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 後ろは振り返らなかった。

 駅のロータリーから商店街を抜けて、街のはずれの公園まで走ってきたところで、「悠太、もう大丈夫だよ」という音葉の声を聞いてやっと足を止めた。

 ここまで全力で走ったのは久しぶりだ。乱れきった息を無理やり整えていると、

「あ、あの。……宮本、くん?」

 同じく乱れた息の井口さんの声に振り返る。

 結局、ここまで引っ張ってきてしまった。井口さんは片手にカバンを握りしめながら、必死に荒れた息を抑えていた。額には、うっすらと汗が浮かんでいる。

 と、井口さんの手を握りっぱなしだったのに気づき、慌ててその手を離す。

「あ、あの……ごめん。勝手なことしちゃって」

「ううん、本当にありがとう。私、知らない男の人にあんなふうに話しかけられたの初めてで。すごく恐くて……」

 井口さんの強ばった表情が、安心したように緩む。と、井口さんはヘナヘナと膝から崩れ、その場に座り込んでしまった。

「だ、だいじょぶ?」

「ごめんなさい。ホッとしたら、なんだか力が抜けちゃった」

 俺を見上げながら、井口さんは少し恥ずかしそうにエヘヘと笑った。



 隣に座る井口さんが、缶ジュースのプルタブを開けるのに苦戦していたので、代わりに開けてあげてからそれを手渡すと、井口さんははにかみながら「ありがとう」とジュースを両手で受け取った。

 結局、腰を抜かした井口さんはしばらく動けそうになかったので、公園のベンチまで肩を貸して移動し、とりあえず自販機でジュースを買ってきたというのが今の状況だ。

 ジュースを買う際、後ろで音葉が「そこまでしなくていいんじゃない?」とか、「私にはそんなにやさしくしてくれないくせに」とかぼやいていたが、それは大きな間違いである。そもそも、自分で井口さんを助けろって言ったくせに、今さらなにを言ってるんだ。

「助けてくれて、ありがとうね」

 ジュースを一口飲んでから、井口さんが改まって言った。

「いや、いいよ。それに、もっと格好良く助けられれば良かったんだけど……」

「あはは、二人ともガチガチだったもんね」

「だって、スゲー恐かったしさ、アレ」

「私も恐かったー」

 ころころとおかしそうに井口さんが笑う。

 井口さんって、こんなに笑ったりする子だったんだな。普段はおとなしい印象しかなかったので、その笑顔はとても新鮮だった。

 頬の下まで伸びた黒髪が笑い声に合わせて揺れる。

 決して派手さはないが、そぼくで控えめなかわいらしさを持つ井口さんの身体は、音葉以上に細く、華奢で、男ならば守ってあげたいという庇護欲をかき立てられるのは間違いないだろう。

 しかし、その細い身体に似つかわしくない大きな胸が、それにも増して男の視線を引きつけた。

 あまり意識して見たことがなかったけど、井口さんってかなりかわいいよな。

「井口さんって、電車通学?」

「うん、二駅だけだけどね。私となり街に住んでるんだ。宮本くんは、この辺に住んでるんでしょ?」

 井口さんはベンチから垂らした足を、子供のようにブラブラと揺らしていた。細い太ももを包む、黒タイツの輝きがまぶしい。

 それからドラマの話とか、テストの話とか、これから始まる文化祭話とか、本当に取り留めのない話を二人でした。

「なんか、こういうふうに宮本くんと話すのって、初めてだね」

「あー、そうだな。今まで関わることあんまなかったからなあ」

「……今日は恐かったけど、ちょっと良かったかも」

「? なにか言った?」

 つぶやいた井口さんの言葉が聞き取れなくて聞き返すが、井口さんは「なんでもないの」と大きくかぶりを振るだけだった。そしてうつむき、両手で握るジュースの缶を睨むように見つめだした。

「ねえ、宮本くん。こんなこと聞くの、無神経だと思われるかもしれないけど……」

 目線を落としたまま、迷うような口調で井口さんが言う。

「なに?」

「宮本くんと如月さんって、つき合ってたの?」

 思わぬ質問に、まじまじと井口さんの顔をみつめる。

「な、なんで急にそんなこと?」

「ごめんなさい。如月さんが亡くなったばかりだっていうのに、こんなこと聞いちゃって。でも、どうしても確認しておきたかったの」

 緊張した面もちの井口さんは、ずっと顔を伏せたままで、缶を握る手が少し震えていた。

「……いや、俺と音葉はただの幼馴染みで、つき合ってるとか全然そんな仲じゃなかったよ」

 俺は少し考えてから、そう答えた。

 一瞬、音葉とのキスが脳裏をよぎったが、少なくとも音葉が生きている間にはなにもなかったわけだし、決して嘘は言っていない。音葉が背後霊になったことを説明するわけにもいかないし、質問の答えとしてはこれで間違いないはずだ。

 しかし、高校に入ってから音葉とは距離を取っていたつもりだったのに。つき合ってるとか、そういう風に勘違いされていたということに驚いた。

「そうなんだ。つき合ってるわけじゃなかったんだ……」

 俺の答えを聞いて井口さんは表情を緩めると、ベンチから勢い良く立ち上がった。

「ごめんね、変なこと聞いちゃって。今日は、助けてくれて本当にありがとう」

 また明日ねと手を振る井口さんに、「また明日」と手を振り返すと、井口さんはどこかうれしそうに駅の方へと小走りに駆けていった。

「ふーん、なるほどね……」

 小さくなっていく井口さんの背中を見つめながら、今までずっと黙っていた音葉がつぶやいた。

「まったく、こんなのの一体どこがいいんだか」

 なぜか非常に失礼なことを言われているような気がしたが、余計なことを言うのはやめておこう。今の音葉は、なにかとてつもなく機嫌が悪そうだった。



 家で飼っている子猫の名前が決定したのは、一週間ほど前のことだった。

 名前は『ここのは』。

 音葉が三日三晩かけて考え抜いての命名だったが、あの音葉にしては中々に良い名前を考えたものだと感心した。

 たぶん、『ここのは』の『は』は、『音葉』の『は』から取ったものだと思われるが、その他の部分については良く分からない。音葉のことだから、およそちゃんと考えもせずに響きとかゴロの良さで付けたのだろうが、悪い名前ではなかったので、特に意見もせずに首を縦に振った。

 さて、井口さんと別れて家に帰ったあと。音葉はなぜかむすっとした表情で、出迎えたここのはを抱き上げると、ベッドに横になってしまった。

 まったく、自分で助けろと言っておいて後から機嫌を損ねるのは、あまりにも質が悪いというものだろう。

 すねたように背を向ける音葉を無視して、明日のテスト勉強を開始する。

 しばらくそのまま一人で勉強をしていたが、夕食を終えた頃には音葉も機嫌を直したらしく、それからは昨日のように勉強をみてくれたので、とりあえずは助かった。

 勉強を終えた後、思い出したように音葉から「昼間の、ちょっとカッコよかったよ」と申し訳程度の誉め言葉を頂き、その日は深夜一時前に眠りに就いた。

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