7
清水寺を後にし、清水坂を下っていく。土産物屋がずらりと並ぶ坂道、人出はピークだった。観光客と外国人と学生と、人のごった返し揉み合うその様は、さながら地獄絵図のようだと碧は思った。肩に背負った刀が周りに当たって邪魔だった。うんざりしながら人の波をかき分けるように進んでいると、途中で瑠璃に手を引かれて横道に入った。
石段のゆるやかな階段が続く道。人で賑わってはいたが、清水坂よりはずっとましだった。
石段を下っていくと、まさに古都京都といった風景が広がっていた。京町家というのだろうか、情緒ある建物が並ぶ石畳の道が続く。景観の守られた風情を感じさせながらも、きれいでいて美しい街並みだった。小路には、これまた風情のある旅館や料亭が立ち並んでいる。
「私、この三年坂と二年坂を通って八坂神社に抜ける道が、この街で一番好きなんだ」
前を歩く瑠璃が振り返る。浴衣の袖がひるがえり、巾着についた鈴がリンと音をたてた。その姿は京の景観に溶け込んで、一枚の絵のように見えた。
夏の強い日差しを受けて輝く瑠璃の笑顔は、年齢にしてはあどけなさが残っていたが、たおやかで、とても魅力的だと碧は思った。
その後、瑠璃の案内で市内を巡り、祭も一回りした。
祭で沸く街の賑わいもすごかったが、八坂神社の前で三基の黄金の神輿が練り暴れる様は圧巻だった。何百という法被を着た男たちが勇猛に神輿を担ぎあげる姿には、心を熱くさせるものがあった。あれがまさに祭の醍醐味なのだろう。
気づくと日は暮れ、辺りには宵の闇が広がりつつあった。暗くなるにつれて街を飾る提灯に明かりが灯り、オレンジ色の暖かな光が京の町を彩る。
二人は流石に人ごみを歩き疲れたということで、人通りの少ない公園の方へ入っていく。人通りの少ないと言っても、それはあくまで大通りと比べればという意味で、まばらながらも人通りはあり、屋台も出ていた。
瑠璃がりんご飴の屋台を見つけてうれしそうに走り出す。後を追うと、瑠璃は既にお代を渡していた。屋台のおやじから飴を二本受け取り、一本を碧に差し出す。
「私、お祭で食べるりんご飴大好きなの」
「俺、あんまり食べたことないな」
「おいしいから食べてみて」
受け取ったりんご飴を一口かじる。祭囃子が遠くに響く。どこか、心地よかった。
そう言えば瑠璃と初めて会ったのも祭の夜だったな、と碧は思い返す。あの時は、まさか二人で京都を歩くことになるとは考えもしなかったが、今はこうして瑠璃と肩を並べている。不思議な縁だと思った。
浴衣姿の瑠璃の歩調に合わせながら、しだれ木のかかる池のほとりを歩く。
敷き詰められた砂利が歩く度にこすれて音を立てた。
暗くなり、もうそろそろ戻ろうと駅に向かい屋台の並ぶ道を歩いている時だった。
またしても、奴があらわれた。
例のごとく全身に寒気が走り、辺りの空気が変わる。
邪魔になるのは目に見えていたが、刀を持ってきておいてよかった。しかし、昨晩と続けて出現するとは。
瑠璃が同様にその気配を感じ、碧の服の裾を握る。碧は狐面の位置を把握するために辺りを見渡す。
そして、絶句した。
道沿いに並ぶ屋台。その切れ目から、白い狐の面がこちらを覗いていた。
「なんで、こんな人の多い場所にいるんだ……」
屋台の後方、雑木林の陰から闇の中に浮かぶ狐の面。
まずい、ここは人が多すぎる。ここでやりあえば、確実に関係のない人たちを巻き込んでしまう。行きかう人々は狐面の存在になど気付くはずもなく、ただ祭の時を楽しげに過ごしている。
──どうする?
碧の中で葛藤が巡る。この場での戦闘はまずい。林の中へ逃げ込んで、狐面を誘導すれば──しかし、下手に動いて狐面を刺激して、この場で動きだされでもしたら惨事は免れない……
焦りと迷いで考えがまとまらない。そうこう考えているうちに、狐面が一歩動いた。木々の陰から、その姿が露わになる。
「えっ……?」
「なんだ……あれは……?」
二人が思わず息を飲む。また一歩、狐面が動き、その全体が明るみに晒される。
その姿は、見ただけで全身の身の毛のよだつようなおぞましい姿だった。まさしく異形、それはまるで巨大なカエルのような形をしていた。真っ黒な体、いびつに丸く太らせたような胴体、四肢は異様に長く、折れ曲がったかのような骨で四つん這いになり、地を這うように立っている。全長は三メートルを軽く超えているだろう。顔は大きく、狐の面は飾りほど度にしか着いておらず、その黒い影のような顔のほとんどが隠し切れていない。なによりも、その大きな口。歯と歯茎を剥き出しにして、呻くような声を上げ、だらだらとヨダレを垂らしていた。
「やだ……」
瑠璃が怯えるような声をあげ、碧の後ろに隠れる。その時だった。
「ママー、キツネさんがいるよー」
浴衣姿の四、五歳の女の子が母親の手を離れ、狐面に駆け寄っていく。
碧は蒼白した。まさか、見えているのか? いや、違う。全部見えている訳ではない、面だけが見えているんだ。
女の子は、それがなにとも知らず駆けていく。
「ダメだっ!! そいつに近づいちゃ──」
碧が叫ぶ。狐面が、首をグルリと回し、女の子の方を向く。女の子が笑顔でソレに手を伸ばす。狐面がゾッとするような、いびつに歪んだ笑みを浮かべた。
その瞬間、まるで意識を失ったように、まるで魂を抜かれたかのように、女の子の瞳から光が消え、その場に崩れるように倒れ込んた。
母親の悲鳴が響く。祭に沸いていた辺りが騒然とする。
碧は、既に飛び出していた。
刀を取り出し、袋を投げ捨てる。もはや周りなど見えていない。激昂した碧は人々の間を縫うように駆け抜け、跳躍し、叫びとともに狐面の顔面を蹴り込んだ。
ものの見事に顔面を射抜かれた狐面は、もんどりうって木々に体を打ちつけながら、十メートル以上も林の中へ吹き飛んでいく。碧が着地と同時に、吹き飛んで行った狐面を追いかける。
狐面を追いかける最中、後ろを振り返ると、瑠璃が倒れた女の子に駆け寄り、抱きかかえるのが見えた。
情けなかった。昨晩は全く歯が立たなかった、紫苑が来なければ殺されていたかもしれない。今日はとうとう他人を巻き込み、犠牲にしてしまった。もう、誰も巻き込まない、誰も傷つけないと決めたのに。誓ったのに。……だから、今まで一人きりで戦ってきたのに。
母のことが脳裏をよぎる。光を感じることのできない閉じられた目。どんどんやせ細っていく、身体を支えるに堪えられないであろう脚。まるで白い月を思わせるような、血の気を感じさせない蒼白い顔。本当は、本当は健康な、明るい人なのに……
吹き飛ばされた勢いからやっと立ち上がった異形の狐面に、刀を打ち抜くように抜刀し、さらに林深くへと吹き飛ばす。
自分のせいで人が不幸になっていく。自分だけで済むのなら、それならいい。なのに、自分のせいで他人にまで不幸を背負わせてしまう。そして自分はなにもできない……
悲鳴のような、わめき声のような叫びを上げながら、碧は狐面に斬りかかる。何度も何度も斬りかかる。それは恨みを叫ぶように、自分の生まれてきたことを嘆くように、呪いを打ち消すように。
狐の面に、亀裂が走った。
狐面が呻き、太く巨大な舌を伸ばす。その舌はまさにカエルのそれのように自在に伸縮し、碧に襲いかかる。
舌は避ける碧をどこまでも追って行き、そして碧を追い詰め、とうとう身体を捕えた。
腕ごとぐるぐる巻きにされ、中空で締め上げられる。体の骨と肉のきしむ音がした。
あそこで迷っていなければ、狐面が姿を現した時にすぐに動いていれば、あの子は巻き込まれずに済んだかもしれない。どうして自分はこんなにも弱いのだろう。瑠璃も、紫苑もそうだ。一人で戦っていると言いながら、結局一人ではどうすることも出来なくて、他人に頼っている。
俺は……無力だ。
「ああああああああああああっ!!」
怒りに身体が震える。誰への怒りでもない、自分の無力さへの怒り。碧は全身に力を込め、締め付ける狐面の舌を引きちぎった。
舌を引きちぎられた反動で狐面の身体が後ろに反り返る。必死に体勢を戻そうともがく。その瞬間を、刀が突き上げた。
狐面の口から上あご、脳天を突き破り、刀が後方の木の幹を貫く。うめき声を上げながら、狐面の異形の身体が何度も痙攣を繰り返す。
碧が興奮と戦闘で荒げた息を、震えるように無理矢理に落ち着かせる。
頬を、一筋の涙が伝った。
狐面が消えていく。
碧は、刀を鞘に納めた。虫のさざめきと、夜の寂しさが辺りには戻っていた。後悔と、無常のような想いが拭えない。
それでも碧はどうすることも出来ず、ゆっくりと、もと来た道を歩き出す。
鬱々とした感情ばかりが心を支配する。やりきれない心情。
やがて雑木林を抜けると、人垣が見え、その中心には立ち膝で女の子を抱きかかえる瑠璃と、うろたえ立ちつくす女の子の母親の姿があった。
碧は下唇を噛みしめた。血が滲むほどに強く。
瑠璃は母親に何事かを告げ、巾着袋から小瓶を取り出した。それは今日の昼間、清水寺の音羽の滝で汲んできた、水の入った小瓶だった。
ふたを開け、目をつむり、瑠璃はなにか呪文のようなものを唱える。刹那、ビンの中の水が少し輝きを持ったような気がした。
母親が見守る中、未だ目を閉じたままの女の子に瑠璃はその水を飲ませた。
するとどうだろう、時の止まったように眠り続けていた女の子が、まるで朝を迎えたがごとく目を開いた。
目をこすりながら女の子が起き上がる。周囲から歓声が沸き、母親が名前を呼びながら女の子に駆け寄った。
「もう大丈夫だと思いますが、倒れた時に頭を打ってる可能性があります。病院には一応連れて行ってあげてくださいね」
母親が何度も礼を述べ、頭を下げる。手を振る女の子に瑠璃も笑顔で手を振った。
人垣はなくなり、周りはもとの祭のざわめきを取り戻していた。
「紫苑様に頼まれてたものなのに、一個使っちゃった」
手を繋いで歩いていく母子を見送りながら、瑠璃が言う。
「怒られちゃうかもね」と、笑顔を向ける。
瑠璃の細い、小さな身体、笑顔。碧はそれをとても愛おしく感じた。自分がどんなに剣を振るっても守れない、助けられないものを瑠璃は救ってくれた。この小さな身体で碧を守り、ここまで導き、そして助けてくれた。また一つ背負うところだった不幸と後悔の十字架を取り除いてくれた。
「えっ、ちょっ──」
碧は、瑠璃を抱きしめた。突然の、思いもよらぬことに瑠璃は顔を真っ赤にする。
「ありがとう……」
碧の頬をまた涙が伝う。動揺する瑠璃だったが、碧の涙をみて言葉を失った。
「助けてくれて……本当にありがとう」
嗚咽まじりに碧が言葉をもらす。
瑠璃はそっと碧の頭に手をやり、なでるように優しく抱きとめた。
祇園祭の続く京の町。夏の夜の公園の片隅で、碧は救いの少女に涙を流し、感謝した。
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