4

 真っ暗な山道を駆ける。風になったように、木々の間を駆け抜ける。部屋から取ってきた刀を抜き放つ。木の幹を蹴り、碧はさらに加速した。

 五分ほど走ったところで、木の枝葉の陰に狐面の姿を発見した。ちょうど結界の切れ目なのだろう。窺うようにその場をうろうろしている。碧はポケットに入れた御守を思い出す。昼間の頭痛を思い出し、一瞬躊躇しそうになるが、今はそんなことを気にしている場合ではないと首を振る。

 一気に近づき、こちらに未だ気づかない狐面に奇襲をかける。

 上空から思い切り振り下ろした刀が、みごとに狐面を直撃した。

 まるで鉄を叩いたような音が山の中にこだまする。刃は狐面の肩口からえぐるように斬り下ろされた。しかし傷は思ったよりも浅いようで、致命傷にはほど遠い。狐面は、ぐらつきながらもなんとか足を踏み留める。

「なんて硬さだ!」

 ふらつく狐面に、追いうちの回し蹴りを放つ。蹴りは頭部をとらえ、勢いで吹き飛ばされた狐面が派手に木に突っ込んだ。

 土煙が上がる。しかし、狐面はなにもなかったかのようにゆらりと立ち上がる。

 こちらを眺め、面からはみ出るほどに口が裂け、ニヤリと笑う。

 ──来る。

 そう思うと同時に狐面が動いた。地を蹴り、瞬く間に碧の目の前まで移動する。

 早いと感じた時にはもう攻撃が始まっていた。次々と繰り出される攻撃。目で追うことさえやっとだった。

 防ぐことさえままならなくなり、不意を突いた蹴りがみぞおちを直撃する。碧はもんどりうって倒れる。勢い余って地面を転がり、木にぶつかってようやく身体が停止した。

 むせるように出た咳とともにつばを吐きだすと、地面が赤く染まる。内臓をやられた。

 立ちあがりながら、息を整える。碧は血だまりを吐きだした。

「何なんだコイツ。いつものとは比べ物にならないくらい強い」

 ──京都は妖狐と縁が深い。

 紫苑が言っていたのを思い出す。そのせいなのか、全然歯が立たない。

 そしてまた、狐面が動く。

 まだ構えなおしてすらいないのに、狐面の五月雨のような連撃は止まらない。一撃一撃が重い。防御していてもその余波で体力がどんどん持っていかれる。左右に振り、フェイントを混ぜた攻撃。受け止めることすら間に合わない。

 狐面の腕が碧の左肩を貫通した。刃のような黒い腕が肩の肉を破る。

 激痛が走り、碧が悲鳴を上げる。

 それでも狐面は止まらず、そのまま押し込むように突っ込み、後方の木に腕を突き立てた。碧の身体が木に叩きつけられる。

 突き刺さった肩の傷口から血が腕を伝い落ちる。ぐりぐりと傷口をえぐるように腕を押し込む狐面。碧の表情がゆがむ。意識が痛みで飛んでしまいそうになる。

 狐面がぐいと顔を寄せる。挑発するように、嘲笑うかのように狐面は碧の顔をなめるように覗き込み、首をかしげる。

 そしてまた、裂けた口が笑う。

 殺される。そう直感した時だった。

「まったく、いつまでそんな奴相手に遊んでおるのじゃ?」

 闇の中から発せられた声。その声を聞いたとたん、狐面はハッとしたように飛びずさり、碧から大きく距離を取った。

 肩から狐面の腕が抜けたことで、碧はそのまま滑り落ちるように木の幹を背に座り込む。

「もうボロボロではないか、情けない。このほど度の相手に手こずっているようでは困るのだがなあ。お主は妖狐と相対せなければならんのだぞ? 妖狐の影ほど度にやられているようでは先が思いやられるぞ」

「紫苑……さ……」

 木々の闇から姿を見せたのは紫苑だった。碧は霞む目を凝らしながら、目の前に現れた紫苑の姿をやっとのことで追う。狐面は警戒するように、距離を取ったまま動こうとしない。

「お主がぐずぐずしておるから……ほら、見てみよ。狐の邪気にひかれて怨霊どもが騒ぎだしおった」

 紫苑があごで木々の奥の闇を指す。その方向に首を向けると、闇が渦を巻くように空間が乱れ、いくつもの小さなうめき声が奥底から聞こえていた。

「……まあよい、今日は特別じゃ。わしが片付けてやろう」

 そう言うと、紫苑は一歩前に出た。狐面を見やり、不敵な笑みを浮かべる。

 この狐面は、明らかに今まで相手にしてきたものとは違っている。力もスピードも格が違っていた。しかし、もうここは紫苑に任せるしかない。碧の傷は深く、身体がまったく動かなかった。

「ほれ、来るがよい。わしは腹が減っておってな。早く帰って夕餉にしたいのじゃ」

 また紫苑が一歩出る。まったく構えも見せず、丸腰の紫苑は隙だらけに見えた。しかし狐面は動かない。いや、動けないと言った方がいいのかもしれない。明らかに様子がおかしい。息が乱れ、戸惑いが見える。

「動物というのは正直じゃのう。わしが、恐いか?」

 紫苑を、恐れている?

 風が吹き、紫苑の漆黒の髪がなびく。狐面が、一歩後ろにたじろいた。

 狐面が、この線の細い女性を恐れている──

 その二人が睨み合っていた一瞬の間が、数分にも、数時間にも長く感じられた。

 やがて、耐えきれなくなったかのように狐面が飛び出す。

 早い。距離が瞬間で縮まる。

 狐面が腕を伸ばす。紫苑がほくそ笑む。狐面の斬撃が紫苑の首をかすめ、切り落とすと思った、瞬間だった。

「ハッ!!」という気合とともに紫苑は目を見開いた。山中に響き渡るほどの気合。

 そして、その一瞬で狐面は消滅した。

 まるで、その気合は特殊な音波であったかのように、狐面の伸ばした手も、面も、ちりや灰が強風に散らされるように、一瞬にして霧散し、この世から跡形もなく消え去った。

 あの狐面が、こんなにもあっけなく、消えてしまった。

 狐面が完全に消滅したのを見送ってから、紫苑は振り返る。

「ほら、帰って夕餉にしよう。千草の料理はうまいぞ。もえぎの方はからっきしじゃがな」

 紫苑はまるで何事もなかったかのように笑う。

 碧はただ、この信じられないような光景を痛みに耐えつつ眺めているしかなかった。

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