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「明日は出掛けるからな」と言った俺の言葉をどう勘違いしたのかは知らないが、音葉はその日、えらく気合いの入った格好をしていた。
淡いパステルカラーのティアードワンピースにゆったりめの黒のジャケット。足下は、丈の短いワンピースに合わせて、ヒールの高いロングブーツで決めていた。アクセサリーこそ付けていないものの、その出で立ちはとても年相応とはいい難い、大学生かOL風のファッションだった。
思わず「おぉ……」と、なんとも曖昧な嘆息をもらした俺だったが、音葉が上機嫌だったのでそれ以上言うことはなにもなかった。
しかし、どこかで見たことがあるような格好だと思ってしばらく音葉を眺めていると、やがて合点がいった。
この間姉さんの部屋から持ってきてやった雑誌のモデルが着ていたのがこんな服装だった。
昨日の夜、やたら穴が空くほどに雑誌を眺めていたのはこのためだったのか。
……女物のファッション誌なんてどれも同じだと思っていたが、それなりに違いがあるらしい。なにが違うのかはいまいちよく分からないが、それはきっとコロコロとジャンプくらいの違いがあるのだろう。
一つまた勉強になった。そして、今度は音葉の言っていたno○noとかいう、いやに丸の多い雑誌を買ってやろうと心に決めた。
いや、別に音葉はスタイルが悪くないので、決してこういった服装が似合わないわけではないのだが、妙に大人びた音葉を隣に歩くのが、どこか気恥ずかしく感じられたのだ。
それに出掛けるとは言ったものの、そう大したところへ行くわけでもなく、音葉のその張り切りように申し訳なくなった。ハナから行く場所を教えておけば良かったと、サプライズっぽくしてやろうなどと少し気取ってみたことを後悔する。
出掛け、「それで、結局どこに行くの?」と音葉が訪ねてきたが、ここまで来て今さら教えるのも癪だったので、結局目的地は伝えないまま家を出た。
土曜日の午前中。さわやかな秋晴れの広がる空の下を歩く。
隣には、鼻歌交じりの音葉。
先日、音葉の両親の姿を見て。娘をなくし、幸せの在りどころを失った夫婦を目の当たりにしてこんなことを思うのは最低かもしれないが、俺の隣には音葉がいてくれる。それだけでとても幸せなことのように感じていた。たとえどんな形であっても、音葉がいてくれるだけで、俺は絶望せずにいることができる。
移動にはめずらしく電車を使った。
四両編成の在来線に乗り込み二駅。駅から出てすぐのところが目的地だ。
「市民ホール?」
到着した建物を見上げて音葉が不思議そうな顔をする。
市民ホールの周りには、たくさんの人が集まっていた。
しばらく頭を捻っていた音葉だったが、やがて思い出したようにハッとする。
「悠太、もしかして──」
「宮本くーん!」
音葉が言いかけたそこへ、聞き覚えのある声に呼ばれて振り返る。
ツインテールを左右に揺らしながら、とてとてと駆けてくる背の小さな女の子の姿。制服姿の三國さんだった。
手を振る三國さんに、軽く手を振り返す。
「おはにゃーちです」
「お、おは、にゃ?」
駆けてきて早々、三國さんは手を挙げて元気に謎の言葉を発した。意味不明な言葉に思わず困惑していると、音葉が耳打ちするように「おはようって意味よ」と教えてくれた。
おはよう? おはにゃーっちって挨拶だったのか。今の女子の間では、そんなセンセーショナルな言葉が流行っていたのか。全く知らなんだ……
そんな、今時の流行に驚きと感銘を受けていると、
「ちなみに、おはにゃーちってのはありすが勝手に作った言葉で、全然流行ってるわけじゃないから」
付け加えるように音葉が釘をさした。
……危なく、週明け宗介に使うところだった。
首を傾げながらも、期待を込めたまなざしで三國さんが見つめてくる。その瞳に宿る純真な光には、裏切ることの許されないなにかと、決してあらがえない強制力があった。
「お……おはにゃーち」
観念した俺は、ひきつった笑みで、ぎこちなく片手を上げた。
「はいです、今日は来てくれてありがとうです!」
「三國さんこそ、メールくれてありがとうね」
「いえいえです。本当は、音葉も一緒に歌うはずだった合唱コンクールなので、宮本くんにもぜひ聞いて欲しかったんです。誘ってみてよかったです。それと、ありすって呼んでくださいね」
「メール? いつの間にアドレス交換なんてしてたの?」
驚く音葉に、俺は密かにほくそ笑む。
甘いんだよ、音葉。四六時中俺の側にいるからって、俺の行動全てをお見通しだと思うなよ? 俺だっておまえの見てないところでやることはやってるんだぜ。主におまえが暇過ぎてうたた寝してるときとかにな!
「三國さん、テスト前もがんばって練習してたもんね」
「はいです。うちの合唱部は練習が厳しいので。あと、ありすって呼んでくださいです。それに、合唱の後には音葉がピアノの演奏をする予定だったのですが……」
「そうなんだ。音葉、ピアノうまかったからな」
「…………」
音葉をちらりと見る。音葉は特に気にもしていないようだったが、沈黙が流れ、少し気まずい空気だったので、話を元に戻す。
「三國さんたちは、何番目に歌うの?」
「はいです、ありすたちは一番最後です。だからそれまで寝ちゃダメですよ。それから、ありすって呼んでくださいね」
聞いた話でしかないのだが、綱櫛高校の合唱部はかなり名を知られた有名どころで、過去何度もの優勝経験があるらしい。去年のこのコンクールの優勝も綱櫛高校だったらしく、それ故のトリということなのだろう。
「あはは、そうだね。ちゃんと三國さんの歌を聴くまで起きてるようにするよ」
「あ、ありがとうございますです。でも、ありすって……」
三國さんがなにか言うが、最後の方はどんどん尻すぼみになってほとんど聞き取れない。
「あ、それから三國さん──」
と、続けたところで思わず口をつぐむ。
見ると、三國さんは黙ったまま、怒ったように視線を下に向けていた。頬をぷっくりと膨らませ、目に少し涙をためている。それは気に入らないことのあった子供が、大人に反抗する時に見せる表情のようだった。
三國さんのその様子に、俺はひどく動揺した。
なぜだ? なぜそんなにそこに固執するんだ? 今までせっかく流し続けてきたのに。名前で呼ぶなんて、そんなに三國さんとは親しい間柄でものないのに、違和感満載じゃないか。
しかし、これを拒否することはとてもできそうにない。もう泣き出してしまう寸前の三國さんに意を決する。
「あー。あ、ありす……ちゃん?」
「はいです!」
俺のその言葉を聞いたとたん、三國さん……いや、ありすちゃんはきらきらと輝く満面の笑顔で返事をする。
「いや……ありすちゃん、がんばってね」
「はいです! 音葉の為にもありす、一生懸命歌いますです!」
小さな拳に力を込めるありすちゃん。
と、「三國さーん」と建物の前に集まる集団の一人が、大きく手を振ってありすちゃんのことを呼んだ。
綱櫛高校の生徒だ。合唱部の部員なのだろう。ありすちゃんは、自分が呼ばれたのに気付くと、
「ごめんなさいです。もう時間みたいです」
申し訳なさそうにしながら、「ちゃんと聴いていってくださいね」と言い残すと、きびすを返して集団の方へ駆けて行った。
言動も挙動もかわいらしいから許せるけど、ありすちゃんってやっぱり変わった子だなあ。などと思いつつ、去っていくありすちゃんの背中を見送っていると、
「あ、コケた」
なににつまずいたのか、顔面から勢い良く地面に突っ込んだ。思わず駆け寄ろうとするが、ありすちゃんはすぐに身体を起こすと俺を振り返り、頭をかきながら恥ずかしそうにテヘヘと笑った。そして手を振りながらまた駆けていき、他の部員の子と楽しげに話をしだした。
「他の子とも、仲良くやってるみたいだな」
「そうね、少し安心した。あの子、この前の時は部活やめちゃいそうな雰囲気だったから」
つぶやくように言った俺に、音葉が静かに応える。
「でも、まさか悠太がここに連れてきてくれるとは思ってもみなかったなー」
「ありすちゃんが昨日メールで誘ってくれたんだよ。音葉も来たいかなと思ってさ」
「へー。悠太、ありすに気に入られてるみたいだね」
「え、そうなのか?」
俺が首を傾げると、音葉はいたずらっぽく笑い、
「さっき、向こうの子がありすのこと三國さんって呼んでたでしょ?」
建物へと入っていく合唱部の集団を指さす。
「悠太は戸惑ってたみたいだけど、ありすって、別に誰にでも名前で呼ばせてるわけじゃないんだよ。私が知ってる限りだけど、私以外にありすのこと名前で呼んでる人って見たことないな」
「……俺、なんか気に入られるようなことしたっけ?」
「知らない。最初会ったときから言ってたからね、ありす」
よく分からないが、気に入ってくれたというのなら悪い気はしない。しかし、女の子の名前を呼ぶというのはなぜこんなにも緊張するのだろう。
親戚と音葉以外女の子の名前を呼んだの、初めてだったかもしれない。
それから会場に入り、まもなくしてコンクールが始まった。
開演から二曲、いい気持ちになりながら合唱を聴いていたのだが、なぜか不思議なことに、その後の記憶が全くなくなっていた。気づいたときには最後の曲、うちの高校の合唱部がちょうど歌い始めるところだった。
一体なぜなんだろう。間の記憶がごっそりとぬけ落ちている。これはタイムスリップか、タイムリープか、はたまた時間喪失か。俺は、口から垂れる涎を拭いながら、自分の身に起きたこの怪奇現象に首を傾げた。
その後、プログラムは滞りなく終了した。
さっさと帰ろうとホールを出ると、エントランス付近でありすちゃんの姿を見つけた。呼び慣れない名前で声をかけると、ありすちゃんは笑顔で応じてくれた。
「寝ないで聴いていてくれましたか?」
「ちゃんとありすちゃんの歌、聴いたよ。優勝おめでとう」
「ありがとうございますです!」
俺の言葉に、満面の笑みを浮かべるありすちゃん。
うん、嘘は言ってない。ちゃんとうちの高校の歌は聴いてたんだから、卑屈になる必要はないぞ、俺。
それからありすちゃんと別れ、駅に向かって歩いている時だった。不意に音葉が、なにかに目を奪われているのに気づいた。
音葉の視線をゆっくりと追う。
音葉の見ていたのは、街を歩く親子連れの姿だった。小さな女の子を真ん中に、両親が左右の手を繋いでいる。どこにでもあるような、ほんの些細な幸せの光景。
その様子を眺める音葉を見て、この間のおじさんとおばさんの姿が脳裏に蘇った。
静かな音葉の表情には、一抹の寂しさのようなものが感じられた。
「よし、これからどこか遊びに行くか」
「え? 遊びにって、どこに?」
「どこだっていいだろ? どうせ帰ってもやることないんだから」
「それはそうだけど……」
「いいから行こうぜ」
突然言ってきびすを返す俺に、音葉は呆れたような表情を見せた。しかしそれからはなにも言わずに、だまって俺の後をついてきた。
そっと後ろ振り向くと、にこやかに微笑む音葉の姿があった。
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