る。
「……千草に、一緒に行ってもらう」
紫苑は、何故かふんぞり返るもえぎを横目に、若干言いにくそうに、尻すぼみにそう言った。
「えええええええええええっ!?」
そのとたん、大声をあげたのはもえぎだった。発狂するがごとく、もえぎの叫びが広い本殿にこだまする。
「なんで、紫苑様?! なんで千草なの? 昨日、今回はあたしが行くって言ったじゃない!! 千草もそれでいいって言ったよね?!」
千草をビシッと指差す。千草はなにかを考えているのか、はたまたなにも考えていないのか、差された指をじっと眺め、微動だにしない。
「じゃから何度も言っておろうが。もえぎには京に残って手伝ってもらいたいことがあるのじゃと」
弁解するように、しかしどこか面倒くさそうに紫苑が言う。
「ひどい、あたしに一人で山登りさせるつもりなのね!? あたしのこと、ただの体力バカだと思ってるんでしょ?!」
紫苑はなにも言わなかった。面倒という言葉が顔に書いて読み取れる。そんな表情でもえぎをうんざりしながら見ていた。
「あたしも大阪行きたい、行きたい、行きたい~っ!! ユニバーサンスタジオ行きたい~っ!!」
どこの婆さんだよ! 碧は思わず突っ込みそうになったが、下手に火に油を注ぐようなことは止めておいた。
「うるさいぞ、遊びに行くんじゃないんじゃ! それにお主は土日、毎週のように大阪に行っておったでわないか!」
わめき続けるもえぎに尾を切らし、紫苑が怒りをあらわにして言う。
「それは高校生の時の話でしょ! あれはバイトで日本橋に行ってただけだから全然違うの! 遊園地じゃないの!」
「心斎橋行きたい~っ!」と、もはや当初の目的からだいぶズレたことを騒ぎだした頃、千草は見るに見兼ねてか、もえぎの隣に立ち、耳元でボソリとつぶやいた。
「……日本橋、魔女っ子カフェ」
「──っ!」
その瞬間、もえぎが硬直する。ギリギリと油の切れたロボットのように首を回し、無表情のままの千草を見る。
「え? 魔女、なに?」
千草のあまりの声の小ささに、上手く聞き取れなかった碧が聞き返す。
紫苑はパッと顔を華やげ、懐に手を入れながら、
「おお、そうじゃ。その時の写真を──」
「スミマセンでしたーっ!!」
早かった。その時のもえぎの動きは、まさに目にも止まらぬ速さ、神速だった。一瞬で土下座に転じたもえぎは、三つ指を突き、気付いた時には板間に深く額をめり込ませていた。
「わたくしめが京に残り、紫苑様のお手伝いをさせて頂きます!! なので、なので、どうかそのお手の物をお納めに……」
「おお、そうか?」ニヤニヤしながら紫苑は、なにかを取りだそうと懐に入れた手をゆっくりと抜き出す。
もえぎは苦渋と羞恥心に満ちた声にもならない声を上げると、急いで立ち上がり、真っ赤にした顔を押さえながら、「イヤーッ!」と叫びながら本殿から走って出て行ってしまった。
カラカラと笑う紫苑と呆気に取られる碧と瑠璃。千草はやはり、無表情のままもえぎの姿を見送っていた。
そんなわけで全員の合意の元、碧と瑠璃と千草の三人が、大阪へ向かうことが決定したのだった。
大阪への出発の日、駅まではもえぎの車で送ってもらった。
車中、もえぎはずっと「あたしも行きたかった」とか「たこ焼き食べたい」とか恨み言のようにぐちぐちと文句を言っていた。そして三人が車を降りる間際、「これお願いね! 頼めるの碧くんだけだから」とウインクをしながら、なにやら二つ折にされたメモ用紙を碧に手渡した。
碧が広げてそれを読んでみると、そこには『もえぎちゃんの欲しいお土産リスト☆』と手書きのカラフルな丸字で銘打っており、下記には食べ物からキャラクターグッズから洋服に至るまで、商品名が事細かにビッシリと並んでいた。
よくよく見ると、その中には下着の類にまで要求が及んでいた。碧はため息をつくと、不思議そうな顔をする瑠璃に、そっとその紙を手渡した。
依頼の目的地である大阪市の湾岸部までは、比叡山の麓の駅から在来線を乗り継ぎ、約一時間半で行ける距離だった。
京都から大阪まで一時間ほどで行けるというのは、碧にとって意外だった。京都と大阪は距離的にもっと離れていると思っていた。
三人は電車のボックス席に座っており、碧の向かいには千草が、隣には瑠璃が座っていた。瑠璃はいつの間にか、すやすや寝息を立てており、こっくりこっくりと時たま碧に肩を預けてきた。
瑠璃のあどけない寝顔が顔の間近に来る。シャンプーの甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「あの、千草さん」
碧は、このまま黙っているとなにか魔が差してしまいそうな気がして、車窓から流れる風景をずっと眺めていた千草に声をかけた。
千草がゆっくりと顔をこちらに向ける。
「千草さんっていつも巫女装束ですよね、他の服って着ないんですか?」
以前、紫苑にもした質問だ。大阪に遠出する今日もまた、いつものように千草は緋袴に白衣という出で立ちだった。
「これは私たちにとって正装ですから。私はこれを着ているのがほとんどです。と言いますか、私はあまり服を選んだりというセンスがないもので、これを着ているのが一番楽なのです。……やはり、おかしいでしょうか?」
「いえ、そんなことは……」と碧はかぶりを振る。そして会話が止まり、気まずい雰囲気が流れる。
紫苑の元で世話になり始めてもう半月ほど経っていたが、そういえば千草と二人で会話をしたことなんてほとんどなかった。千草は無口で、もえぎのように自分から絡んでくるタイプではなかったし、いつも家のことで忙しそうにしていたので、こうしてゆっくり顔を合わせることも稀だった。千草のことは決して苦手ではなかったが、とっつきにくさはどうしても拭えなかった。千草の無表情に切れ長の細い眼は、美人ではあるがどこか触れがたい、ガラス細工のような繊細さを持っていた。
沈黙に耐えきれず、碧が口を開く。
「そういえば、昨日言ってたもえぎさんの写真の話って何なんですか? もえぎさん、ガラにもなく随分焦ってたみたいですけど?」
「……それは私の口からは言えません。もえぎさんに直接聞いてみてください」
少し思案してから千草は短く答えた。まあ、当然と言われれば当然だった。もえぎがあれだけ嫌がっていたことを、千草がここでおいそれと口を滑らせる訳がない。
上手く会話が続かない。なにを話せばいいのか皆目見当もつかなかった。思い切って「ご趣味は?」とか聞いてみればいいのか。しばらく考えていると、今度は千草が口を開いた。
色素の薄い、薄紅色の綺麗な唇が控えめに開き、か細い声が漏れる。
「碧様には──」
『碧様』。今まで気にも留めなかったが、千草は初めて会ったときからずっと、碧のことを様付で呼んでいた。それに今になって急に違和感を覚えた。様付で呼ばれることに対し、変な居心地の悪さを覚えた。
「あの、その碧様っていうの止めてもらえませんか?」
思わず碧は千草の言葉を遮ってしまった。千草はびくっと肩を震わせ、少し怯えたような表情を見せる。
「あ、いや、なんて言うか、様って呼ばれるの慣れてなくて、なんか気持ち悪くてさ。ほら、千草さん俺より年上だし、琴引のこと呼んでるみたいに、俺のことも呼び捨てで碧で十分ですよ。ていうか、そっちの方がありがたいっていうか……」
碧は、まずいことを言ってしまったかと、その場を必死に取繕うとしどろもどろになる。
千草はまた少しの間考えると、
「分かりました。それでは、碧」
そう言って、話の続きをし始めた。碧はホッと胸を撫で下ろす。
「碧には話していませんでしたが、私には両親がいません」
千草はさらりと表情一つ変えずに言ったが、碧は驚いた。なぜ、急にこんな話をし出したのか。
「碧やもえぎさんのように強いものではありませんが、私にも、生まれたときから人とは違う力がありました」
千草が目線をまた車窓に流れる風景に戻す。ちょうど車両は、田園風景の只中を走っていた。天気は曇り。太陽の光を遮ってくれるので、幾分気温は和らいではいたが、その代わり蒸し暑さはいつもより増していた。
「私の両親は、人にあらざる力を持つ私を恐れ、私を捨て、蒸発したと聞いています。それは私が物心つく前のことでした。ですから私は両親の顔を知らず、記憶にある頃には、既に親戚間を転々としていました。そして、最後には施設に預けられました。ずっと一人で、なにも見えない闇の中を生きているような気持でした。誰も、頼るものも、温もりを与えてくれるものも、なにもなかった。……でも、そんな私を拾ってくださったのが、紫苑様でした」
淡々と語る千草の表情も、声のトーンもいつもと全く変わらなかったが、その言の端一つ一つに、暗い影と悲哀の叫びが籠っていた。
「紫苑様が、私を救ってくださったのです。闇に沈む私に手を差し伸べ、救い上げてくれた。紫苑様は、私に笑うということを教えてくれました」
千草は目をつむり、首を傾げ、もう一度ゆっくりと目を開くと、碧を見た。
「でも、未だに私は上手く笑うことができない」
千草は悲しそうに息をついた。
「……なぜ、そんな話を俺に?」
自分の核心をつくような過去を、普通であれば、他人に知られることすらはばかられるであろう事を、何故急にここで話したのか、碧は不思議でならなかった。
千草の瞳は碧から外すことなく、ゆっくりとまた口を開く。
「碧、あなたが、私と同じように見えたから」
碧は千草のその言葉に、虚を突かれた。
「あなたも、ずっと一人きりでもがき続けてきたんでしょ? 孤独というのは、とても寂しいの。暗くて、心細くて、本当になにも見えなくなってしまう。……でも、大丈夫よ。紫苑様が、碧のことも必ず助けてくれる。それに、もえぎさんも、瑠璃も、私もいる。もうあなたは一人じゃないから」
そんな、俺のために、俺を思ってこんな話をしてくれたのか。そう思うと、碧は言葉に詰まった。なにも、言葉が思いつかなかった。
「私は、紫苑様の役に立ちたいのです。救ってくださった、お礼がしたい」
そう言う千草の声音は、先ほどに比べ、やや柔らかくなったように感じた。
そっと手を伸ばし、碧の隣で眠る瑠璃の頭に手を乗せ、優しく髪をすく。瑠璃の髪を撫でる千草の顔は、優しく微笑んでいると同時に、どこか悲しみを抑えた表情であるようにも見えた。
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