3
碧が京都に来てから、一週間ほどが経とうとしていた。
先日の祭の時から今日までに、一度狐面が現れていたが、それ以外は取り立ててなにもない、普通の日々が過ぎていた。
前述通り、取り立ててなにもなかったのだが、あえてこの間のことを取り上げるとすれば、一昨日、ノックもせずに急に部屋に入ってきたもえぎが、「これからデートしましょ」と高校生では到底醸し出すことの不可能であろう大人の色気と微笑みをもって、碧の腕を引っ張った。その日のもえぎは、キャミソールのような薄手の露出の割と多い服を身に着ており、ダイナマイトでグラマラスなアレがソレで、なんというかもう……グラシアスな感じだった。頭の弱いバカな男子高校生が、それがデートと言う名を語った、ただの荷物持ちであると気づいたのは、ウキウキ気分で市内のデパートまでついて行った後のことだった。もえぎが服を物色しているのを待っている時間がほとんどで、たまに「これ似合う?」などと聞かれるのに対し、「ステキです、お姉さま! なにを着てもお似合いでいらっしゃる!」と持てうる最大級の賛辞を述べ続けているだけだった。ただ、帰りにご褒美と称して奢ってもらった抹茶パフェは、甘さ控えめでおいしかった。
紫苑と千草はいつも巫女装束姿だった。他の服は着ないのかと紫苑に尋ねてみると、「たまにもえぎのを借りるが、選ぶのがめんどうじゃ。というか、服を着るのもめんどい」ととんでもない答えが返ってきた。
紫苑のだらけぶりはひどく、朝は十時過ぎに起きだしてきて、そのまま一時間ほどボーっとしている。その様をいぶかしげに見ていたら、「低血圧なんだから仕方ないじゃろう」と怒られた。昼間は大抵座敷で寝転がってテレビを見ており、特命係というよく分からない配属の、窓際刑事二人が活躍する刑事ドラマの再放送がお気に入りだった。お昼のグラサン司会者のバラエティ番組が終わると見る番組がないらしく、無駄にザッピングを繰り返していたので、碧がボソッと「コロンボおもしろいのに……」と言うと、黙ってそれを見ていた。その日の夕方、紫苑に言われて千草は夕飯の買い出しのついでに山の麓のレンタルショップでコロンボのDVDをまとめて借りてきた。次の日、紫苑は目の下に隅をつくって昼の十二時に起きてきた。
……俺、なにしに京都まで来たんだっけ?
真剣に頭を悩ませ始めた頃だった。夕飯後、紫苑に話があるから本堂まで来るように言われた。
本堂に行くと、紫苑ともえぎが待っていた。
「どうじゃ、ハーレム生活は満喫しておるか?」
この人はこんな冗談も言えるのかと、開口一番にそう言った紫苑に驚いた。
「まあ冗談はさておき、今後のことじゃ。以前も言った通り、今のお主では妖狐には勝てん。今のお主は弱すぎる」
ためらう様子もなく斬り捨てる紫苑に。碧は唇を噛み締める。悔しかった。だがそれは事実だった。最近は狐面も力をつけ、対等に渡り合うのがやっとだった。影である狐面を倒すのもやっとなのだ。本体の妖狐になど到底勝てるはずもない。
「お主の本来の力は妖狐の比ではないのだぞ。今のお主は一割も自分の力を解放できておらぬ」
「そんなこと言われても……」
碧が言葉に詰まる。自分では一体どうすればいいのか分からない。力が潜在すると言われても実感がないし、ましてそれを使う方法など知る由もなかった。
ふむ、と紫苑は少し困ったような顔をする。
「お主の弱さの原因は精神じゃ。意志の力が完全に欠如している」
「意志?」
「負い目が、あるのじゃろ?」
紫苑の声が冷たさを持ったような気がした。
「人は意志を持ち敵と戦い、意志を持ちなにかを守ろうとする。お主はなんのために襲いかかる狐と戦うのか? そしてその意志を、想いを阻害する負い目がお主にはあるのじゃろ?」
一体なんの事を言っているのか、紫苑の言わんとする言葉の意味が理解できなかった。碧は、紫苑の言葉を心の中で反芻する。それでもなにも理解できない。
足枷、その言葉を聞いた瞬間、脳裏にある人の姿が浮かんだ。
「母……さん……?」
紫苑がやっとか、といった様子で鼻で息を吐く。母を足枷と言われたことに怒りを覚えるが、自分自身そのことが負い目になっているのは分かっていたし、実際にそうであるからこそ、他人に指摘されて腹が立つのだろう。碧は怒りを押さえこむのと同時に、情けなさを感じていた。
紫苑が、傍らに立っていたもえぎに声をかける。もえぎは頷くと、袂に手を入れ、なにかを取り出した。そして取り出したそれを碧に手渡す。
「これは……?」
手渡されたのは小さな透明な瓶に入った液体だった。
これはたしか、先日瑠璃と一緒に清水寺で汲んで来た……水?
「簡単に言うと、聖水みたいなものね。これを御病気のお母さんに飲ませてあげて」
もえぎが、「ごめんね。お母さんのこと、私も聞いちゃったの」と申し訳なさそうに続ける。
小瓶を見て、ふと先日の倒れた女の子が、瑠璃に水を飲ませてもらって目を覚ましたのを思い出す。
「まさか、これで母さんも──」
「ううん、あんまり期待しないで」
希望と期待で表情をほころばせる碧に、遮るようにしてもえぎはまた申し訳な下げに言う。
「母親の状況も分かっておらんし、完治するとは考えん方がいい。先日の、その少女の時とは訳が違う。話を聞くに、お主の母親は完全に狐の影を一匹飲み込んでおるし、それももう五年も前の話じゃ」
紫苑が神妙な面持ちで、諭すように告げる。
「じゃが、飲ませてみて損はないじゃろう。今後の展望も掴めるやもしれん。早々に持って行ってやるとよい」
そういって碧の肩をポンと叩く紫苑の顔は、まるで子供をみる母親のような慈悲の笑みに満ちていた。
次の日、碧は瑠璃と一緒に午後一番の新幹線で東京へ向かった。明日また京都に戻る予定だったので荷物は最小限に留めたが、瑠璃は碧の母親に会うからと、京都駅で土産物を買いこんでいた。
東京に着き、目的の駅まで地下鉄で移動している際も瑠璃は、「笑顔であいさつ。品良く、お花を活けて……」と、『親御さんに好印象を与えるために』という数カ条からなるメモを手にぶつぶつと呪文のように復唱していた。大方、もえぎにでも昨晩のうちに渡されたものだろう。
駅に着いたところで、花を買い忘れていたことに気付いた瑠璃は、「こ、この辺に花屋さんないですか?」と慌てだした。碧が「そんなものいいから、早く行くぞ」というと、瑠璃はメモを見ながら泣きそうな顔をしていたが、スタスタと歩いて行ってしまう碧に気づいて、急いで後を追った。
現在入院中である母親の病院の場所は父親から聞いていた。携帯電話で地図を確認しながら十分ほど歩くと、目的地である総合病院に着いた。
広大な敷地面積を持つその病院は、外界と隔てられたように閑静で、周りを多くの緑に囲まれていた。病棟は三つの棟からなっており、一棟一棟が巨大で重厚な造りの白壁の建物だった。病床数は千をゆうに超えていて、あらゆる専門家の医師がそろった評判の病院だと父親から聞かされていた。
エントランスをくぐると、病院特有の消毒薬の臭いがした。碧はこの臭いがあまり好きではなかった。母の倒れた時のことを否応にも思い出させるからだ。背後で瑠璃もなにやらそわそわしていたが、その理由が何なのか、もはや考えるのも面倒だった。
病院の待合室は採光に気を使っているのだろうか、明るく清潔な雰囲気だった。病院にはめずらしく待合室の天井が吹き抜けになっており、壁がガラス張りになっている。自然光の柔らかな明かりが降り注ぐ。
受付で、聞かされていた母の病室を確認すると、二階の一番奥の個室と案内された。階段をのぼりその病室の前まで進むと、部屋のプレートには『伏見撫子』とあった。
碧が扉を軽くノックすると、「どうぞ」という女性の細い声が返ってきた。
ゆっくりと戸を開くと、中から光があふれた。
殺風景な部屋の中には、ベッドと棚が一つ置いてあるだけだった。開いた窓から木漏れ日が落ち、キラキラと室内を輝かせる。涼しげな風が吹き込み、白いカーテンをゆらめかせた。まるで白昼夢でも見ているかのような、真っ白な空間。
彼女はベッドの上で体を起こし、柔和な笑みでこちらに顔を向けていた。
蒼白の肌。ふとすれば、木漏れ日の光に紛れて溶け入ってしまいそうなほど白い。身体は息を飲むほどに細く骨ばっていて、薄い患者衣ごしに背骨までも透けて見えてしまいそうだった。こけた頬に浮かべた笑みがひどく痛ましい。
閉じられた目、肉の削ぎ落されたような首筋。彼女がこの世に命を繋ぎ止めているという事実さえ、それは嘘か幻のように思えてしかたなかった。
母さんと声を掛け、近寄っていく碧に撫子は驚いたような声をあげる。
「碧、京都に行ってたんじゃないの?」
かすれた弱々しい声。だがその声を聞き、やっとこの人がこの世界に生きている人なのだと理解できる。
「いや、また明日京都に行かなきゃいけないんだけど。今日はちょっと母さんに用があって来たんだ」
「あ、あの……こんにちは」
「あら、お友達?」
意を決したように口を開く瑠璃に、撫子は意外そうな表情を見せる。
どもりながら自分の名前を告げる瑠璃に、撫子は優しく微笑みながら碧の母の撫子だと自己紹介した。
「あの、こっ、こっ、これ、お土産のやつっ……八つ橋です」
瑠璃が京都で買ったお土産を撫子に差し出す。緊張のあまり、瑠璃はしゃべるのもやっとといった様子だった。碧が、焦りすぎだ、少し落ち着けとたしなめる。
撫子は、フフと笑ってそれを受け取り、お礼を言う。
「ありがとう。瑠璃ちゃんはかわいらしい声をしているのね」
「いえ、そんな……」
「でも、ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに、おばさん瑠璃ちゃんの顔を見てあげられないの……」
撫子の表情が曇る。
「琴引……、瑠璃には、母さんの病気のこと話してあるんだ」
そう、と撫子が表情を戻す。それから少し考えて、
「もしかして瑠璃ちゃん、碧の彼女なの?」
興味津々といったいたずらな笑みでそんなことを言う。これに顔を真っ赤にして反応したのは瑠璃で、
「そそそ、そんなことないですよ!! 私が伏見くんの彼女だなんて、彼女だなんてそんな!! 私みたいなのがそんな、そんなおこがましいことめっそうもないです!!」
もはやなにを言っているのかも分からないような慌てふためきよう。撫子はそれを聞いて笑っていたが、碧は思わず肘で瑠璃を小突いた。我に返った瑠璃が縮こまり、小声で「ごめんなさい」とつぶやく。
「あらあら、仲が良いのね」
楽しそうな撫子に、そんな話は良いからと、碧は話を仕切りなおす。
「今日は、母さんに渡すものがあって京都から戻って来たんだ」
「渡すもの?」
なにかしらと首を傾げる撫子に、碧は例の小瓶を取り出し、その手に握らせる。
「液体……お水かしら?」
撫子は、受け取った小瓶の形状を確認し、それを耳元で軽く振ってみる。
「薬なんだ」
真に迫る勢いでベッドに両手をつき、身を乗り出して碧は言う。
「薬?」と、不思議そうな顔をする撫子。碧は続けて、
「これで、もしかしたら母さんの病気が治るかもしれないんだ。これを飲めば、母さんを治す方法が分かるかもしれないんだ」
今までにない息子の必死な様子に、怪訝な表情を浮かべながらも撫子は、小瓶のフタを開く。鼻先に近づけ、匂いを嗅ぐ。匂いは特になかった。
「これを飲めばいいのね?」
早くと急かす碧に気後れしながらも撫子はそっと小瓶を傾ける。碧と瑠璃が固唾を飲んで見守る中、小瓶の水が撫子のノドを通っていく。
そして、中の水を全て飲みほした。
「どう?」
碧が期待に満ちた表情を向ける。
「どうって言われても……普通のお水の味しかしなかったけど──イタッ」
瞬間、撫子の目に針で突いたような痛みが走った。
いや、これは違う。痛みではない。
撫子はまさかと思い、まさにその目を疑う。それは痛みではない。この刺すような感覚、この、何年もの間ずっと失っていたこの感覚──
「……光?」
瞼の裏が白く染まる。明るみを帯びて、色を感じた。何年も感じなかった光の感覚が、痛みのように鮮烈に撫子の神経を刺激したのだ。
信じられない。この感覚が、視覚が戻ってきた。
ウソ、と言葉にもならない声を漏らし、撫子はそっと両の瞼を開く。
撫子の濁った鉛のような灰色の瞳に、徐々に光が生まれ、活きた黒が映える。
目の前にぼんやりと、絵具の滲んだような世界だったが、撫子はそこに確かに碧と瑠璃の姿を捕えることができた。
「碧、目が──」
震える声で、碧に手を伸ばす。碧は差し出された手をしっかりと握る。
だが、そこまでだった。
撫子の目はみるみる光をなくし、瞳は生を失い、鉛色へと戻っていく。撫子はすぐにまた、明けることのない暗闇の世界に引き戻されていった。
撫子は惜しむように、瞼を閉じる。
「碧、今ね、今……一瞬だったけど目に光がもどったの。碧のこと、見えたの」
握られた手を強く握り返す。
母の目に光が戻った。一瞬だったけれど、それでも確かに母の目は世界を再び見ることができた。まだ、母の身体を治す方法がある。治すことができる。まだ、間に合う。
碧の中で、その希望はこの瞬間に確信へと変わった。
紫苑ならば、母を治す方法をきっと授けてくれる。碧の中に、熱い感情が込み上げていく。自分のせいで犠牲になった母を、また元のような元気な母に戻してあげられる。そして、その感情は溢れて、涙となって止めどなく流れ落ちた。
「母さん。俺、必ず、必ず母さんのこと治してみせるから。昔みたいに、また元気な母さんにしてみせるから。だから、だから……もう少しだけ──」
嗚咽をもらす碧の言葉は、後半ほとんど聞き取ることができなかった。母の痩せこけた細い脚に顔を埋め、碧は声を殺すように泣いた。まるで小さな子供のように泣く碧の頭に撫子はそっと手をのせ、髪をすくようにして優しく撫でた。撫子の皮と骨しかない指先は硬く、撫でられると少し痛かった。
瑠璃はそっと病室を後にした。後ろ手に静かに戸を閉める。碧のすすり泣く声を背にして。
目をこする。少しもらい泣きしてしまったようだ。
「よかったね、伏見くん」
呟くように言うと、瑠璃は廊下を歩き出した。
それから十分ほどして、一階ロビーの待合室で待っていた瑠璃の元へ碧は姿を見せた。
「もういいの?」
問いかける瑠璃に、碧は首を縦に振った。
エントランスを出て遠ざかる病院を、碧は一度振り返って見ていた。しかし、瑠璃はそんな碧にわざと気付かないふりをして歩いた。
次の日の夜。京都に戻った碧は、鬼鎮神社の本殿にいた。
目の前には、紫苑ともえぎが立つ。
「そうか。母の目に光の戻る兆しがあったか」
紫苑が満足げに言う。
「母の病気は、治せるんですよね?」
紫苑が深く頷く。それを見た碧が安堵の、喜びの表情に満ちる。
「お主の母の身体を蝕んでいるもの、それは結局のところ狐の怨念じゃ。あの清めの水を飲ませることで、一時的にその怨念を引き剥がしたが、あれには怨念そのものを浄化させるほどの力はない。だからすぐに視力もなくなってしまったのじゃろう」
「怨念を消すことが出来さえすれば、母の身体は元通りに?」
「その通り。そして、怨念を消す方法は前にも言った通り、怨念の元である妖狐を打ち倒すか、もしくは怨念の対象であるお主が死ぬか……」
碧は黙ったままうつむいた。結局、最初から方法はこの二つのどちらかしかなかった。勝つか、死ぬか、その二択。しかし、今の碧には妖狐に勝つだけの力がない。それでは……
「碧、今お主がなにを考えているか当ててやろうか?」
唐突に紫苑が言う。なにか嘲笑するかのように、口元が少し笑んでいた。
「自分が死ねば、母親が助かると思っているな?」
紫苑が射るような視線をこちらに向ける。圧倒されるような迫力とプレッシャーが碧にのしかかる。
図星だった。自分が死ぬことで母親が助かる。狐面も消える。もう、誰も巻き込まずに済む。妖狐の怨念を満たすことで、ことの全てが解消されると分かった時から、その選択肢は確かに碧の中に存在していた。そして、今の自分では妖狐を倒すことはできない。紫苑も言っていた、十中八九勝てないと。そうなれば、おのずと導き出される答えは一つしかなかった。
自分が死に、全てを終わらせる。
他に、どうしようもないじゃないか。そう言い返したい気持ちはあった。しかし、なにも言えなかった。結局選ぶ道は変わらないと思っていたからだ。
紫苑が見かねて深いため息をつく。
「まったく、そんなことでは困ると何度も言っておろうが。お主からは他人のことを背負い自分を卑下するばかりで、己自身の意志が一切感じられん、だから弱いのじゃ。……以前、他人を巻き込まないために戦っているようなことを言っておったが、それは正義などでは決してないな。ただの偽善じゃ」
──分かっている。
紫苑の放つ辛辣な言葉に、碧は拳を強く握りしめる。
「お主はただ、自らのせいで光を失った母への負い目で戦っているだけ。誰かのためではない、これ以上誰かが傷つくことで自分の心がさらに傷つくことを恐れているだけじゃ。お世辞にもほめられた道理ではないな」
──そんなことは、分かっている。
「そんなくだらない理由で戦っているから、自分の死などという安直な選択をしようとする。それこそ偽善であり、愚行極まりないただの自虐じゃ。お主は自らを責めることで、死を選ぶことで事実と物事に背を向け逃げようとしている。そんなことが償いにでもなると思うのか? その結果が生むのは解決でも誰の幸せでもないことは、考えずとも分かることだろうに……」
紫苑は呆れ果てたように言うと、本堂を抜け、境内の外まで歩いて行く。
外は、暗闇に包まれていた。街灯の一つすら立っていない境内。周りの山から虫の鳴く声だけが静かに聞こえてくる。
「まあ、心はどうであれ時というものは歩みを止めず、刻一刻と近づいてくるもの……」
紫苑がゆっくりと夜空を仰ぐ。碧もつられて空を見上げる。
「見ろ、今宵は新月じゃ。月の欠けらすら見えん」
紫苑の言う通り、朔の空に月の姿はなかった。満天の星々は輝ききらめくものの、月のない夜は普段に増して暗く、その闇深さに心細ささえ覚えた。
「月には、不思議な力があってな。その満ち欠けによって、力に影響を与えてくる。特に満月ではその力の全てが解放され、人間も、妖怪も、怨霊も、等しく力が引き出される。潮の、満ち引きのようなものじゃ」
確かにそれは碧に向けられた言葉だったが、どこか独り言をつぶやいているような、見えないなにかに話しかけているような、不思議な感覚だった。
そして紫苑が振り返る。
「次の満月の夜、妖狐との決着をつけてもらう」
紫苑の言葉に、碧の全身の毛がよだつように逆立った。
あと半月、半月ほどで全てが終わる。
碧の鼓動が早鐘を打った。
風が吹き、紫苑の長い漆黒の髪が乱れた。まるで夜の闇に同化するように。
美しい紫苑の双眸が碧を捕えて離さない。そのまま取り殺されてしまいそうな恐怖にかられる。
不気味な新月の夜の元、冷笑を浮かべる紫苑がなにを思うのか、碧には知る由もなかった。
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