4
既に陽は沈みきり、辺りは闇に包まれていた。暑さは和らぎ、夜風が心地良い。
大通りの喧騒を抜け住宅街に入ると、人通りはめっきり少なくなり、辺りはひっそりとしていた。街灯の間引きした明かりが照らす道は、どこか心細さを感じさせる。
碧はそんな中を少し早足で歩いていた。後ろには喫茶店を出てから、いまだに瑠璃がついて来ている。
「ねえ、どうしてダメなの?」
「だから何度も言ってるだろ、京都は遠すぎだって!」
「さっきは行くって言ったじゃない。旅費も全部こっちが出すから」
「行くって言ったのは、京都って知らなかったから。というか、お金出してくれるからってほいほい京都まで行けるかっつーの」
だんだん瑠璃の口調が砕けてきている。だが、そんなことはどうでもいい。ファミレスを出てから約三十分、延々このやりとりの繰り返しだった。
「ねえ……私と一緒じゃ、嫌なの?」
急に瑠璃がしおらしい声を出す。コイツ、手法を変えてきやがった。
「そういう問題じゃない」
だが、歩みは決して止めない。
碧はおもむろに空を見上げる。欠け始めた月が空に浮かんでいた。星は見えないが、もう夜と言って差し支えない時間に十分なっていた。
──まずいな。
内心、碧は焦っていた。今夜はたぶんあいつが来る。朝からずっと嫌な予感がしていた。背後から誰かにじっと見られているような気持ち悪さと、首筋をチクチクと針で突かれるようなプレッシャー。
瑠璃を巻き込む訳にはいかない。早く帰さなければ。
適当に言いくるめて帰らせようか。しかし、下手な答えを返せば、学校まで来たくらいだ。またやって来るに決まっている。しかし、とりあえず今日だけでも帰ってもらえれば。
「琴引、悪いけどこの話とりあえず今度にしないか? 次会ったときに返事するからさ」
「そんなこと言って、うやむやにするつもりなんでしょ? 次なんていつ会ってくれるのよ?」
しかし瑠璃は一歩も引こうとしない。
「伏見くんが来てくれないと困るの! 連れてかないと私が紫苑様に怒られちゃう」
泣きそうな声を出す瑠璃。もうダダをこねる子供と大差ない状態だった。
「結局そんな理由かよ!」
「紫苑様、怒るとホントに怖いんだから! 私だってホントは知らない男の人としゃべるの怖いのに、がんばって他校まで行ったんだから!」
なにを訳の分からないことを言っているんだ、こいつは。こんなこと、付き合うにも限度があると呆れ果てた時だった。碧の嫌な予感は、とうとう当たってしまった。
瞬間、辺りに満ちた殺気に悪寒が走る。全身の毛穴が鳥肌となって反り返るような、恐怖に包まれる。磁場が狂い、電灯が明滅を始める。それと同時に、辺りから生命の気配が消えたように静まり返った。
瑠璃も事態を即座に把握し、押し黙る。
「クソッ! 出やがった」
どこだ、どこにいる。碧は集中して辺りを見回す。狐面は基本、人の多いところには現れない。住宅地のど真ん中のここではないのか。
「伏見くん」
「後にしてくれ」
集中を切らすまいとする碧に、瑠璃までを相手にしている余裕はなかった。近くにいる気配はあるが、一体どこにいるのか把握できない。
「伏見くんってば!」
「なんだよ! 今──」
集中を削がされ声を荒げる碧。勢いで振り返ると、瑠璃は神妙な面持ちで、前方を指差していた。
「あっち。ここから二十メートル行ったところの角を右に曲った先に、大きな公園があるの。そこに……いる」
まさかと思ったが、すぐさま瑠璃の指差す方向に集中を向けると、確かにその方向に狐面の気配が感じられた。
「お前はここにいろ」
言い残すや否や、瑠璃の返事も聞かずに碧は走りだした。
まるで風のように碧は駆ける。すぐ角に差しかかるも、減速せずにそのままの勢いで曲がる。その公園に到着するのに要したのはものの数秒でしかなかった。
公園は、住宅街にあるにしては規模の大きなものだった。敷地は奥に向かってL字型になっており、小さな雑木林に囲まれていることもあって、奥は周囲から死角になっていた。入口近辺にはジャングルジムやシーソーなどの遊具が設置されていたが、その先にはバスケットコート一面分くらいのスペースが広がっていた。
「どこだ?」
暗闇に懸命に目を凝らす。そして、すぐにそれは見つかった。
公園の隅の一本の木の陰から、こちらを窺うかのように狐の白い面だけが、半分覗いていた。
狐面と、目が合った。
狐面がゆらりと揺れ、木の陰から滑り出る。その様子はまるで、今まさに闇から生まれ落ちたような、影から分離したようにも錯覚させるような動きだった。
狐面を被っているところ以外は全身黒ずくめの、影そのもののような姿。長い腕をだらりとおろし、視線を碧から決して外さない。どこかそれは、うすら笑いを浮かべているようにも見えた。
碧は持っていた鞄を公園の入り口付近に放り投げた。そして手早く背負っていた袋から日本刀を取りだし、同じように袋を放る。と、同時に地面を蹴った。
瞬く間に狐面との距離が縮まる。碧は身体をかがめ、気合とともに刀身を鞘から抜き放った。抜刀による斬撃。
狐面は素早く両腕を上げ、攻撃を受け止めた。金属と金属を激しく打ち合わせたような音が、静まり返った公園に響いた。
衝撃によって狐面が後方に飛ばされる。それを追って、さらに碧は刀を振りかざす。踏み込んだ一撃に狐面が腕を打ち合わせて弾かれたとほぼ同時に、碧は刀身を返して突きを放つ。白刃が狐面の肩口をかすめる。
態勢を戻そうと後ずさる狐面の動きを見て、碧は身を転じた。遠心力を持って、狐面の腹を狙い、切り上げる。しかし、その攻撃は空を切った。
狐面は上空に飛び上がっていた。
その跳躍はゆうに三メートルを超えており、狐面は二回、三回と空中で身体を回転させると、軽やかに着地した。
狐面との距離は約十メートル。碧は短く息を吐き、狐面に向き直り、刀を構える。
戦いを長引かせることはできない。碧は思った。
いくらこの公園が道路からの死角にあるとはいえ、ここは住宅街のど真ん中。いつ誰が通りかかるとも限らない。誰かを巻き込む訳にはいかない。だから、その前に早く決着を付けなければ。
狐面は動かない。先ほどと同じように両手を伸ばし、窺うようにただこちらを眺めている。
なんだ、なにを狙っている? 攻撃を受けるばかりで、反撃をしてくる様子がない。なにかを待っているのか。
碧の頭の中をそんな思考がめぐる。相手の出方が分からず、不用意に飛び込めないでいた。
焦燥が走る。狐面の後方、公園の入り口付近にある時計を見ると、夜七時半を指そうというところだった。夜の闇が深さを徐々に増していく。狐面と対峙しているこの一分一秒が、永遠と等しいほどに長く感じられた。と、その時だった。
「伏見くん!」
目に飛び込んできたのは、瑠璃の姿だった。息を切らせながら公園に入って来る。
「なんで来た?! 来るな!」
思わず叫び声を上げる碧。
その注意の逸れた一瞬をついて、狐面は動いた。
だらりと伸ばした腕をそのまま勢いよく地面に突き立てる。それとほぼ同時に、碧の足元のから地面を突き破り、狐面の腕がまるで二本の硬質の槍のように襲いかかる。
「クソッ」
完全に油断していた。すぐさま飛び退くも、うち一本の槍が碧の腕をかすめ、鮮血が飛び散る。
それを見た瑠璃が悲鳴を上げた。
だが、傷は浅い。急いで態勢を立て直そうとするが、二本の腕が交互に地面から襲いかかる。どこから来るか全く見当もつかず、身をよじってよけることがやっとだった。
間合いを取りすぎた。距離がありすぎて反撃できない。よけ続けるものの、徐々に切り刻まれた傷が増えていく。このままでは、そのうちに致命傷を受けてしまう。そう判断した碧は、甘く入った一撃を刀の腹で無理矢理に受け、状態を保って空中に飛び上がった。
十メートルという距離を一足で飛び、狐面に斬りかかる。しかし、これを狐面は造作もない様子で避け、再度間合いを広げにかかる。
さっきと同じ状況を作られるのはまずい。瞬時に碧も入り口の方へ飛びずさり、狐面との距離を広げる。先ほどの倍近い距離を持って着地。狐面の間合いを計り、なお余裕を見ての距離だった。
膝をついたままで、切れた息を整える。どうやら読んだ間合いは当たったらしく、狐面はまた腕をだらりと伸ばし窺うように動かなくなった。
そこへ瑠璃が心配そうな面持ちで、小走りに駆けてくる。
「大丈夫? 血が……」
思った以上に狐面に負わされた傷は多く、全身から多量の血が流れていた。心なし、目が霞んでいる。
「なんで来たんだよ?! あそこにいろって言っただろ!!」
「だって……」
狐面からは決して目を離さない。
「いいから、離れてろ」
「そんな傷だらけで、一人じゃ無理だよ!」
「無理だからって、だったら誰が戦うんだよ! 俺がやるしかないんだよ!」
碧は声を荒げる。傷は想像以上に重い。常人離れした身体能力を持つ碧は、治癒能力のそれも例外に漏れていなかった。少し休んでいればこのほど度の傷はすぐに完治するのだが、現状そうゆっくりと休んでいる場合ではなかった。
「私も……私も戦えるよ」
不意にそう言った瑠璃の言葉に碧は耳を疑った。
──なにを、言ってるんだ?
瑠璃は傷だらけになった碧の腕を優しく握り、ゆっくりと立ち上がり、狐面を見据える。
「私も、一緒に戦うよ。私だって、ちゃんと戦えるんだから」
瑠璃の表情からは、さっきまでの恐怖に怯えた様子はすっかりと消えていた。
「バカ!! 止めろ、お前じゃ──」
──お前じゃ無理だ。
立ち上がろうとしたが、足が意思に反して言うことを聞かなかった。膝に力が入らず、ガクリと体が崩れる。腕をついて支えるのがやっとだった。
それを見た狐面が、おろしていた腕を構える。今が勝機と悟ったらしく、こちらに突っ込んでくる。表情はやはり面の下、垣間見ることはできなかった。
「逃げろ!!」
狐面が迫る中、碧は必死に声を上げた。しかし、瑠璃は決して動こうとはしない。強い意志の籠った瞳をもって、狐面を見つめている。
また、誰かを巻き込んでしまう。また、誰かを傷つけてしまう。もう、誰も傷つけないと誓ったのに、また……
瑠璃がおもむろにブラウスの胸ポケットに手を入れる。
狐面が一瞬で間合いを詰め、腕を大きく振り上げた。
そして、全てが交錯する。
その瞬間、辺りに閃光がはじけた。
あまりのまばゆさに驚き、碧は顔を上げる。
そこにあったのは、光の壁だった。
瑠璃が右手を真っ直ぐに伸ばし、狐面の攻撃を受け止める。しかし、直接瑠璃が攻撃を受け止めているのではない。瑠璃と狐面の間、宙に浮いたお札のような紙。それを中心として、光の壁が放出されるように展開されていた。
それは、さきほど瑠璃がブラウスから取りだしていたものだった。
狐面の腕を受けた箇所が、まるで高圧の電流でも流れているかのように火花を散らす。超高温の熱をもったように光の壁が色を変えていく。衝撃波が生んだ乱風が激しく渦を巻き、瑠璃の髪やスカートをはためかせた。
狐面が押している。少しずつ光の壁が歪み、じりじりと瑠璃は後ろに下がりつつあった。
「符よ、悪しき者を拒絶せよ!」
瑠璃が叫ぶ。その声に応えるように、光の壁がその輝きを増す。力を増し、狐面を押し返していく。
瑠璃はすかさず左指を胸ポケットに入れ、また同じように長方形の護符を取り出した。
左手の人差し指と中指で護符を挟み、前に突き出した右手と上から交差するように顔の横まで振りかざす。
「浄化の光よ!」
振りかざした護符から白い光があふれる。光はまるで弾丸のような球体を形成し、瑠璃の指で渦を巻いていく。
そして気合とともに振りかざした腕を払い、光の球を狐面に向かって放った。
光の球は発砲された弾丸のような勢いを持って、狐面に向かってはじけ飛ぶ。光の壁をすり抜け、狐面の目前に迫る。
夜の静まり返る住宅街に、空気を振動させる重い、爆発音が響いた。光の球は狐面に着弾するや否や轟音を上げて爆発し、辺りに突風を吹き荒らした。
土煙が上がり、木々の枝葉がざわめくように揺れる。
「すげえ……」
碧は膝をついたまま感嘆の声を上げた。
瑠璃が右手をゆっくりと閉じると、展開されていた光の壁は消え、中空に浮いていた護符は役目を終えたように燃え尽きた。
土煙が薄れていくとともに、狐面の姿が露わになる。狐面は十数メートル先、光の球の衝撃によって吹き飛ばされていた。しかし、まだ生きている。必死に腕をつき、立ち上がろうとしていた。
よろめきながらも立ち上がる狐面。だが、その左上半身はもう失われていた。まるで高温の火に触れた蝋のようにドロリと黒い体が溶け落ちている。
もはや瀕死の状態であろう狐面の、雑音の混じった荒い呼吸がこちらまで聞こえてきた。ボトリと、黒い肩の肉が溶けて落ちる。
「……伏見くん、とどめを」
冷静な瑠璃の声に、碧はハッと我に返る。思わず唖然とし、見とれしまっていた。
ああ、と短く返事をして立ち上がる。先ほどとは違い、身体もちゃんということを聞く。
立ち上がった碧を見とめて、狐面が大鎌のような形の腕を振り上げる。残った片方だけの腕を。
「それでもまだ──」
言いかけて、碧は首を横に振る。迷いを打ち消すように。
狐面を見据え、地を蹴る。
狐面は腕を振り上げたままほとんど動けなかった。立っているのがやっとだったのだろう。
碧の振るった刀が一閃し、半身だけの狐面の身体を上下に斬り落とす。
狐面が、そのまま地面に崩れ落ちる。闇の影へと同化するように、狐面の身体は霧散しながら静かに消えていった。
刀を鞘に収める。
緊迫した空気が消え、夜の静けさが戻って来る。
終わった。
いつもこの瞬間、今日もまた生きていることができたと碧は実感する。
瑠璃が心配そうな顔でこちらに駆けてくる。
「あの、傷は?」
「もう大丈夫だよ」
言って腕を見せる。傷のほとんどがもうふさがり始めていた。ただ、切り裂かれた制服はボロボロだった。
「ごめんなさい。最後は、伏見くんがやらなきゃいけないと思って……」
瑠璃がすまなそうな顔をする。さっきの「とどめ」のことだろう。
「いや、いいんだ。あいつはもともと俺に用があったんだ。俺がやって当然だよ」
夜風が気持ちいい。額に滲んだ汗を拭う。空を見上げると、月明かりがさっきよりも明るくなっているような気がした。
「今日は、ありがとう」
「いえ、そんな。むしろ出しゃばったことしちゃって……すみません」
一瞬照れたような素振りをみせながらも、瑠璃はすぐにしゅんとしてしまう。
「……あのさ、例の京都の話なんだけどさ、明日にでもまた詳しく聞けないかな?」
「え?」
瑠璃の頭に疑問符が浮かぶ。突然言われたことに、頭が反応できなかったようだ。「ダメかな?」と続ける碧に、「そんなことないです」と、焦って答える。
「ぜひ明日、またお願いします」
ニッコリと瑠璃が笑う。
さっきまでのことが全て嘘のように思えてしまうような、少女の可憐な笑顔。
この子は笑っているのが一番かわいいと、碧は心の中で思った。
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