6
家に着き、目を覚ました音葉は、それはもう怒っていた。激昂というか、烈火のごとくというか、はらわたが煮えくり返るがごとくだった。
そして、ここのはがいつの間にか部屋からいなくなっていた。たぶん逃げ出したのだろう。本当にあいつは頭の良い猫だ。
まず最初に音葉は俺を床に正座させると、「さっきのあれは一体なんだったの?」と怒り口調で聞いてきた。
一体もなにも、音葉もずっと隣で見ていた通りのことなのだが、とりあえず「スミマセンでした」と謝っておく。すると今度は、
「そうじゃないでしょう? なんでさっさと断らなかったのかって聞いてるの」
だったら最初からそう聞いてくれよ。一体なんだったの? じゃ全然理解出来ないだろうが。
「だって、しょうがないだろう、あの状況じゃ。おまえは死んじゃってるんだから。音葉とは生前はなにもありませんでしたが、幽霊になってからはそこそこ進展もありましたのでごめんなさい。なんて言えるわけないし」
「そういう問題じゃないの! なんでもっとはっきり断ってくれなかったのよ!」
うわ、ただの感情論かよ。
「なんで井口陽菜子のおっぱいなんてさわったのよ! あんなの簡単に拒否できたはずでしょ!?」
簡単にって……だってあれ、いきなりだったし。
「おっぱいくらい、言えば私のいくらでもさわらせてあげるのに! なんでなの? なんで……あんな大きいのがいいの?!」
言ったらさわらせてくれるのかよ!
と、半泣き状態の音葉に、なにも返せず言われ放題だったが、確かに井口さんの胸はデカかった。音葉のとは違う、存在感というか、胸をさわっているんだという実感が違いすぎた。
「もう、信じらんない! 井口陽菜子なんかにデレデレしちゃって」
言われて、あの感触を思い出して緩みそうになった頬をギュッと引き締める。っていうか、どんだけ井口さんのこと嫌いなんだよ、おまえ。
「いや、だからゴメンって。さっさと断らなかった俺が悪かったよ」
「なによ、そんなこと言って。高校に入ってから、他の女の子にばっかり優しくしてたくせに。私のことはずーっと無視してたくせに!」
「いや……だから、それはもう──」
拳を握りしめる音葉の目から一筋の涙が伝う。
あ、これマズイ。マジでマズイ感じのやつだ。
「分かった。もしかしてそういうことのな? 私みたいな幽霊より、やっぱり生きてる普通の女の子の方がいいのね? そうなんでしょ!?」
……まあ、それは生きてるに越したことはないけども。そんなことを言われたらもうなにも言えないだろう。というか、もはや時系列がぐちゃぐちゃだな。
「違うよ、そんなことないって。俺は、音葉がいれば全然それでいいから」
とりあえず言ってはみたものの、焼け石に水だったようで、
「悠太はいつだってそう。すぐに適当なことばっかり言って、口先だけで謝るのやめてよ!」
悲鳴にも似た叫びを上げて、音葉が背中を向ける。
だったら一体どうしろっつーんじゃ!
……背中を向けた音葉は、泣いていた。押し殺した嗚咽とともに、肩が小さく揺れる。
──音葉って、自分が死んだときも、身体が火葬されたときでさえ泣かなかったのに……こんなことで、弱くなっちゃうんだな。
そう思ったとたん、得も言われぬ後悔と、情けなさが身体を蝕んでいく。
「まったく……」
俺は頭を掻きながらゆっくり立ち上がると、背中を向けたままの音葉の元へ歩きだした。
そして、そっと音葉を抱きしめる。
出来るだけ優しく、寄り添うように抱きしめる。
しかし、夜まではまだ時間が早いようで、音葉に触れることは叶わなかった。
それでも俺は、音葉の髪に顔をすり寄せるようにして、
「悪かったよ。寂しい思いさせて」
ありうる限りの後悔と、謝罪をこめてそう言った。
俺の言葉を聞いた音葉の頬に、さらに涙が伝う。
「本当に……本当にそう思ってる?」
「思ってる」
答える俺に、音葉は「じゃあ、じゃあ──」と涙の溢れる目を必死にこする。
「──好きって、言って」
「へ?」
思わず変な声を上げてしまった俺に、音葉はまた機嫌を損ねたようで、
「いいから、私のこと好きって言って」
少し強い口調で繰り返した。
好きなんて、音葉のことを好きだなんて言ったの、たぶん幼稚園のとき以来だよな。よく覚えてないけど。
音葉がじっとこらえるように目をつむる。組んだ指を、落ち着きなくいじっていた。
もう、どうやっても逃げられない。
音葉からは、絶対に逃げられない。
沈む夕日に照らされて、部屋はきれいな茜色に染まっていた。
大きなため息を一つして、馳せる心を落ち着ける。
唇を耳元に近付けて、そっとささやいたその言葉に、音葉ははにかむように、幸せそうな笑顔を見せた。
そして、音葉が振り返るように唇をこちらに向けてくる。俺は、なにも言わずにそれに応じた。
しかし、夕暮れに交わしたそのキスは、音葉の唇をそっとすり抜けていった。
いちゃつくという行為を、生まれて初めてしたような気がした。
公園とかに行くと、よくカップルがいちゃついていて、「死ねよこのリア充が!」とか日常的に思うのだが。実際自分がそのいちゃつくという行為を経験してみた結果、やはりリア充は滅びるべきだと判断した。あいつらは、はっきり言ってこの世の害悪でしかない。
とまあ、そんな俺のひねくれた価値観はさておき、音葉の機嫌が直り、夕飯も食い終わってなんとか人心地がついたところで、井口さんから携帯にメールがきた。
音葉の目の前でそれを開くのは、怒りを蒸し返すことになるのが目に見えていたので、俺のプライベートルーム。すなわちウォータークロゼットことW・Cで中身を確認する。
『今日はいきなり変なことを言ってしまってごめんなさい。宮本くんが如月さんのことを好きだったっていうのはよく分かりました。
でも、私だってそれに負けないくらい宮本くんのことが大好きだから。それだけ分かってもらえるとうれしいな。
……私はずっと待ってるから。今はお友達でもいいから、一緒にいさせてください。
P.S. クッキーおいしいかったって言ってくれてありがとう。私、料理するのが好きだから、迷惑じゃなかったらまたなにか作らせてね♪ 陽菜子』
陽菜子かわいいなー。マジかわいいなー。こんな良い子他にいないよー。音葉が取り憑いてなかったら確実だったわー。
などと一人で身悶えていると、ドンという鈍い音がドアから響き、そうそうにズボンを上げる。
おーこわ。ポルターガイストだよ。
外で待つ音葉がドアを蹴りとばしたのだろう。なにやら嫌な殺気のようなものを感じる。
「えっと、今日は俺の方こそゴメン──」
そそくさとメールを返信し、俺はトイレを後にした。
『今日は俺の方こそゴメン。なんか中途半端な形にしちゃって。さっきは急に地球がフォトンベルトに突入して、どうしても帰らなくちゃいけなかったんだ。実は、俺が挙動不審な行動を取ってしまったのも、全部フォトンベルトのせいなんだ。
上手く返事出来なかったけど、井口さんに好きって言ってもらえて、ホントにうれしかったよ!
料理が好きなら、今度はお弁当とか作って来てくれるとうれしいな』
トイレを出た瞬間、俺は音葉に殴られた。
いきなり顔面に強烈なストレートを放ってきた理由を聞くと、音葉は短く「女の勘」と答えた。
まったく、女とは恐ろしい生き物である。
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