3

『……なんだ、こんなところでくたばるのか?』


 不意に、男の声が聞こえた。


『情けない、前世のお前はもう少しましだったぞ? 力を望み、素直に俺に頭を垂れた』


 男の声が笑う。その声はひどく鮮明で、まるで頭の中に直接語りかけてくるようだった。


『なのになんだ、お前は? 力を持ちながら、この俺の力がありながら、それを使おうともしない。地べたをはいずりまわっているばかりではないか』


 誰だ?

 力ってなんだ? 紫苑も同じようなことを言っていた。お前には、力があると。

 ……でも、どうすればいいか分からない。


『なぜもっと単純に考えられない? 生き物の根底にある欲望を、ただ純粋に欲すればいいだけだろう?』


 過去の俺……一体どうやって力を使っていた? どうやって鬼の力を。

 まだ目が開く。視界が滲み、ぼやけるが、なんとかボロボロの刀を視界にとらえる。手を伸ばせば届く距離。最後の力で刀に手を伸ばす。


『思い出そうとするな。考えるな。ただ、お前の中にある鬼を感じろ』


 俺の中の……鬼……


『心臓の鼓動に耳を傾けろ。胎動が、鬼の血が身体中を駆け巡る音が聞こえるだろう? ……身体の中を流れる鬼の血に身をゆだねろ』


 じりじりと、手を伸ばす。刀に近づいていく。


『ただ思え。望め。力が欲しいと。敵を八つ裂きにしたいと』


 瑠璃に視界を移す。完全に狐面に押されている。それでも瑠璃は懸命に、諦めずに防ぎ続けている。泣き叫びながら。決して諦めずに、待ち続けている──

 俺の、望んでいるものは……


『願え、生きたいと!』


 生きたい。

 そう、生きたい。

 母さんの、元気な姿をまた見たい。俺を、その目でまた見て欲しい……


『そして──』


 そして──

 少女を見る。泣き叫ぶ少女を。

 俺は本当に弱い……あの子は、俺なんかよりもずっとずっと強い。これだけの状況下に置かれながらも、誰かを信じ、戦い続ける。

 叫ぶ声は聞こえない。しかし、それは誰を呼んでいるのか分かる。

 涙が滲むほど、自分の力の無さが憎い。情けない。

 あの子を泣かせてばかりの自分が……

 求められる声に応えてやれないのが、悔しい。

 見ているだけしかできない自分か……

 だから……だから……


『そして──』


 そして──


「──守りたい!!」


 刀に手が届く。

 心臓が、ひときわ強く鼓動を打った。

 その瞬間、目がくらむほどのまばゆい光が立ちのぼる。台風のような強風が渦を巻き、辺りを吹き荒れる。

 狐面達が、強風に巻き込まれ軽々と吹き飛ばされた。瑠璃はあまりのまぶしさと強風に顔を覆って地面に身体を伏せる。

 雷が落ちたような衝撃。

 碧の身体が光を帯びて中空に浮かぶ。荒れ狂う風が碧を取り巻くように渦を作る。大地から閃光が溢れだす。

 あれだけ深くえぐり取られた腹部の傷が、みるみる再生し、回復していく。黒く錆び、今にも折れてしまいそうだった刀が過去の輝きを瞬く間に取り戻す。血を塗りつけたような朱色の鞘、くろがねの鋭く輝く鍔。柄に彫られた装飾も、柄巻も全てがその力を取り戻していく。

 まばゆい閃光が光の柱となって立ちのぼり、夜の闇に包まれた空を、怒号とともに貫いた。


◇    ◇    ◇


 鬼鎮神社、本殿。

 眠るように目を閉じていた紫苑が目を開く。

「紫苑様……」

 傍らに立つもえぎが口を開く。

 紫苑は立ち上がり、境内へと歩いていく。

 裸足のままで地面に下り、西方の空を見上げ、心を馳せるように胸元を掴む。

「酒呑……様」

 もどかしさを押さえるように、紫苑は静かにその名を呟いた。


◇    ◇    ◇


  光が収束していく。

 天空にのぼった光の柱は、プラズマのように電気の尾を引きながら、夜の闇に四散していった。強風が止み、夜の静けさが戻って来る。

 瑠璃は周囲が鎮まったのを感じ、伏せていた顔をゆっくりとあげた。

 辺りは、まるで暴風の過ぎ去った後のような惨状が広がっていた。木々の枝はへし折れ、葉が辺りに散乱している。地面は一部えぐり取られたようなクレーターを作り、砂煙が舞っている。

 そして目の前には、碧が立っていた。

 紅色の鞘に納められた刀を手に、空を仰ぎ、静かに佇む姿は普段の碧となにも変わらないように見えた。

 しかし、瑠璃は言葉が出なかった。空気が、碧の発しているオーラが、さっきまでのものとは明らかに違っていたからだ。無音、まるで凪のように静まり返った平静。なのに、そこから抑えても抑えきれないほどの、滲み出す力の端。獣であれば、その前に立っただけで震え上がってしまうであろう、碧をとりまく緊張感。絶対的な力と、優越を得た瞳の深い輝き。しかし口元には、どこか無常を悟るような寂しさが浮かんでいた。

 夜風が優しく碧の髪をなでる。まるで微弱な電気を帯びたように、時折バチバチと青白い火花が全身からはじけ散る。

 意を決したように口を開こうとする。だがその瞬間、瑠璃は息を飲んだ。

 碧の瞳が赤く、紅月のように血を差したがごとく色を変えたのを見たからだ。しかし、それはほんの一瞬で、すぐに瞳は黒い輝きを取り戻した。

 ズドン、と地鳴りと共に木々が震えた。カエル型の狐面が身体を起こし、今まさにこちらに襲いかかろうとしていた。

 碧は狐面の姿を見とめると、すらりと刀を鞘から抜き放つ。刀身が鋭利な、鋼の輝きを放つ。

 狐面が真っ黒な舌を勢いよく伸ばす。一直線に碧に向かって飛んでいく。

 碧は、躍り出た。

 伸びる舌に、狐面に向かって突っ込んでいく。刀身を立て、襲いかかる舌を迎える。

 狐面の舌と刀身がぶつかる。そのとたん、狐面の舌は先から綺麗に二つに裂けた。あれだけ硬く、刀と打ち合い、それでも傷一つ付かなかった狐面の舌が、まるで紙でも破るように、いとも簡単に真っ二つに裂けていく。

 碧はそのまま足を止めず、舌を裂きながら狐面本体へと駆ける。

 そして、狐面の目の前まで来たところで舌を根本から切り上げる。その動作は、力を入れた様子も、勢いをつけた様子もまるでない。ただ、刀の剣先に舌をのせて持ち上げただけのように見えた。

 狐面の舌が切断される。打ち上げられたように舌が狐面の身体から離れ、それはまるで、それ自体が一つの生き物であるかのように空中で波打ち、暴れまわりながら地面へと落ちていき、そして動かなくなる。

 碧が狐面を睨むともなく見つめる。

 その深い瞳に飲み込まれたように、一瞬狐面の身体がびくりと震える。

「悪いな。やっぱり殺されてやるわけにはいかないんだ」

 言って片手で持った刀を振り上げる。そして静かに、刀を狐面に向かって振り下ろした。

 振り下ろした切っ先から旋風が生まれる。旋風は狐面の身体を通り越し、地面を鋭くえぐり、後方に生える木々の幹を何本も何本も一瞬にして切断していく。まるで巻き起こる突風のように。

 狐面の動きが止まった。面に綺麗な一本の線が入り、そこから狐面の身体が二つに分かれていく。真っ二つになった狐面の巨体が地響きを立てて、左右に倒れ落ちた。

 地面に伏した身体の切り口から、静かに狐面が闇へと還っていく。

 と、右後方の草むらが揺れた。碧が振り向くと同時に人型の狐面が飛び出してきた。

 カマキリのように腕を構えながら、碧に飛びかかる。

 初太刀を飛び退いてかわす。二撃、三撃と刀身を当てて避ける。四撃、五撃からは、もはや刀を使うことさえ必要なかった。身体をひねる、足を運ぶ。それだけでかわすのに十分だった。斬撃が皮膚のすれすれを斬っていく。でも決して当たらないし、かすりもしない。狐面の攻撃を、完全に見切っていた。

 狐面が大ぶりな攻撃を放つ。碧はそれを身をひるがえして避け、空いた腹に蹴りを叩きこむ。刺すように狐面を蹴りあげる。腹に足先が深く突き刺さった。次の瞬間、爆発が起こった。狐面の腹から閃光とともに爆音が鳴り響き、その身体は大きく中空を吹き飛んでいく。

 木々の葉をかすめながら、狐面がまるでデク人形のように飛ばされる。碧は瞬時に地面を蹴り、吹き飛んで聞く狐面を追った。

 その目にも止まらぬスピードたるや、一瞬で碧は飛んでいく狐面に追いついた。枝を蹴り、狐面をとらえる。碧は矢のように空を切る狐面に向かい刀を構え、そして静かに剣を薙いだ。

 その刃が狐面に触れたかどうかは分からない。しかし、その剣先が生んだ突風が、狐面を飲み込み、さらに上昇させていく。木々の葉を乱風のごとく巻き込み、散らせ、狐面の身体もろとも山の斜面を駆け上がっていく。

 真空を舞うかまいたちが狐面の身体を次々と切り刻んでいく。

 狐面は碧の作りだした突風に飲み込まれ、空に昇るようにしてその姿を消していった。

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