第六章 天地をつなぐ橋
1
黄昏。
沈む夕日に山ぎは燃えて、叢雲がまばゆく黄金色に輝く。
生い茂る木々の緑さえ、景色の全てが茜色に染まっていく。
石段のどこまでも続く山道。鳥居がトンネルのように並ぶ。前を向いても、後ろを向いても、延々と続く朱の鳥居。鳥居の朱色と夕焼けの茜色が入り混じり、血のように紅い、金の輝きを放つ。
かなかなというひぐらしの声が、時雨のように鳴り響いていた。残響がこだまする。三百六十度、四方の全てから、儚くも切ない、寂しい音色が響き渡る。音という存在が、ひぐらしの声しか認識できないほどだった。包み込まれるように、うずもれるように、浸っていく。
ここは空蝉を隔てた、虚構を思わせる空間。茜さす鳥居と、ひぐらしが支配する世界。
断絶された世界に迷い込んでしまったようで、その美しさと寂しさに、もう戻れなくなってしまうのではないかと、不安と心細ささえ覚える。
「こんなところに、本当に現れるのかなあ?」
おずおずと怯えたように聞く瑠璃に、碧は閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
今日は、刀は持ってきていない。不要だと思ったからだ。今はもう、争う必要はない。
「単純だと思うか? こんなとこで待ってるなんて」
瑠璃はかぶりを振ったが、紫苑にはそう笑われた。
出掛け、紫苑は日向ぼっこをするように拝殿の上がり部分に腰かけて、膝に乗った野良猫を撫でていた。
瑠璃と連れ立って、ここへ赴くことを紫苑に告げると、「まったくお主は単純な奴じゃな」そう笑いながらも送りだしてくれた。「明日は出発じゃ。遅くならんようにな」と。
京都に碧たちが戻ってきたのは、昨日の昼すぎのことだった。
出迎えた紫苑ともえぎに依頼の完了を告げると、碧の顔を見るなり紫苑が意外そうな表情をした。
「ほお、数日見ぬ間に良い顔になったのお。思わぬ収穫があったようじゃ」
紫苑が満足気に笑う。
駆け寄る千草にもえぎは、「こっちもバッチリよ!」と親指を立てていた。
そして紫苑から、三日後の、満月の夜の戦いを告げられた。
今日、碧がこの場所に来たのは狐面と会うためだった。しかしそれは、特に現れると確信があった訳ではない。ただなんとなく、ここだと思っただけだった。
五年もの長い歳月、狐面とはずっと顔を合わせていた。それはお互い、憎しみという感情でぶつかり合うばかりだったが、今日で狐面が現れるのも最後だと感じていた。二日後の満月、結果がどうなったとしても、狐面が姿を見せることはもう二度とない。碧の中にはなにか、心に空虚を持つような切なさが生まれていた。
長い長い戦いの末、やっとここまで辿りつき、最後の最後でやっと狐面とも向かい合えるような気がしていた。
風が吹いた。夕暮れの、夜の冷たさと湿り気を含んだ一陣の風が、碧の髪をしとりなぜた。
「……よう、やっと来たな」
碧が背中越しに口を開く。瑠璃が驚いて振り返ると、鳥居と鳥居の間に狐面が音もなく立っていた。
夕日を受けて、白い狐の面が赤く染まる。
「どうして?! まだ夜じゃないのに」
瑠璃が声を震わせる。しかし、狐面からは殺気というものが全くと言っていいほど感じられない。普段の、身の毛のよだつような悪寒も、恐怖もない。ただ静かに、碧の様子を傍観しているだけのように見えた。
「あと、二日だ」
瑠璃に構わず、碧が続ける。狐面は動かない。
「数百年、随分と長かった。……でも、それもあと二日で終わる」
碧は狐面に背を向けたまま、懐かしむように言葉を紡ぎ出す。
「俺はもう逃げない。お前から、決して逃げたりしない。失ったものも、得られなかったものも、置いて来てしまったものも。俺は、全部手に入れる……」
空を仰ぐ。茜色の空に、鴉が二羽、三羽と山の端へ向かう。まるで影のような陰影を残しながら。黄昏の赤一色に染まる空はこんなにも美しいものだったのかと、思わず息を飲んだ。その赤は、回顧するいつかの風景、そして追憶の憧憬。
「だから、琥珀──」
風が吹いた。強い風が木々の葉を巻き上げ、森がざわめく。瞬間、ざわめきに譲るようにひぐらしたちが一斉に口をつぐむ。髪が吹きあげられ、思わず目をつむる。瑠璃が髪とスカートの裾を手で押さえつける。
そして、残る沈黙。
かつんと、石段になにかが落ちる音がした。
振り返ると、狐面の姿はもう消えていた。
またひぐらしが鳴き始める。そして、蝉しぐれに包まれる。
狐面の立っていた場所に歩くと、なにかが落ちているのが目に入った。拾い上げてみると、それは狐の白い面だった。
狐面の付けていた、面。なにを思い、置いていったのか。碧は、面を顔にあてがった。
「それは……?」
覗き込んできた瑠璃が、不思議そうに面を見つめる。
「さあ? 宣戦布告のつもりなのか、それとも置き土産なのか」
「狐面、消えちゃったの?」
「そうみたいだな。今さら影が戦う意味もないしな」
蝉しぐれが終わりなく続く、永遠のように。だが、それもいつか終わりは来るのだろう。沈まぬ太陽がないように、また、終わらぬ夜がないように。もうすぐ、終わりを告げる。
沈む夕日がかげろうのように真っ赤に揺らめき立つ。終わりを思わせるこの場所には、ひどく切なさと物悲しさが募った。
「もう、帰ろうか」
碧と瑠璃は伸びた影を並べて、石段の続く道を静かに歩き出した。
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