9

 俺たちは街のゲーセン、ショッピングモールと見て回った。

 昼飯を食った後、スイーツを所望した音葉は、ショッピングモールのフードコートでパフェを一人で食べ、さらにアイスまで食べた。

 一人で食べたとは言っても、音葉にスプーンを持たせて自分で食べろというのは、他の人から見れば、スプーンが宙に浮き、ひとりでにパフェが減っていくという怪奇現象に他ならないわけであり、それを白昼堂々、この人で賑わう休日のショッピングモールで引き起こすことは当然遠慮したい事柄であった。そうなるとどうなるかと言うと、導き出される答えはおのずと決まっており、俺がすくったスプーンから音葉がパフェを食べるということになるのだが、フードコートで一人でパフェを買って食ってるってだけでも十分恥ずかしいのに、あまつさえ女の子にあーんして食べさせてあげているという、ダブルの精神的恥辱に、思わず俺は発狂してしまいそうだった。知り合いにはこんなところ、絶対に見られたくはない。

 まあ、ダブルとは言っても他人に音葉の姿は見えていないわけだから、結果的に周囲の目に恥じるべきなのは、一人で男子高校生がパフェやアイスを食っているという事実だけなのだが。

 音葉は、そんな俺の動揺など当然気にするわけもなく、アイスの最後の一口を食べ終えると、満足気にお腹をさすった。

「うーん、まんぞくまんぞく!」

「しかし、気持ちいいくらいに良く食べるな、おまえ」

「いいんだよー、どうせ食べても太らないんだから」

「……なあ、太らないってことはさ、もう成長しないってことなのか?」

 疑問を投げかける俺の目は、自然と音葉の身体のある一部分を見ていた。

 視線に気づいた音葉が、バッと顔を赤くして、両腕で胸を隠す。

「ちょっ、なに失礼なこと考えてるのよ! ていうか私も気にしてるのに!」

「いや、別にそこをピンポイントで攻めたわけじゃ──」

「だって、完全に見てたじゃない! ひどい、最低! ……でも、どんなに食べても太らないって、やっぱりそういうことなのかなあ」

 憤慨しながらも、自分のそのささやかな胸に悲しげに目を落とす音葉だった。



 それから俺たちの足は、なんとなく市内にある神宮へと向かっていた。市の面積の約三分の一を占める巨大な神宮の、駅からほど近い外宮の鳥居を並んでくぐる。

「なんか、ここに来たのすげー久々な気がする」

 火除橋の欄干に身体を預けながら、勾玉池を眺める。池に浮かぶように造られた舞台の周りを、時期の過ぎたアヤメの葉がつつましく飾っていた。

「小学校の頃は、遠足で毎年のように来てたのにね。近いといつでも来れると思って、逆に来なくなっちゃうんだよね。それに、秋はけっこう観光客で混むし」

 音葉の言葉に、周りを覆う木々に目をやる。茂る濃緑の枝葉の中に、所々ではあるが、黄、紅とあでやかに色付き始めているものがあった。しかし、今はまだ初秋。装いを変えるのは気の早いものばかりで、最盛期を迎えるまでにはあとひと月ほどかかるだろう。

「紅葉には少し早いけどな。でも、その分人が少なくていいだろ」

 言いながら手にぶら下げていたビニール袋を開いて、紙パックに入ったからあげを取り出す。ここに来る前、途中で寄ったコンビニで買ったものだ。

 できたての湯気とともに立ち上る香りが、食欲を刺激する。

「ねえ、なんでここまで来てコンビニのからあげなの?」

「だってこれ旨いんだぜ。食ったことないの?」

「それは知ってるけど……あ、おいしい」

 口元にもっていってやったからあげにかぶりついた音葉が、ほくほくと顔をほころばせる。

「悠太、からあげ好き?」

「わりと好きかな。コンビニ行ってレジで見ると、なんとなく買っちゃう」

「今度、私が作ってあげようか、からあげ」

「えー、作れんのかよ? 揚げ物って難しいんだろ?」

「私だって、料理くらいできるんだからね……それに、けっこう上手なんだから」

 どこかふて腐れたように音葉が言う。

「じゃあ、お手並み拝見させていただきますか」

「うん、お弁当も私が作ってあげるからね」

 その言葉に、不穏なものが一瞬脳裏をよぎったが、頭を振って考えないようにする。

 そして、もう一個とせがむ音葉の口に、爪楊枝に刺したからあげを運ぶ。幸せそうにからあげをほおばる音葉が子犬のように見えて、その顔をじっと見ていると、視線に気づいた音葉が不思議そうに小首を傾げた。

「そういえば悠太、昔この池に落ちたよね」

「違うだろ? あれは落ちたんじゃない。おまえに落されたんだ」

 橋の欄干越しに池を覗き込む音葉に、突っ込みをいれる。

「落としてないよ。私はただ手を離しただけだもん。そしたら悠太がバランスくずしたんじゃない」

「そういうのをおまえが落としたって言うんだよ」

 あれは小学校低学年の時だった。学校行事でここに来ていたのだが、クラスの女の子が橋の上からハンカチを落としてしまったのだ。風に吹かれてハンカチは池の上に落ちた。それを見た音葉はなにを思ったのか、涙を流す女の子を背に俺に命令した。「とってきて」と。今考えてもなぜ俺に言ったのか分からない。まず引率の教師に報告するのが当然でありしかるべきというものだろう。しかし、その頃から既に負け犬根性の染みついていた俺は、抵抗することもできずに音葉の言葉に従った。

 水面に浮かぶハンカチまでは、池の畔から手を伸ばせばなんとか届きそうな距離で、俺は音葉に片手を掴んでもらって、身を乗り出すようにしてハンカチに手を伸ばした。必死に手を伸ばし、あと少しで指先が触れそうだというその時、不意に身体が宙に浮いた。音葉が俺の手を放したのだ。急に支えを失った俺は、空中できれいな一回転を決め、見事に池にダイブした。底の浅い池だったので、溺れるというようなことはなかったが、全身ずぶ濡れ。泥だらけになった俺は、引率の教師にしこたま怒られた。上手く教師の説教から逃げおおせた音葉になぜ手を放したのか聞くと、「だってカエルがいて恐かったんだもん」としれっと言ってのけたのには、開いた口がふさがらなかった。そして俺は帰ってから母さんにまた怒られ、次の日から熱を出し、風邪で一週間学校を休んだ。まったくろくでもない思い出だ。

「ちゃんと悪いことしたって思ってるよ。だから毎日お見舞いにだって行ってあげたじゃない」

 音葉が頬をふくらませて抗議する。

 確かに俺が寝込んだ一週間、音葉は毎日学校帰りに俺の家にやってきた。

 音葉は毎回ランドセルからチョコレートとかクッキーとかのお菓子を取り出すと、熱でうなされる俺の口に無理やりそれを押し込んだ。正直、熱で味など分からず、とりあえず入れられたものに口をもごもごやっていると、音葉はベッドの横で満足気に笑っていた。それから音葉は、必ず俺のおでこをペチペチと二、三回叩いた。たぶん熱を計っているつもりだったのだろうが、音葉のひんやりとした小さな手が火照った肌にとても気持ち良かったのを覚えている。そして、そのまま手をおでこから頭へと動かし、音葉は俺の頭を優しく撫でた。撫でながら、今日学校であったこととか、どうでもいい話を一人でしゃべり続けた。ゆったりと包まれるような感覚を味わいながら、俺は音葉の声を子守唄に心地よい眠りに落ちていく。一週間、毎日そんなことが繰り返された。

 あとから姉さんに聞いたのだが、音葉は母さんたちが「風邪がうつるから」と止めるのも聞かず、お見舞いに来てくれていたらしい。音葉なりに、風邪をひかせたという責任を感じていたのかもしれない。音葉に俺の風邪がうつったら、同じようにお見舞いをしてやろうと考えていたが、結局その風邪が音葉にうつることはなかった。

「それにしたって割に合わないだろ。見舞いくらいじゃ」

「もお、いつまでそんな昔のことネチネチ言ってるの? あんまりしつこいと女の子に嫌われるよ?」

「って、そもそもおまえが言い出したんだろうが!」

 もうこの話は飽きたとばかりに渋い顔をする音葉に、俺はまた突っ込みを入れた。



「今日は、楽しかったね」

 帰り道。

 駅を出た俺たちは、すぐに家に帰るのがなんだか惜しいような気がして、少しだけ遠回りした。

 誰もいない、街はずれにある公園の遊歩道を歩いていたとき、それまでずっと黙っていた音葉が不意にそんなことを言った。

 楽しかっただなんて、音葉が俺に対して素直な気持ちを口にするのはとてもめずらしい。

「どうした? そんな改まったこと言って」

「うん、ちょっとね」

 音葉が後ろ手を組んで空を見上げる。街には夕闇が押し迫っていた。太陽が空の果てに、放射状の雲を引きながら沈んでいく。輝くオレンジ色の夕焼けと、頭上を覆う夜の深い紫が西の空にせめぎ合う。

「音葉?」

 黄昏の暗闇に顔が陰り、なぜか胸騒ぎを覚えて傍らの少女の存在を確かめる。 

「……今日は、うれしかった。悠太とデートして、恋人どうしみたいに過ごせて、ホントにうれしかった」

「なに言ってんだよ、今さら。こんなの、今まで何度もしてきたじゃないか。おかしなやつだな」

「そうだね。そうだよね……うん、そう。だから、私はもう満足だよ」

「…………」

 音葉が言い聞かせるように、自分自身を納得させるように、なんども頷く。しかし、音葉の表情は見えず、俺は言葉に窮した。

「ねえ、悠太。もう一つだけお願い、聞いて欲しいの」

 トクンと、心臓が早鐘を打った。音葉のその言葉に、見えない表情に、身体が警鐘を鳴らしていた。

 今までのお願いとは違う。もう一つだけという限定される言葉に、重く、とても飲み下すことのできない不安が生まれる。

 次は、もうないのだろうか。

 胸が焼けるようにまとわりつく不安が、普段ではあり得ないような深読みをさせ、さらに不安を募らせる。

「な、なんだよ? またケーキでも食べたいのか?」

 音葉が、少し笑ったように見えた。

「私ね、お父さんとお母さんのこと見てから、ずっと考えてたんだ。なんで私が、死んでもこの世に残っているのか……」

「俺の、守護霊だからじゃないのか?」

 日が沈む。

「分かったかもしれないんだ、私。……最後の別れをみんなに言いたかったんだよ、きっと。だから神様が、その願いを叶えるために、特別に私をここに居させてくれてる……猶予をくれてるんだよ」

「それって、どういうことだよ?」

 最後の別れを言うためにって、願いを叶えるためにって……

 それじゃまるで、その願いが叶ったらおまえは……

「おまえは俺の、守護霊なんだろ?」

 星がまばらに輝きだす。

 音葉の顔が見えない。

 冷たい夜風が、身を切りつけた。

「ねえ、私の願い……聞いてくれないかな?」

「質問に、答えろよ」

「…………」

 音葉が黙る。

 なんで答えないんだよ? どうして答えてくれないんだよ?

 いつも通り、笑って言えばいいじゃんかよ。いつもみたく俺をバカにして、「悠太は心配性だなあ」って、「ただ、あいさつしに行くだけだよ」って、笑えばいいじゃんかよ!

「最後の別れをしたら、その願いが叶ったら、おまえは一体どうなるんだよ?」

「悠太、私……」

「質問に答えろよ!」

 声を荒げた瞬間、並ぶ街灯が一斉に明かりを灯した。暖色のまばゆい光が、スポットライトのように音葉の姿を照らし出す。

 音葉は、泣いていた。

「なんでだよ、なんで泣いてんだよ……なんで急にそんなこと……」

 音葉の涙に思わず言葉が詰まり、二の句を告げなくなる。

「急じゃないよ。ずっと、ずっと思ってたし……神宮でも、お父さんたちのこと願ったの」

 はらはらと涙を流す音葉に、立ちつくすことしかできなかった。頭にのぼった熱が一気に冷めていき、代わりに異様な寂しさと後悔が、身体を蝕むように駆け抜ける。

「やっぱりね、もう死んじゃってる私がここにいるっていうのは、おかしいことなんだよ」

 音葉が涙を拭い、無理やりに笑顔をつくる。

「……消えるって、いうことなのか?」

 死ぬっていうことなのかという言葉を強引に飲み込み、口にできたのがその言葉だった。

 音葉が顔を伏せる。隠しきれない苦悩がありありと感じ取れるほど強く結んだ口と、強張った肩が震えている。

 堪える音葉の姿を見ていると、さっきまで見せていた音葉の笑顔が、どこか乾いたものに思えて仕方なかった。

「俺は、俺はどうなるんだよ?」

「お願い、私だって私だって……」

「弁当作ってくれるって、言ったじゃないか」

「ごめんね。ウソ、ついちゃった」

 俺は落胆して、肩を落とした。膝からくずおれてしまいそうなほど、その言葉は俺の中に冷たく響き渡り、心に空虚の穴を生んだ。

「……俺は、あのとき音葉とキスをして、もうただの幼馴染みじゃないんだって思った。……恋人同士みたいじゃない。音葉は俺の彼女なんだって、思った」

「うれしい」

「じゃあ、どうしてそんなこと! 俺のこと、どうでもいいって言うのかよ!?」

 音葉が首を横に振り、悲しそうな瞳で俺を見る。

 やめてくれ。

 やめてくれよ、そんなめで見るのは。まるで俺が悪いみたいじゃないか。俺がわがままを言って、音葉をいじめて悲しませているみたいじゃないか。

「……お父さんもお母さんも悠太も、みんな、みんな大事なんだよ。どっちの方が大事とか、どっちを選ぶとか……そんなのできないよ」

 俺は……俺は、なんてひどい選択を彼女に強いているのだろう。

「好きよ、私は悠太のことが本当に好き。でも……でもね、お願い、助けてよ。もう、私のせいでお父さんとお母さんが傷ついていくの、耐えられないの」

「好きとか……なんでこのタイミングでそんなこと言うんだよ」

 初めて、俺のことを好きと言ってくれた。

「ごめんね、悠太」

「やだよ……絶対に、やだよ」

 昔からずっと変わらない。音葉は自分勝手でわがままで、他人に優しくて、まっすぐで、誰かが泣いていると黙っていられなくて、俺のことなんてちっとも考えてなくて……でも、俺と音葉は、いつもずっと一緒だったのに。

 うつむいた俺の身体が、不意に優しく包み込まれる。感じた温もりに顔を上げると、音葉に抱きしめられていた。

「大丈夫だよ。私と悠太は、産土神様の糸で繋がってるんだから。どんなに離れても、私たちはいつまでも一緒だよ」

 音葉が涙の残る瞳に優しい笑みを浮かべ、小指を立てて見せる。

 しかしその声も微笑みも、夜の寂しさに溶け入ってしまいそうなほど細く、弱々しく。まるでその儚さは時期外れに降る尚早の粉雪のようで、俺は音葉を抱きしめ返さずにはいられなかった。

「ずるいよ、おまえ」

 いつだってそうだ。俺は結局、音葉には逆らえない。

 今なら分かる。俺は、音葉のことが好きだから、他人想いで、優しい音葉が大好きだから。だから、音葉には逆らえない。

 音葉の小さな頭にそっと顔を擦り寄せると、音葉は俺の腕の中で「エヘヘ」と照れくさそうに笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る