2
麓近くまで下りてきた頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。
そして、登りの際にも通った首塚に差しかかったところで、奴が現れた。
木の陰からこちらを覗いていた白い狐の面が、のそりと姿を見せる。祇園祭の時に見た、カエルのような形をした奴だった。
「さがってろ。手は出さなくていい」
碧は先ほど手に入れた刀を瑠璃に預け、肩に掛けていた日本刀を取り出す。
こいつは身体が大きい分、力は強いが動きが鈍い。山道の狭いこの場所では自分の方が有利に動ける。スピードで撹乱して早期決着に持ち込む。瞬時に頭の中で作戦を固め、碧は狐面と相対する。
狐面の大きく裂けた口からだらりと大量のよだれが垂れ落ちる。その姿は、ニヤニヤと嘲笑っているかのように見えた。
先に動いたのは碧だった。跳躍するように狐面との間合いを詰める。瑠璃には近づかせない。多少無茶をして自分が不利になったとしても、先手を奪われる訳にはいかなかった。
狐面に真っ向から迫り、刀を振り上げる素振りを見せて、瞬時に横に回り込む。このフェイントに対し一瞬の対応の遅れを見せた狐面の腹に、碧は渾身の蹴りを放った。狐面が吹っ飛ぶ。木に激突し、重い音が地面を震動させた。
追撃。吹き飛んだ狐面を追い、刀を振るおうとするが、そこへ態勢を戻した狐面の舌が襲いかかってくる。黒く、鋼鉄のような強度を持つ伸縮自在の舌がムチのようにしなり、突き刺さる。碧はそれを刀でさばくが、そこへ狐面本体が突進してきた。さすがにこれを受け流すことは不可能と、正面からそれを受け止める。衝撃音が響き、木々の枝が揺れた。
拮抗する両者だが、徐々に碧が押されていく。力だけではこいつには勝てない。碧は瞬時に力を抜き、狐面の力を利用して後ろに跳躍する。急に力を抜かれた狐面が前につんのめる。碧は木の幹を足場に着地、その反動を利用して今度は狐面に向かって突っ込んでいく。振るった刀が狐面の肩口を捕え、刃が肉に食い込んだ。
一閃。狐面の肩から横腹にかけてを切り裂いた。狐面がうめき声をあげる。しかしまだ浅い。致命傷には至らず、狐面はまた碧に向き直る。
碧と狐面との交戦が続く。
打ち放った斬撃がはじかれて、その反動で空中を回転しながら碧は距離を取った。背後に控える森を背に態勢を立て直し、乱れた息を整える。
思った以上に戦いが長引いてしまっている。勝てない相手じゃないが、力負けしてしまう分体力の消耗が激しい。
狐面がこちらを窺う。一歩にじり寄る。どうする、長引けば長引くほど不利になっていく。首塚の社付近に立つ瑠璃に目をやる。やはり瑠璃に援護を頼んでこの場は切り抜けるしかないのか……
木に身体を軽く預けて思考をめぐらしていると、対する狐面がニタリと笑った。避けた口を広げ、よだれを垂らしながらニタニタとまるで楽しそうにこちらを眺めている。
なんだ、一体なにを笑っている? 気持ち悪い奴め──と、不意に背中と脇腹に違和感が走った。
異物感のようななにか。瞬間、碧はその異物感が何なのか、理解できなかった。
自分の腹に目を落とす。右腹から、黒い槍のようなものが突き出ていた。突き出た傷口から血が滲み、服をどす黒い紅に染めていく。
──しまった!!
碧は全てを理解し背後を振り返る。そこには、暗闇に浮かぶ狐面があった。
「もう一匹いたのか!?」
振り向きざまに斬りかかろうとするも、狐面の腕は碧の背中から腹を貫通していて上手く身動きが取れない。遅れて痛みが襲ってくる。絶叫するほどの痛み。
「くそおおおおおっ!!」
森の中にもう一匹、人型の狐面が隠れていた。今まで複数の狐面が一気に出てきたことなんて一度もなかった。完全に誤算だった。
突き刺さった腕を引きぬこうと身をよじる。しかしそうはさせまいと、狐面が腕をねじるように大きく横に開いた。その瞬間、まずいと思った。
肉がえぐられる。狐面の腕が腹の肉を大きくえぐる。碧の身体を切り裂き、右脇腹をそのまま切り落とし、持っていった。
碧がその場に倒れ込む、えぐりとられた脇腹の肉が、血をぶちまけながら肉塊となって地面に転がり落ちる。遠目にその様子に気づいた瑠璃が悲鳴を上げた。切り裂かれた腹から、内臓と骨が露出し、せきを切ったように血が溢れて流れ出す。
もはや声を上げることも出来ない。痛みを通り越し、意識と感覚がちぎれてしまいそうだった。戻すように吐血を繰り返す。
そこへ間髪いれず、カエル型の狐面の舌が飛んでくる。足に巻きつき碧の身体を乱暴に中空へ持ち上げる。
そして、そのまま地面へと叩きつける。二度、三度、叩きつけられる度に血しぶきが散る。碧には抵抗することもできず、なすすべもなく地面に打ち付けられる。
もう何度、身体を地面に叩きつけられたか分からない。狐面は舌を大きく振りかぶると、まるでゴミでも捨てるかのように碧を投げ飛ばした。豪快に空を舞う碧。地面にバウンドし、転がり、首塚の鳥居に当たってようやくその動きを止める。
「伏見くん!!」
悲鳴とも叫びともつかない声を上げながら、瑠璃に駆け寄って来る。地に顔をうずめる碧を仰向けに直し、何度も呼びかける。既に碧は虫の息だった。血を流しすぎている。身体の血のほとんどはもうなくなってしまっているように見えるのに、それでも流血が止まらない。傷口は大きくえぐられていて、とても止血なんて叶わない。
「すぐに治癒を!」
護符を取り出し、碧の傷を回復しようと集中するが、それを狐面たちが許さない。人型の狐面が俊敏さを生かして襲いかかる。間に合わない、瑠璃は瞬時に防御に転じる。
「守りの壁よ!」
叫ぶと同時に二人を淡い光の壁が包み込む。狐面が壁にぶち当たる。衝撃に瑠璃が悶絶した。すぐにまた人型の狐面が追撃を開始する。壁を打ち壊すように両腕を叩きつける。そこへさらにカエル型の舌が飛んでくる。光の壁にひずみが走った。
瑠璃は慌ててもう一枚護符を取りだすと、両手を重ねて気合を込める。
「お願い、こらえて!!」
瑠璃の悲痛な祈りに応えるように光の壁がその輝きと厚さを増す。狐面が一瞬押し返されるが、それでも攻撃の手は緩めない。
「伏見くん、伏見くん!」
碧の名を叫ぶ。狐面二匹の攻撃を防ぐので精いっぱいだった。碧の血が止まらない。流れた血が地面を黒く染め上げていく。碧の息が弱くなっていくのが分かった。瑠璃の瞳から涙があふれ出す。
瑠璃の頬を涙が伝う。碧の名前を泣き叫ぶ。碧は、薄れゆく意識の中、ぼんやりと瑠璃の姿を眺めていた。瑠璃の呼ぶ声が、ひどく遠くに聞こえた。朧気な意識を瑠璃の頼りない声だけが繋ぎ止めている。
心細い。辺りがだんだんと静かになっていく。
死ぬ……のか……
寒さと、恐怖。そして寂しさ。
そういえば、あの時もこんな恐怖と寂しさを感じていた。碧がゆっくりと記憶を手繰る。それは、狐面が初めて碧の前に現れた時のこと。
小学六年生の時だった。晩秋の、木枯らしの吹きすさぶ満月の夜。その日、友達と遊んでいた碧はつい時間を忘れ、帰るのが遅くなってしまっていた。気づけば辺りは真っ暗。碧は家路を急いだ。
街の人通りの少ない交差点に差し掛かった時、今まで感じたことのない寒気に襲われ、碧は思わず足を止めた。信号が狂ったように明滅を繰り返し、街灯がジリジリと漏電したような音を出す。ふと見ると、暗闇の向こう、道の真ん中に誰かが立っていた。闇にまぎれて良く見えなかったが、それは人型の、真っ黒な身体で。白い狐の面だけが異様なほどに浮かびあがっていた。
恐いと、その異様なモノに対し恐怖を感じるとほぼ同時に、なにも考えるいとまも与えず、そいつは碧に襲いかかって来た。
碧は走った。状況も全く理解できないまま、ただ、襲い来るそれから走って逃げた。でたらめに道を走り、どの道をどう通ったのかなんて覚えていない。がむしゃらに、死に物狂いで逃げまわった。
どれくらい走ったのかも分からない。碧はようやく自宅のマンションの前の通りまで逃げてきた。そこで、母の姿を見つけたのだ。夕飯の買い物の帰りだったのだろう。買い物袋を手に、マンションへ歩いている。
「お母さん!!」
碧が叫ぶ。その声に撫子が振り返る。
「助けて、お母さん!!」
撫子が不思議そうな顔をする。碧は必死に撫子の背後に回り込み、背中にしがみついた。
奴が来る。足の震えが止まらない。乱れた息など気にしている余裕もなかった。
狐面が物凄い早さでこちらに向かってくるのが見えた。碧は、恐怖に青ざめ言葉を失う。そして、その恐怖に耐えきれなくなり、目を強く閉じた。直視できなかった。
「碧、一体どうし──」
撫子の言葉が止まる。次の瞬間、バサリと、買い物袋が地面に落ちた。
それきり、撫子がなにもしゃべらなくなる。まるで時が止まってしまったかのように。
「おかあ……さん?」
碧が恐る恐る目を開く。それと同時に、撫子が意識の糸がぷっつりと切れてしまったかのように、地面に倒れた。
なにが起こったのか、なにが起こってしまったのか、全く分からなかった。
なにも考えることができず、頭が真っ白になって、碧はただただ立ち尽くした。
撫子が目を覚ましたのは、それから一週間も経ってからのことだった。目を覚ました時には瞳から光は失われ、立ち上がることも出来ない身体になっていた。
二週間ほど過ぎてからだったか、再び現れた狐面を、碧は怒りのままに叩き殺した。
それからというもの、撫子の顔を見るのが辛かった。自分を呪い、何度も嘔吐を繰り返した。それでも残るのは、自責の念。それだけだった。
死のうとも、何度も考えた。
……そう、死ぬ。
全身が凍えるように寒い。もう身体に血なんてほとんど残ってはいないだろう。自分の鼓動が弱まっていくのが分かる。
──自分が死ねば、母親が助かる。
その言葉が、救いのように碧の脳裏にこだまする。
瑠璃が必死に狐面達の攻撃を防いでいる。なにかを叫び続けながら。
もう、なんの音も聞こえなかった。
自分が死ねば、狐面も消える。瑠璃も助かる。消えかかる意識の中で碧は安堵した。
ふと、首塚に乗るようにして転がっている、黒い物体が視界に入った。あれは、洞窟から取ってきた刀。瑠璃が駆け寄ってきたときに落したのだろう。
結局、これもなんの役にも立たなかったな。
碧が静かに目を閉じる。暗闇に、身を預ける……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます