3
社殿の裏手は趣のある和建築で、老舗旅館を思わせるような造りになっていた。いくつもある部屋の内、六畳ほどの広さの和室に案内される。なにもないきれいな部屋で、廊下を挟んで縁側に出ることができた。
「ここが碧くんの部屋。もともと空き部屋だから好きに使って」
案内してくれたもえぎが言う。
「ふすま障子だから、鍵とかついてないけど我慢してね。それと、隣は瑠璃の部屋になってるから。瑠璃の部屋も同じふすま戸だから入りたい放題よ! ちなみにあたしの部屋はちゃんと鍵付いてるけど、開けておくからいつ忍び込んでもオーケーよ!」
笑うもえぎに碧は苦笑いで応える。
「しかし、紫苑様ってあんなに若い人だったんですね。もっと貫禄のある人かと思ってましたよ。ていうか男の人だと思ってた……」
荷物を下ろしながら、碧は本殿でみた紫苑のことを思い返す。
「瑠璃ったらそんなことも教えてくれてなかったの? でも、若いなんて言ったら紫苑様きっと喜ぶわよ」
「紫苑様って、いくつなんですか?」
「ん? ……後で機会があったら自分で聞いてみなさい。あんなしゃべり方だけど、すごく気さくな人だから」
一瞬考えてから、もえぎは含み笑いを浮かべた。
「ちなみにあたしは二十歳。千草は十八よ。きれいなお姉さんたちに囲まれて嬉しいでしょ? 歳も近いんだし仲良くしてよね、碧くん」
「さて、なにから話そうかの」
上座に座る紫苑が茶を一口すすってから口を開いた。
紫苑に呼び出されたのは、あれから二時間ほど経ってからだった。用意してもらった食事を軽く摂り、荷をほどいて部屋でゆっくりしていると千草と瑠璃が迎えに来た。シャワーを浴びたからだろう、さっぱりとした様子で服も着替えていた。
通された座敷には、紫苑ともえぎが既に卓についていた。
「お主は、その狐面についてどこまで知っておる?」
事の事情については、京都に来る以前に瑠璃が伝えていた。瑠璃に話してあることについては、紫苑たちも既に承知済みということだ。
「前に琴引にも話したけど、ほとんどなにも。夜になると急に現れて襲ってくるっていうくらいしか分かりません」
「そうか」と紫苑は目線を天井に向け、しばし考える。
「以前、京に住んでおったことはあるか? 生まれる前に両親が住んでおったなどでもよい」
「いえ、京都は小学校の修学旅行で一度来たことがあるくらいです。……あ、でも祖父が昔京都に住んでたって聞いたことが」
「なるほどな。では、お主は狐面が何なのかも分かっておらぬということじゃな?」
首を縦に振る。
「ふむ……。あれは影じゃ。お主を憎み、殺したいと願うものが作りだした、怨念の一端じゃ」
「影?」
「そうじゃ。大本は別にある」
紫苑が顎を掻く。
「……まあ、いつまでも自分の命を狙うのが、何者なのか分からぬのも気持ち悪いじゃろう」
「分かるんですか?」
「ああ。お主も、薄々は感づいておるのじゃろ?」
紫苑が目を細め、不敵な笑みを浮かべた。
「殺そうとするほどお主を恨んでいるもの、それは──狐じゃ。それもただの狐ではない。妖狐、九尾の狐」
昔、本で読んだのかテレビで見たのか、その名前は聞いたことがあった。九尾の狐、それは長く生きすぎた狐が妖怪となったもので、読んで字のごとく尻尾が九つある妖狐。
「それも、とびきり強大な力を持っておるやつじゃ」
「でも、俺そんな狐に恨みをかうようなことをした覚えがない……」
「子供のとき、お稲荷さんにおしっこでもかけたんじゃない?」
もえぎがちゃちゃを入れてくる。
「してませんよ、そんなこと」
「まあ、小便ほど度で命を狙われたのではたまったものではないな」
紫苑が仕切りなおし、軽く咳払いをする。
「昔、丹後地方の山間に小さな村があってのお。その村に、こんな伝承があるのじゃ」
──戦国時代、村に災厄の妖狐あらわる。家々を焼き尽くし、村民を喰らい、それでもなお狐は九つの尾をひるがえし村を襲い続ける。やがて村人たちは神への祈りを諦め、鬼へと祈りを捧げるようになった。そしてあるとき、真白という一人の若者の前に鬼があらわれた。真白は鬼と契約し、鬼の力を得た。しかして、その力を持ちて九尾の狐を打ち倒し、村に平和が戻った。
「まあ、陳腐な昔話じゃな」
語り終えて、紫苑はそう話を締めた。
「じゃあ、その真白っていうのが……」
「そう、お主はその真白の生まれ変わりじゃ。小学校の修学旅行で京に来たと言ったな。大方、打ち滅ぼされてなお残っていた妖狐の魂が、京に来たお主に目をつけたのじゃろう。まったく、本当に運のないやつよ」
「そんな、そんな嘘みたいな理由で、俺は五年も命を狙われ続けてるっていうのか」
「その様子では、真白としての記憶は全くないようじゃな」
「俺は関係ない。そんなやつのことなんて全く知らない。なのに、そんなとばっちりみたいな理由で、なんで俺が……」
碧がうなだれる。興奮ぎみに声を少し荒げた。
「そう言うな。これもお主の定めと思うしかなかろう。前世との因果はもうどうすることもできん。それに、京はお主とも妖狐とも縁が深い。そのうち否応でも過去の記憶が蘇るじゃろう」
碧はなにも答えない。なにかを考えているのか、怒りに押し黙っているのか、うつむいたままで一点を見つめ続けている。
しばしの沈黙の後、紫苑が続ける。
「で、その妖狐の呪いを解く方法じゃが──」
その言葉に、うつむいていた碧が顔を上げる。真剣そのものの顔で紫苑を見据える。碧の表情に紫苑はやや口元を緩めた。
「方法は二つある。至って簡単な方法じゃがな。一つは、妖狐と直接対峙し、打ち倒し、怨念の根本を断つ方法。もう一つは……、お主が狐に殺され、妖狐の恨みそのものを晴らしてやる方法」
紫苑の言葉に、場に重い沈黙が走る。
「もちろん、わしが推奨するのは前者じゃ。でなければ、ここにお主を呼ぶ必要もない」
「その、九尾の狐を倒してもらえるのですか?」
「残念じゃが、わしらが妖狐に直接手を下すことはできん。意味がないのじゃよ。これはそもそもお前に向けられた怨念、わしらが倒しても、すぐにまた復活してしまうじゃろう。それほどまでに、妖狐の怨念は深いのじゃ。わしらがしてやれるのは、お主と妖狐を引き合わせてやることと、お主への助言くらいじゃ」
「俺で、俺でその妖狐に勝つことはできるんですか?」
「……無理じゃろうな」
一瞬考えてから紫苑は、そうはっきりと切り捨てた。
「今のお前では十中八九、妖狐に殺される」
「じゃあ、一体どうすれば……」
「だから言ったじゃろう、そのためにお主を京まで呼んだのだと。お前にはしばらくここへ留まってもらう。力をつけてもらい、それから妖狐と対するのじゃ」
安心して任せておけ、と紫苑は笑う。碧にはまだ半信半疑の気持ちは拭いきれていなかった。しかし、もうここまで来てしまったのだ。ここは紫苑たちに任せておくしかないだろう。そう碧は心の中で決断した。
「分かりました。ところで、今回の報酬なんですが、一体どれくらいを?」
「報酬?」
その言葉を聞いたとたん、紫苑はまるで汚物を見たように顔をしかめる。
「みくびるなよ、わしを誰だと思っておるのだ? 金などいらんわ。そもそも貴様のような小僧から金を巻き上げようなどとは、はなから思っておらん」
紫苑は気を悪くしたように、立ち上がる。
「で、でも……」
碧が紫苑の気迫に押され、口ごもる。そんな碧の煮え切らない態度が納得いかないのか、
「善意というだけでは、信用できんというのか?」
腕を組んで立ちつくす。
「ならば、今後わしの仕事を手伝うとういうのはどうじゃ? わしはこういった、物の怪や霊の類を鎮めたりすることを生業の一つとしておる。その仕事を手伝ってもらう。お主の力は役に立つのでな」
数秒考えた末、紫苑は言った。
報酬については、碧も特段深く考えていた訳ではないし、紫苑が金銭はいらないと言っている以上、それを無理にどうする必要もないだろう。それに、今のこの狐面に襲われる事態がなんとかなるのならば、紫苑の仕事を手伝うくらい構わない。そう考え、碧は紫苑の申し出を承諾した。
「そうか、ならば良かった」
紫苑は安堵したように笑顔を浮かべると、おもむろに巫女装束のあわせから胸に手を入れ、なにかを取りだす。
「これを渡しておこう」
紫苑は取りだしたそれを、碧に向かって放る。
投げられたものを受け止め、手の中を見ると、それはピンク色の御守だった。『厄除御守』裏を返すと『比叡山延暦寺』と金糸で刺繍してあった。さっき根本中堂前の授与所で見た御守とまったく同じものだった。
「これは……?」
「見ての通り御守じゃ。昨日わしが直々に買ってきた」
紫苑はなぜか偉そうに胸を反り返した。はあ、と相槌を返して手にした御守をまじまじと見る。一体なんの意味があるというのだろうか。不可思議そうな顔をする碧に、紫苑は続ける。
「それは、ただの御守ではないぞ。わしの念がこもっておる。それを持っておれば、また比叡山を登るとき、頭が痛い思いをしなくて済む」
「なんで、頭痛のことを知って?」
延暦寺に着いた時の強烈な頭痛を思い出す。しかし、それをなぜ紫苑が知っているのか。
「この山には怨霊の類が入ってこれないよう、わしの結界が張り廻らせてある。お主の頭痛は、その結界を無理に通ったのが原因で起こったものじゃ。お主の力は鬼のものじゃからの」
紫苑は碧の目の前まで来て、唐突に頭をなで始める。
一瞬あっけにとれる。顔が少し赤くなったのが自分で分かった。紫苑の香りだろうか、薔薇のような淡い香りが鼻孔をくすぐった。
「すまんの、本当はこっちへ来る前に送ってやるべきだったんじゃが、すっかり忘れておった。しかしよかった、お主で。もし弱いものならば通ろうとしただけで粉微塵じゃった」
紫苑が高らかに笑う。冗談じゃなかった。
「それは肌身離さず持っておけよ」
紫苑はまた上座の位置に座りながら言う。
そんな力があるのかと思い、御守を掲げてみるが、どう見ても普通の御守にしか見えなかった。しかし、このピンクという色はもう少しなんとかならなかったのか。碧にはかわいすぎる色だった。
「私も同じの持ってるんだよ」
そう言ったのは瑠璃だった。胸元から御守を出して見せる。紐を長くして、首に掛けているらしい。色はやはりかわいいピンク色だった。
「……そんなことを話しているうちに、どうやらおいでになったようじゃ」
突如口調を変え、落ち着いた様子で紫苑が口を開く。一体、なにが来たというんだと、そう思った次の瞬間、空気が冷たく震え、押しつぶされるほどのプレッシャーが全身を駆け巡った。
「これ……まさか……」
もえぎが寒気に耐えるように、自らの肩を抱く。
ふと窓の外を見ると、いつの間にか空は闇に包まれていた。
狐面が、あらわれた。
「伏見くん……」
「分かってる」
しかしなぜだ? 遠い。あらわれた場所が遠すぎる。ここから数キロ離れた山の中腹あたりにその力が感じられる。
「結界のせいじゃ」
碧の疑問を悟ったかのように紫苑が言う。
「あやつはわしの結界を越えられないのじゃ。それであんなところをうろついておるのじゃろう」
「ここにいれば、安全ってことですか?」
「お主はな。狐はこれ以上入ってこれんし、朝になれば勝手に消えるじゃろう。しかし、狐が街に下りる可能性もある。山道で人と出くわさんとも限らんしな」
「放っておけば、他人に被害が……」
碧が立ち上がる。
「行くのか?」
紫苑の問いには答えなかった。いや、聞こえていなかったのかもしれない。碧の目は、既に遠くの狐面しか見ていなかった。他に被害が出る前にはやく行かなければ。
碧は、駆けだした。
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