10

 窓の外に見える庭が、月明りに煌々と照らし出されていた。

 音葉の家のリビング。

 俺はドアの前に立ち、ソファにはおじさんとおばさんが少し離れて座っている。

「今日はすみません。急に話したいことがあるだなんて言って……」

 漂う空気がひどく重い。二人の拒絶は沈黙を呼び、明らかに俺は招かれざる客だった。許されるならば、すぐにでもここから逃げ出したい。

 しかし、それはできない。

 くじけそうな心を奮い立たせようと、隣に立つ音葉の手を握る。握った手が、震えていた。音葉もまた、意志を貫くように俺の手を強く握り返してくる。

「悠太君。今日は一体なんの用なんだい?」

 深いため息をつきながら、おじさんが口を開いた。

「私たちのことは、もう知っているんだろう?」

「はい……今日はそのことで──」

「放っておいて、くれないか」

「──え?」

 俺の言葉を遮って言ったおじさんの言葉に、思わず言葉が詰まる。

「私たちのことは、放っておいてくれないか?」

「で、でも……」

「悠太君、確かに君との付き合いは長い。音葉……娘とも生まれた頃からの中で、家族のようにしてきた。君が私たち夫婦のことを気にかけてくれるのもありがたいことだとは思っている。……だが、もう音葉はいないんだ。娘を失った私たちの気持ちが君に分かるのか? あまり、ずけずけと私たちのことに口を出さないでくれないか? なにも分からない癖に」

 拒絶だった。うつむき、頭を抱え込むようにするおじさん。おばさんは黙りこくったまま、何も言わない。

「で、でも音葉は──」

 負けない気持ちで言った音葉という言葉に、おじさんの肩がピクリと揺れた。

 一瞬にして張りつめた、薄いガラスのような空気に気圧される。心臓が圧迫されるようなプレッシャーが辺りに立ち込める。

 嫌な空気だった。救いようのない、誰もが誰もを責め、自分自身をさえ責めながらも、罪人も、矛先を向けるべき対象も、元凶もなにもない、やり場のない感覚。消化不良のように、胃に不快なもやもやの残る、気持ち悪い。

 あんなに子煩悩で、優しくて、面白かったおじさんが、こんなにも変わってしまった。

 それでも、それでも俺は言葉を絞り出さなくてはいけない。音葉のために。音葉の願いを叶えるために。言葉の言葉を、届けるために。

 握った手に目を落とす。音葉の存在と感触を再び強く感じ、気持ちを奮い立たせる。

「音葉は……音葉は望んでない。おじさんとおばさんが、二人が責め合って、家庭が壊れていくのなんて望んでないんです」

 その言葉におじさんが顔を上げる。その表情には明らかな不快感と、怒りの感情が見て取れた。重い腰を上げるように立ち上がり、自らを落ちつけるように深いため息をつく。

「こんなことを言うのはなんだが、君は他人なんだよ。あくまでも、関係のない人間なんだ。君に、私たちのことをどうこう言う権利がどこにある? あまり勝手なことを言って、他人の家庭のことに首を突っ込まないでくれ」

「だけど、音葉は言ってるんです。二人にまた自分がいた頃のように仲良くして欲しいって。いがみ合ってる二人を見ているのが辛いって」

「ほお、音葉が……」

「そうです。音葉は悲しんでるんです。自分が死んだせいでおじさんとおばさんが喧嘩して、大好きな二人がどんどん変わっていってしまうのが、音葉はどうしても耐えられないんです。二人が自分のせいで不幸になっていくって、音葉は苦しんでるんです!」

「音葉が……」

「お願いします。音葉の願いをどうか聞いてやってくれませんか? 音葉のために、今までの仲の良かった二人に戻ってやってください」

 俺は頭を深く深く下げた。リビングの床を見ながら、言葉を振り絞った。

 短い沈黙が流れ、その次の瞬間、俺の脳に痛烈な、重い衝撃が走った。

 身体が突き飛ばされたように、横転して吹っ飛ぶ。瞬間的な振動に意識が飛びそうになる。なにが起こったのか、理解がコンマ数秒遅れ、床に這いつくばったまま俺は、反射的に顔を上げた。

 そこには、激昂したおじさんの姿があった。

 おじさんに殴られた。振り切った拳はそのままに、肩で荒い息を抑えている。

 おばさんが悲鳴を上げた。

 言葉も出せずに怯え、悲しみに満ちた表情の音葉が視界の隅に見て取れた。口の中が切れ、生ぬるい鉄の味が広がる。

「音葉、音葉と……。おまえに一体なにが分かるって言うんだ! 娘の……死んだ音葉の、なにが分かるって言うんだ! おまえは一体なんのつもりなんだ!!」

「音葉はなあ……音葉は、死んでも泣かなかったんだよ! それなのに、両親が……おじさんとおばさんが不幸になったって泣いてるんだよ! 自分のせいだって、悔やんでるんだよ!」

 俺は殴られた痛みも忘れて立ち上がった。我を忘れたようにおじさんの胸ぐら掴みかかり、溢れる激情に任せて叫ぶ。

「自分だけが不幸になったような面してんじゃねえよ! あんたが、あんたたちがいつまでもそうやって不幸面してるから、音葉がいつまでたっても本気で笑えないんだよ! 俺は、音葉のあんなさびしそうな顔、二度と見たくねえんだよ! 親だったら、子どもに心配かけるんじゃねえ!!」

「なにが分かるんだ! 音葉のことも、私たちのことも一体おまえになにが分かるっていうんだ! 私たちの気持ちが、分かってたまるか!」

「あなた、もうやめて!!」

 おじさんが怒号をあげ、胸ぐらを掴み返して俺を力のままに壁に押し付ける。おばさんが、立ち上がって悲鳴を上げた。

「もう、やめて……もう、やめてよ。私のせいで……私のせいで……」

 音葉の姿は見えなかった。しかし、悲痛に満ちた悲しみの声が微かに聞こえた。

 俺の叫びと、おじさんの怒りと、おばさんの悲鳴と、行き場のない、どうしようもない悲しみと悔しさと無念が入り交じる。

 その時、救いのない嘆きの螺旋が吹き荒ぶ中に、不意にピアノの音が響いた。

 鍵盤を叩きつけただけの、音階を無視した不協和音がリビングに響き渡り、水を差したように場がシンと静まり返る。

 誰もが叫びを止め、唖然として口をつぐむ。誰もいない、誰も弾いていないピアノが突然、不協和音を奏でたのだから。

 月の淡く白い光が伸び、リビングを包むように照らす。

 沈黙が、流れる。

「音……葉」

 部屋の隅のピアノを振り返り、おばさんが信じられないというように声を漏らす。

「……音葉……音葉なのか?」

 俺の胸ぐらから手を放し、おじさんが驚きに目を見開く。

「音葉……なの?」

 驚きに力が抜たように、おばさんが床に座り込んだ。

 音葉の涙が、ピアノに落ちた。鍵盤に叩きつけた手をそのままに、溢れる涙を拭うこともしないで、俺たちをみつめている。

「やめてよ……もう、やめてよ」

 月影が音葉を照らす。しかし、音葉の姿は二人には見えない。涙をこぼす姿も、嘆きの声も聞こえない。

 死んだ娘の名を呼びながら、必死にその姿を探すおじさんとおばさん。

 慌てふためくように、すがりつくように、求めるように。その様子はひどく哀れで、とても痛々しかった。

 意を決するようにポケットに触れ、中に入っていたものを取り出す。それは、前に音葉に買わされた櫛神社のお守りだ。月明かりを受けて光を放つお守りは、いつも以上にまばゆく光り輝いていた。

「音葉」

 俺の声に振り向いた音葉は、筆舌に尽くしがたい、それはやるせない表情を滲ませていた。

 そっと、音葉に手を差し伸べる。

 音葉はおじさんとおばさんを一瞥すると、やっとのことで涙を拭った。自分の持つお守りを取り出し、光の溢れるそれを大事そうに胸に抱く。そして俺の差し出す手のひらに、自分の手とお守りを重ねると、ふわりと飛んで身を寄せてきた。

「使えよ、俺の身体」

「ありがとう。……ごめんね」

 音葉が、おじさんに殴られた頬のあとに触れて、そのまま抱きつくように俺の中に入ってくる。

 合わさるお守りからやわらかな光が溢れ出て、俺と音葉の身体が包まれていく。


「お父さん、お母さん」


 その声に、おじさんとおばさんが、驚きを隠せない声音で音葉の名前を口にする。

「……お父さんもお母さんも、なんだか久しぶりだね」

 俺の身体を使ってしゃべる音葉。しかし、その声は俺のものではない。その声は、紛れもなく音葉本人のものだった。声だけではなく、その姿もさえも。月明りに浮かび上がるその姿は、音葉本人だった。

 俺の身体にダブるように、淡い光に包まれて。しかし、音葉の身体がはっきりと見て取れる。おじさんとおばさんにも、音葉が見えているのだろう。二人は、驚きに言葉を失い、ただただ立ちつくしている。

「今日は、喧嘩ばっかりしてるお父さんとお母さんを見てられなくて、ちょっと出てきちゃった」

 音葉がにっこりと笑う。

 おじさんが信じられないというように、震える手をこちらへ伸ばしてくるが、音葉はそれを制するように、口を開いた。

「ごめんなさい。お父さん、お母さん。今日は、お別れを言いに来ました」

 涙が溢れ、音葉が声を詰まられる。

「こんな形でのお別れになってしまってごめんなさい。それも、こんな今さらになっちゃって。本当にごめんなさい。……私は、親不孝者だね。でも、どうしても二人に最後にお別れをしたくって、ずっとずっと迷ってたの」

 悠太のおかげで、やっと二人にあいさつをすることができます。と付けくわえ、音葉は心を落ちつけるように小さく息を吸った。

 おじさんとおばさんは抱き合うようにしながら、静かに音葉をみつめている。

「今まで育ててきてくれてありがとう。私は、幸せでした。……ふふ、これってなんだか、お嫁に行くときのセリフみたいだね」

 気恥かしさをごまかすように失笑して、音葉はおじさんへと視線を向ける。

「ねえ、お父さん。私は、優しいお父さんが大好きでした。でも、いつまでも娘離れ出来ないようじゃダメだよ。あんまりお母さんに迷惑かけないで。ちゃんと、お母さんのこと守って、大事にしてあげてね」

「音葉……」

「それから、お父さん仕事ばっかりで、すぐ無理しちゃうんだから。あんまり無理しないで。身体を大事にしてね。お父さん」

 おじさんが泣き崩れるように、おばさんの胸に顔を埋める。音葉の名を何度も呼びながら、悲しみに顔をゆがませる。

「お母さん。音葉って名前、私すごく気に入ってるんだ。ありがとう。音楽を私に教えてくれて、本当にありがとう。……お母さんには女性の先輩として、いろいろ相談に乗ってもらってたけど、実は私、今けっこう幸せなんだ。だから、私の心配ばっかりじゃなくて、お母さんもちゃんと幸せでいてよね。私が恥ずかしくなっちゃうくらい、いつまでもお父さんとラブラブでいてね」

 おばさんが嗚咽を漏らしながら、声にもならない声で音葉を呼ぶ。涙に震えながら、おじさんを抱きしめた。

 短い沈黙が走り、すすりなく声だけが場に響いた。

「音葉……もう、いってしまうのか?」

 震える声で言うおじさんに、音葉の表情が一瞬曇る。しかし、それを振り切るように小さく首を振ると、音葉は再びにっこりと笑った。

「私はもういなくなっちゃったけど。いつまでも、私の大好きな優しいお父さんとお母さんでいて欲しいな。二人が笑顔でいることが、一番私うれしいんだ。私ばっかりお願いしてズルいけど、二人とも、これからもずっと幸せでいてください」

 音葉の頬に止めどなく涙が流れ落ちる。涙の温かさが、俺の身体にも伝わってきた。

「そして、時々でいいの。私のこと思い出してね。あなたたちの娘は……音葉は、二人の子供で本当に良かった。生まれてきて、本当に良かった。……本当に、ありがとうございました」

 言い終えると同時に、音葉の放つ光が増した。その光はあまりに強く、音葉の姿をかきけしてしまいそうなほどだった。時間が迫っているのだろう。音葉は光に紛れる自分の身体を眺めながら、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。

 そして泣き崩れる両親を、惜しむようにみつめる。

 おじさんたちが声にならない声をあげる。

「それじゃあ、おとうさん、お母さん……バイバイ」

 音葉はゆっくりとした口調でいうと、笑顔で手を振った。

「音葉……音葉!」

 おじさんとおばさんが叫ぶ。しかし、音葉から溢れる光は止まらない。光は辺りを染め上げるように部屋にまばゆく広がっていった。

 音葉が、俺の身体からゆっくりと抜け出ていく。

 真っ白な光の中、音葉が宙へと昇っていく。

「音葉!」

 身体の自由が戻り、音葉に手を伸ばす。

 伸ばした手を音葉が掴むが、無情にも音葉の身体はどんどんと空に昇っていく。

「悠太、ありがとう」

「やだよ! やめろよ、そんなこと言うの……」

 音葉がみつめる。握る手に、力がこもる。

「今まで、本当にありがとう」

「なんでだよ! ずっと俺と一緒にいろよ!」

「私は……如月音葉は、宮本悠太のことが大好きです」

「音葉、俺も好きだ。……誰よりも、おまえのことが好きだ!」

 涙を拭うことも忘れ、叫ぶ。

「知ってる? 私の夢は、幼稚園のころからずっと変わらないの」

「ピアノの、先生になることだろ?」

 音葉の手を、離さないように必死に掴む。音葉がいってしまう。その焦燥だけで、心の中が一杯だった。この繋いでいる手が俺と音葉を繋ぐ最後の糸。絶対に、この手を放してはいけない。そのことだけが、俺の心の中で嵐のように強く渦巻いていた。

「それも大切な夢だったけど、一番じゃないの」

「音葉……俺は……」

 言いかけた俺の唇に、音葉の人さし指がそっとあてがわれる。

「悠太、もう泣かないで」

 お願いします産土神様、もう少しだけ待って──

 そして俺の頭を抱え込むように、音葉は最後に俺の唇に唇をあわせた。

「また、もしどこかであえることがあったら……私のことを、悠太のお嫁さんにしてください」

 涙を流しながら、音葉が微笑んだ。

 涙が、止まらない。

 音葉の身体が、光の中に昇っていく。抗えない程強い光が、音葉を飲み込んでしまう。

 そっと、絡めた指がほどけていく。

 音葉が、届かない場所へといってしまう。

「音葉!」

 音葉は微笑んでいる。叫び声も、もう届かないのかもしれない。

 その瞬間、まばゆい光が閃いた。

 目を開けていられないほどの光が辺りを包み込み、思わず目を閉じる。

 光が収まり、そっと目を開くと、音葉の姿は、もうどこにもなかった。

 月明かりの照らす静かな部屋に、音葉の感触だけが残った。



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