7

 痛む頬をさすりながら、階下へと向かい階段を下りているときだった。

 不意に、耳をつんざくような金切り声が響いた。ついで、ガラスの割れる音。

 この静かな住宅街の夜にあまりにも似つかわしくない異音に驚き、思わず音葉と顔を見合わせる。

 狂気のこもる悲鳴と砕けるガラス、その発生源はかなり近い場所のようだった。

 と、「──お母さん?」一瞬遅れて青ざめた音葉が、怯えるように声を漏らした。

 その言葉を聞いた俺は、すぐさま階段をかけ降り、靴に足を無理やり突っ込んで外へ飛び出した。

 門扉を勢いよく開け、隣の音葉の家を見ると、ちょうど人影が外に出てくるところだった。

 人影はこちらに気づく様子もなく、足早に街路灯の向こうへと去っていってしまう。

「お父さん……」

 つぶやく音葉が悲しそうに、その小さくなっていく人影を見つめる。しかしすぐに、

「お母さんが心配だから、お願い」

 懇願する音葉の言葉に頷き、音葉の家へと向かった。

 インターホンは押さずにそのまま門扉をくぐって、庭を抜ける。玄関の扉を叩き、声をかけるが反応はなかった。

 扉に鍵はかかっていなかったので、そっと開けると、中は真っ暗だった。玄関からリビングへと続く廊下の先を見ても、明かりの一つも灯っていない。

 手探りで玄関を上がり、薄暗い廊下を進む。家の中は、静まり返っていた。人のいる気配が全く感じられない。

 音葉は、不安を隠しきれない様子だった。

 廊下の最奥に至り、月明かりの漏れるドアを開ける。

 目の前に、広いリビングが広がった。庭に面する窓は開け放たれ、そこから降り注ぐ月明かりが、室内をぼんやりと照らし出している。

 窓が割れていた。庭に散った無数のガラス片が月影に輝き、サッシ戸に残った破片が危う気な恐怖を誘う。放棄されたように、一台のイスが庭に転がっていた。

「悠ちゃん?」

 不意に声をかけられ、心臓が跳ね上がる。

 反射的に声を振り返ると、そこにはおばさん──音葉の母親が立っていた。

 おばさんは部屋の片隅に立ち、目の前にあるピアノを愛でるようになでていた。

 音葉が、よく弾いていたピアノだ。

 しかし、よくよく見るとピアノの鍵盤は一部破損し、全体にも無数の傷が付いていた。

 月明りに照らされて、蒼白した顔のおばさんが力なく笑う。

「なんだか、悠ちゃんの顔を見るのも久しぶりね。音葉の葬儀のとき以来かしら?」

 おばさんは以前より痩せて、ずっと小さくなってしまったように見えた。背負う影が、ひどく痛々しい。

「あのときはすみませんでした。俺、取り乱しちゃって……」

 火葬場でのことを思い出し、頭を下げる。

「いいのよ。むしろ感謝しなくちゃ。悠ちゃんがああしていなければ、きっと私がおかしくなってしまっていたわ」

 おばさんは、努めて優しく告げながら、ゆっくりと窓際へと歩いて行く。そして窓淵に腰をかけると、見るともなしに庭を眺めた。

「さっき、おじさんが出て行くのをみました」

 言った俺の言葉に、おばさんの背中が震える。

「そう、恥ずかしいところを見せてしまったわね」

 割れたガラスの残るサッシ戸に、おばさんが身体を預けた。危ないと思ったが、おばさんはなんとも感じていないようで、また、なんにも見ていないようだった。

「ダメね。音葉がいなくなってから、まだひと月も経ってないのに……。私たちは、こんなありさま」

「…………」

「ねえ、音葉って、良い名前でしょ?」

 庭に植えられた一本の木をおばさんが見上げる。

「私がつけたのよ。私が音楽が好きだから、あの子にも音楽をやってもらいたくて。人が言葉で繋がりを築いていくように、音楽で人の心との繋がりを築いていって欲しいと思って付けた名前だったんだけど。その願いとは裏腹に、あの子は木の葉のように儚く、その命を散らせてしまったのね……」

 静かな風が吹き、無数の木の葉が舞い落ちる。

 昔、あの木で音葉と良く遊んだっけ。木に登って、おじさんに怒られたこともあった。庭を駆け回ったり、ピアノを弾いたり、おばさんの作ってくれたケーキを食べたり──

 ここにはたくさんの思い出が、音葉と過ごしてきた時間がある。

 なのに今のこの家には、音葉の記憶も思い出も、もはや見る影もない。

「ごめんね悠ちゃん。しばらく、一人にさせて欲しいの」

 おばさんは、こちらを振り向くことはなかった。

 あの優しかったおばさんが。

 かける言葉などあるはずもなく、黙りこくる音葉を無言で促し、俺はリビングを出た。

「私って、最低の親不孝者よね。親を悲しませて、両親の関係までこんなにズタズタにしてしまって……でも、私ってすごく幸せ者だったんだ」

 自分の家を振り返りながら、音葉がつぶやくように言った。

 家に戻ると、玄関先で姉さんが待っていた。

「音葉ちゃん家、行ってきたんでしょ?」

 頷く俺に、姉さんは沈痛な面持ちで、「おじさんとおばさん、どうだった?」と聞いてきた。

 おじさんがどこかへ歩いて行ってしまったこと、おばさんが部屋で一人きりでいたこと、そして部屋の様子。見てきたありのままのことを伝えると姉さんは、「そう」と悲しげに目を伏せた。

「おじさんとおばさん、音葉ちゃんが亡くなってからずっとあんな調子なの。喧嘩が絶えないみたいで、おじさん、もうほとんど家に帰ってないみたい」

 音葉は無言で姉さんの話を聞いていたが、うつむき、居心地が悪そうにしていた。

「私たちじゃどうすることもできないけど、なんか……悲しいよね」

 姉さんは、噛みしめるようにつぶやいた。

 ──どうすることもできない、か。

 部屋に戻り、ベッドに身を投げながら、姉さんの言葉を反芻する。

 音葉は、窓から自分の家を心配そうに眺めていた。

 明かりのつかない、真っ暗な音葉の家を。

「音葉、どうするんだ?」

「……うん」

 ひどく曖昧な俺の問いかけに、音葉は心ここにあらずといった様子で答えた。もしくは、あまりにも困惑し、迷い、答えを見つけかねていたのかもしれない。 

 音葉の背中を見つめる。

 どうすることもできない。その通りだと思った。

 俺には音葉を抱きとめることはできるかもしれない。でも、それは問題の解決にはなり得ない。どうにかできるのは、きっと俺じゃない。

 時間だけが過ぎ去り、いつしか俺はそのまま眠りに落ちていた。

 それからしばらく、このことについて音葉がなにかを口にすることはなかった。

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