第三章 妖狐
1
わびぬれば 今はた同じ 難波なる
みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
如月の、長きに渡る冬の折り二月尽にて降る雪の果。微かに木の根に積もれども、土を濡らせてすぐ溶けゆ。
弥生月、彼岸の頃に風光る。佐保姫の麗らに微笑む春霞、山が笑いて長閑なる、日差しこぼるる春の昼。桜の花の鮮やかに山の裾野を染め上げるは、唯々感嘆の息をつくのみ。
桜舞い散る花の雪、季節を巡りて降り積もる。見える限りの薄紅の、花化粧に風が吹き、はらりはらりと舞う一ひらを、手をかざしてはとり篭める。あえかなること哀れかな。
「ああ、これは」
真白が声を上げて、桜木に駆け寄っていく。舞う花を眺めていた若菜はその声に振り返り、真白の駆ける後を追った。
木の根元にうずくまる真白を後ろから覗きこむと、そこには横たわる狐の姿があった。身体に一本の矢が深々と突き刺さり、金色の毛に赤い血が滲んでいる。息は無く、既に事切れていた。狩人に射られながらも逃げ出して、ここで力尽きたのだろう。森から血が黒点のように点々と続いていた。
ふと木の幹に目をやると、その奥になにかの影が見え隠れしていた。震えるように窺う影、それは──
「子狐?」
若菜の声に、真白もまた震える子狐の姿を見とめる。身体は小さく、薄黄金色の毛並もふわふわと柔らかで、春の日差しを受けて淡く輝いていた。
この屍は母狐なのだろう。弓を射られ、自分の命は助からぬと知りながら、子狐を守るため、血を流しながらもここまで逃げ伸びて来たのだろう。
真白が舌を鳴らしながら、子狐にそっと手を伸ばしていく。子狐は怯えた様子を見せながらも、逃げようとはしなかった。抱きかかえる真白の腕の中に、子狐の身体はするりと収まった。
『みぃ』と、動かない母狐を見つめて子狐が物悲しげに鳴いた。
真白は子狐を若菜に預け、桜木の根本に穴を掘り、母狐を葬った。子狐は、その様子をじっと目を離すことなく、見つめ続けていた。
黄昏に山の端が滲む。桜の花が赤く染まり、燃えるような炎を散らす。
真白は墓前に手を合わせてから立ち上がると、若菜の胸に抱かれる子狐の頭を優しく撫でた。
「お前の名前は、今日から琥珀だ」
夕日の赤が世界を染め上げる中、子狐は真白の顔が優しく笑んでいくのを見た。
時は戦乱の世。
丹後の国の大江の裾野、山間の小さな村に真白は暮らしていた。歳は数えで十。両親はおらず、村長のもとで世話になっていた。村に子供は少なく、一つ違いの娘、若菜だけが、唯一の遊び相手だった。
琥珀を村に連れ帰ってから、真白と琥珀は兄弟のように寝食をともにし、片時も離れることはなかった。遊ぶ時も、田畑を耕す時も、狩りに赴く時も、彼らの姿は常にともにあった。
それから春夏秋冬を巡り、また春がやってくる。
桜の花が咲き乱れる、暖かな、琥珀と出会った季節。
ただ四季を繰り返し、同じ季節が必ず巡ってくるように、ずっと、いつまでも一緒にいられると思っていた。
ただ、それだけが望みだった。
二度目の秋を迎え、稲穂が黄金に色づき始める頃、それでも琥珀の身体は出会った時とさほど変わらず、小さいままだった。乳離れの出来ぬ子供のように、ぴたりと真白から離れようとはしなかった。
そんな折、悪霊が村を襲った。
近隣で起こった戦に敗れた落ち武者の霊が、こぞって村を覆い尽くしたのだ。
真白は若菜の手を引き、夜の山を逃げた。琥珀もその足元を走っている。
月のない夜の山道を、二人と一匹は必死に駆けた。背後から、悪霊の禍々しい呻き声と、不気味に照らす、ほの暗い光が追ってくる。
その時だった。若菜が木の根に足を取られた。地に四肢を擦りつけて転倒する。隣を走っていた琥珀が転倒に巻き込まれ、ぶつかった勢いで山肌の崖を転がり落ちた。二十尺ほどの切り立った崖を転がっていく。
若菜は大事無かったようで、すぐにその身を起したが、琥珀は落ちた拍子に足を傷つけたらしく、すぐに起き上がることができないでいた。
真白が崖を覗き込むようにして、琥珀の姿を見る。琥珀の小さな足から、赤い血が流れているのが分かった。痛ましく、切なげに表情を歪め、それでも立ち上がろうとするが、足の痛みに耐えきれず、すぐに足を折ってしまう。
崖を覗き込む真白を見上げ、『みぃ』と、痛みに耐えるように琥珀が声を漏らした。
真白が焦る。
悪霊が、その不気味な声と、憎悪に満ちたほの暗い光が、もうすぐそこまで迫ってきている……
真白は強く唇を噛みしめた。
断腸の思いで立ち上がると、若菜の腕を取って走り出した。
若菜が「琥珀──」と振り向き叫ぶ。しかし、真白は足を止めず、暗い山道を必死に走った。
真白が見えなくなる。
一人、暗い山に置いて行かれる。
琥珀は、真白の背が消えた暗闇を、ずっと見つめていた。
『みぃ、みぃ』と真白の背中に向かって鳴き続ける。
しかし、もう真白の姿はない。寂しげな声だけが闇に溶けていく。
やがて悪霊が追いつき、琥珀の小さな身体を囲っていった。
逃げようと思えば、逃げることはできた。足の傷など、それほど大したことはない。
だが、足が動かなかった。
真白に置いて行かれた。その絶望と虚脱が、琥珀の全てを停止させた。
──なぜ?
悪霊の、怨念と禍々しい憎しみが覆う。
──どうして?
闇に、落ちていく。
どれだけ待っても、真白が戻ってくることはない。それでも、真白の消えた闇を見つめながら……涙がこぼれて、静かに影に飲まれていった。
ほの暗い光だけが琥珀を包み、憎しみの呻きだけが琥珀を支配し、だんだんと、絶望にさいなまれていく。
琥珀は、ゆっくりと眠りについた。
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