2

  ──頭が痛い。

 未だに脳みその奥の方がガンガンいっている。貧血になったかのように目眩が止まらない。

 比叡山延暦寺、根本中堂前。碧はベンチに腰掛け、頭痛に必死に耐えていた。

 さすが山の中と言ったところだろう、まさに蝉しぐれ。雨音と間違えるほどの蝉の声が辺りに響き渡っていた。頭上は木々の葉で覆われ、夏の強い日差しを和らげてくれている。いつの間にかあの空を覆う厚い雲は晴れ、焼けつくような夏の日差しが戻って来ていた。

 根本中堂、やはり延暦寺の総本堂ということもあって、人通りは絶えなかった。何気なく左を向くと、手水舎と小さな御守の授与所が見える。授与所には白、藍、ピンクと数色の御守が陳列されているのが見えた。

 頭痛が急に襲ってきたのは、比叡山をケーブルカーで登っている時だった。山の中腹を過ぎた辺りで、急に頭を鈍器かなにかで思い切り殴られたような衝撃が走った。あまりの衝撃と痛みに、駅に到着してもすぐには立つこともできなかった。なんとかここまでは移動してきたものの、どうしても頭痛が収まらず、少し座って休憩させてもらうことにしたのだ。

 やっと、痛みが収まり始めた。碧は手で痛みのあった部分を押さえる。

「冷たっ!?」

 不意に両頬に冷たい感触が走り、思わず声を上げた。

 振り返ると瑠璃が両手に缶ジュースを持って嬉しそうに立っていた。どうやらジュースを頬に押し当てられたようだ。

「一度やってみたかったんです」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて碧の隣に腰を下ろす瑠璃。この子は時々意味の分からないことを言う。

 片方のジュースを手渡しながら、頭痛の様子を尋ねる瑠璃に、だいぶ良くなってきたと碧は答えた。


 それから十分ほどして、ジュースも飲み終えたところで碧は立ちあがった。

「頭痛も収まったし、そろそろ行こうか」

「そうですね。ここからが本番ですからね、日が暮れない内に早く行きましょう」

「あれ? 日が暮れない内にって、もう延暦寺着いたんだからすぐじゃないの?」

「あれ、言ってませんでしたっけ? 紫苑様がいるのはこのずっと先ですよ。これから山登りなんですから気合入れて行きましょう!」

 思わず碧が閉口する。

 聞いてなかった。もしかしたらちゃんと説明されていたのかもしれないが、完全に聞き流していた。もう到着したものだと思っていた。

 それから目的地に到着したのは、たっぷり一時間、山道を歩いた後だった。

 西塔の釈迦堂を越えた辺りから正直嫌な予感はしていたが、そこからは本当にただの山道だった。普通に登山だった。流石に瑠璃の荷物は持ってあげたが、この小さな体で文句の一つも言わずに、よくこの山道を登るものだと碧は瑠璃に感心した。


 細い山道をやっと抜け、辿り着いた先にあったのは、朱色の大きな鳥居だった。石畳の参道の奥には社殿が見える。

「やっと着きましたよ」

 瑠璃が額の汗を拭いながら言う。一時間の山道で、瑠璃も大分疲れた様子だった。

「でかい鳥居だなあ」

 鳥居を見上げる。その高さはゆうに十メートルはあった。

「あれ、でも確か延暦寺って、寺って付くくらいだから仏教なんじゃ……」

「ここはもう延暦寺じゃないのよ」

 その声は、石畳の参道の先から聞こえてきた。

 振り向くと、そこには巫女用の赤い袴姿の若い女性が二人立っていた。

「ようこそ、霊峰比叡 鬼鎮神社へ」

 そう言った一人は背が高く、茶色に明るく染めた髪を長くのばしていた。パーマをかけているのか、長い髪はふわりと緩やかなウェーブがかかっている。遠目からでも化粧がバッチリ施してあるのが分かる、今どきのキレイなお姉さんといった感じだった。

 もう一人は対照的に、物静かな印象を受ける女性だった。黒い髪は後ろで一つに束ねており、化粧っ気は全くない。切れ長の目は少し冷たさを感じさせ、美人だが近づきにくい、そんな雰囲気を醸し出していた。

「もえぎさん! 千草さん!」

 茶髪の巫女の方が手を振っているのを見ると、瑠璃ははしゃいだ様子で駆けて行く。碧も遅れて瑠璃の後を追う。

「瑠璃、久しぶりー! 春に来たの以来じゃん」

 茶髪の巫女が嬉しそうに、これでもかと瑠璃の頭をぐりぐりとなで回す。

「あの子が碧くん?」

「うん」と、ぐりぐりから解放された瑠璃がバサバサの髪で頷く。

「伏見くん、紹介するね」

 向き直った瑠璃が背の高い方の茶髪の巫女を指す。

「こっちが、嵯峨野もえぎさん」

「もえぎですう、女子大生やってまーす! よろしくね☆」

 茶髪の巫女は手を振りながらウインクして見せる。

「そしてこっちが、烏丸千草さん」

「よろしくお願いします」

 黒髪の巫女は消え入りそうな声で言うと、深々と頭を下げた。

「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 碧が頭を下げると、もえぎは興味津々といった様子で碧の顔を覗き込む。

「よくこんな山奥まで来たわね~。山道大変だったでしょう、碧くん」

「いや、別に。それほどでは……」

 まじまじと顔を見られて流石に緊張する。近くで見て気づかされるが、もえぎはその辺の女優と比べても遜色のないくらいの美人だった。

「ゴメンね~。車で迎えに行ければよかったんだけど、今日は忙しかったのよ」

 悪びれたように胸の前で両手を合わせるもえぎ。細い指から伸びる爪は、色鮮やかなネイルアートで彩られていた。

「ああ、はい」と、なにか煮え切らない返事をしてしまう。

「瑠璃ちゃ~ん、なかなかカッコイイ子引っかけたじゃない」

「ちょっと止めてよもえぎさん、そんな言い方。引っかけたとかそんなんじゃないってば」

 ニヤニヤと、押さえきれない笑みを浮かべるもえぎに、瑠璃は赤面しながら反論する。

「だってあんた、こないだ来た時も彼氏が欲しい彼氏が欲しいって、ずーっと言ってたじゃない」

 それを聞いていよいよ瑠璃の顔が真っ赤になる。

「やめてよやめてよ! なんでそんな事ここで言うの?! 伏見くんに私が淫乱な女の子だって思われたらどうするの?」

「やーい、この淫乱女子高校生!」

 瑠璃はもえぎに飛びつきながら、半べそをかいていた。それを楽しむもえぎの表情は、非常に活き活きとしている。……しかし、なんという会話だろう。

「碧様、瑠璃。中で紫苑様がお待ちです」

 二人の会話を見かねてかどうかは分からないが、千草が口を挟む。

「ああ、そうね。早く挨拶すませちゃいなさい」

「……はい」と、目をこすりながらも瑠璃は素直に返事をする。

「あのね、伏見くん……私、違うからね」

「なにがだよ……」

 碧はぼそりと呟いた。


 先頭を行く千草に付いてぞろぞろと参道を歩く。

「ねえ、あさぎさんは?」

 瑠璃が口を開く。

「あさぎ君は今、お仕事でいないのよ。北海道に行ってて、八月の終わりくらいまで帰ってこないの」

「そうなんだ。会えないの残念だな」

 あさぎとは、もえぎさんの双子の弟なんだと瑠璃が教えてくれた。今は除霊の仕事で出張中らしい。とても優しいお兄さんのような人だと瑠璃は続けた。

 社殿は遠くで見るのと近くに来るのとでは全く違っていた。予想以上に大きく立派な造りをしている。

 社殿を仰ぎ見るように、感嘆の声をもらす碧に、「この社殿は普通の社殿とはちょっと違うのよ。私たちの住居も兼ねてるからね。大きいのもそのせい」もえぎは苦笑交じりにそう言った。

 参道から外れた社殿の端にある勝手口のようなところから中に案内されるが、一歩中に入ると、そこは普通の民家の玄関と変わらなかった。広さは違うが、ごく一般的な上がり端となっていて、板張りの廊下が続いている。

 靴を脱いで上がると、千草は荷物はとりあえずここに置いておくようにと言った。

「お部屋には後で案内しますので、先に本殿で紫苑様に会っていただきます」

 抑揚のない口調で淡々と千草が言う。先にあがっていた瑠璃が、「こっちだよ」とすぐ左に伸びた廊下を指差した。

 薄暗い廊下が続く。歩くたびに床板がギシギシときしむ音を立てた。壁にはいくつもの障子の扉が並んでおり、その扉をいくつも通り過ぎていく。

 そして、それは何部屋目だろうか。不意に千草が足を止め、「こちらです」とつぶやくように言った。

「紫苑様、碧様と瑠璃が到着いたしました」

 告げてから千草は静かに目の前の障子戸を開く。

 中は六十畳はあろうかという広い空間だった。いくつかの燭台にロウソクが灯されている他、採光による自然光が差し込み、廊下より明るい。しかし、奥までは明かりが届かず、はっきりと見ることはできなかった。

 千草に促されるようにして、碧は本殿に足を踏み入れる。どうやら一番奥が高座になっているらしい。本来そこは御神体が祀られる場所であるはずなのだが、御簾が掛けられており、誰かが座っているのが見えた。本殿のちょうど中央辺りまで来て、瑠璃と並んで正座をする。千草はその半歩後ろに立ち、もえぎは入り口の障子のすぐ前に寄りかかるように立っていた。

 一本のロウソクが、燭台の上から高座に座る人物をゆらゆらと照らす。すぐ傍らには刀架があり、茶褐色の鞘と柄を持つ日本刀が掛けられていた。

「よく来たな」

 高座に座る人物が口を開く。

「お主が、碧か」

「は、はい。伏見……碧です」

 場の緊張感にやられ、ややどもりながら碧は答える。

「なかなかに良い面構えをしておる」

 身を乗り出しながら碧の顔を見据え、満足な表情を浮かべる。

「わしが、九条紫苑じゃ」

 九条紫苑と名乗る人物が立ちあがる。もえぎたちと同じ巫女装束姿。よれた赤い袴を雑に叩いて整え、腰まで伸ばした鴉の濡れ羽色の髪を大きくかきあげる。背は女性にしては、すらりと高い印象だった。

 まるで老人のようなしゃべり方をしていたが、その実、容姿はそれに全く似つかわしくない、二十歳ほど度の細身の女性だった。

 紫苑は高座をおり、二人の目の前まで来ると、腰を屈めて嬉しそうに碧の顔を覗き込む。「ほうほう、これはまたいい呪われっぷりじゃ。昼前頃から物の怪どもが急にざわつき始めてのお。お主が京に入ったのだとすぐに分かったぞ」

 ハハハと笑いながら、碧の頭をパシパシと叩く。着崩した巫女装束から覗く紫苑の白い肌が艶めかしく、思わず凝視してしまう。

「それに思った通り、良い力を持っておる。呼んで正解じゃった」

 紫苑に瞳をじっと見つめられる。紫苑の真っ黒な瞳はまるで吸い込まれるようで、見つめられていると全てを見通されてしまうような気がして碧は少しドキリとした。

「瑠璃もよく来たのお。元気じゃったか? 今回はいろいろご苦労じゃったな」

「はい。紫苑様もお元気そうで」

 笑顔で答える瑠璃に、紫苑も嬉しそうに頷く。

「ときに二人とも、もう昼飯は済ませたのか?」

 そう急に振られた思わぬ質問に、碧は返答にもたついてしまう。

 そういえば、新幹線で駅弁を食べたのが最後だった。あれだけ山道を歩かされ、さすがに腹が空いていた。まだだと答えると、紫苑は千草になにか簡単な食事を用意してやるように指示をだした。

「碧よ、聞きたいことは山とあるだろうが、一度落ち着いてからにしよう。せっかくこんなところまで来たのじゃ。ゆっくりして行くがよい」

 千草が食事の用意をするためだろう、パタパタと本殿を出ていく。

「じゃ、あたしが部屋まで案内するね」ともえぎが手招きをする。

「私シャワー浴びたい。ずっと歩いてきたから汗でもうベトベト」

「瑠璃がこないだ忘れてったタオルまだ洗面所に置いてあるよ。アレ使いなよ」

「わしはもう部屋に戻るぞ。話はまた後でな」

 各々が各々に散っていく。なにか思った以上に緊張感がなく、なんというか……そう、普通だった。必要以上に緊張していた自分が少し恥ずかしくなるくらいに拍子抜けだった。

 しかし、このごくありふれた家庭のような雰囲気に、碧は少しの安心感を覚えていた。

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