2

 次の日学校で、戦闘の火蓋は切って落とされた。

 一発目。現国はなんとかなった。

 さすがは俺だ。昔から、全てがそこそこと言われてきただけのことはある。

 漢字の書き取りは壊滅状態だったが、長文問題はなんとかなった。いや、なんとかした。

 ニュアンス的にそれっぽいことを長々と書いておいたので、完全正解は難しいまでも、部分点は確実に稼げるはずだ。

 化学も同様になんとかなりそうだった。

 休み時間、現国の問題用紙を破り捨て、もう終わりだとかなんとかギャーギャー喚く宗介を殴り飛ばし、暗記に集中したことが勝因だろう。

 そして、本日最後の一勝負にして、メインディッシュの数学。

 始めの声とともに問題用紙をひっくり返した俺は、一瞬にして青ざめた。

「終わった……」

 放心状態でつぶやいたその言葉に、隣でうつらうつらしながら浮遊していた音葉が問題用紙をのぞき込む。

「あちゃ~、やっちゃったね。悠太」

 テスト範囲を間違えてた。

 全然シグマじゃなかった。サインコサインタンジェントとかいう、ゴロの良さで名前だけは覚えられる三角形のあれだった。もちろん覚えているのは名前だけで、中身に関してはなにがなんだか……

 せめてテスト範囲くらいちゃんと聞いとけよ、俺。

 俺が絶望の淵に追いやられていると、唐突に背中をつつかれた。

 なんだよこんなときにと思いながらも、教師にばれないようにこっそり後ろを振り返ると、宗介がつきだした拳の親指をビッと立てながら、キラキラと輝く爽やかな笑みを浮かべていた。

『俺とおまえは親友だ! だから親友同士、補習も仲良く受けようぜ!』

 宗介はそう言っていた。

 言葉を介さなくても分かる。なぜなら親友だから。

 ……補習は断るけどな。

 しかし、いよいよもってこれはまずい。絶体絶命の状況だ。

 いくら問題を凝視しても、解ける要素が全く見あたらない。

「tanθ=b/a=b/c/a/c=sinθ/cosθだよ」

 頭を抱えていると、隣からなにやら聞いたことのない言語が聞こえ、怪訝な顔を向ける。

「ほら、sinθ=b/cで、cosθ=a/cだから」

 音葉さんがなにやら、異世界の言語を話していらっしゃる。

「なんだよそれ? 新しい呪いの呪文か?」

「違うよ! 問題の公式だって!」

 小声で問う俺に、音葉が盛大な突っ込みを入れる。

「なに!? 音葉この問題分かるのか?」

「バカにしないでよ。授業でちゃんと習ったやつじゃない」

 それはまさしく、天使の声だった。

 よっしゃあ、地獄に仏とはこのことだあ! 

 危うく叫びそうになるのを堪える。

 これ以上ぼそぼそ言っていると教師に怒られると危惧した俺は、答案用紙の隅にシャーペンで『頼む音葉、解き方教えて!』とすがる思いで書きこんだ。

 しかし、音葉はそれを見ると、う~んと考え込んでしまう。

 くそっ、音葉は昔からズルとか曲がったことが嫌いだったからな。こういう変なとこだけ正義感が強いんだから。ヒトのポスターは勝手に捨てるくせに。

『お願いします! 音葉様! 守護霊様!』

 両手を併せて音葉を拝む。頼む! 補習がかかってるんだ!

 すると音葉は観念したように、ため息を吐きながら、

「まったく、こういう時ばっかり都合良いこと言って。……ノワールのケーキ、おごってよね」

 少し不機嫌そうに言うと、しぶしぶ問題に取りかかった。

 ──これで勝った。俺は今、最大の山場を乗り越えたんだ。アルプスのマッターホルンを踏破した気分だぜ。

 さようなら補習。こんにちは自由。

 宗介、悪いが補習は一人で受けてくれ。親友として、俺はおまえの進級を願っているぞ!

 音葉の助けがあって、序盤の基礎問題はどんどんと解き進んでいく。

 しかしその勢いも、中盤、後半と行くにつれて徐々に失速していった。

 応用問題だ。

 基礎問ならば解答方法さえ教えてもらえば解くことができたが、応用問題をこの時間のない中、口頭で教えてもらうというのはさすがに無理があった。

「なんでこんなのができないの? 違うってば! ここにはこの数字が入って、この公式を使うの!」

 音葉の指導にも熱が入る。出来の悪い生徒で申し訳ないとは思うが、出来ないものは出来ないんだからしょうがない。

「もう、信じらんない! あーっ、イライラする」

 刻一刻と迫る終了時間に音葉が苛立ち始める。

「授業ぐらいちゃんと受けといてよね!」

「……すみませんでした」

 思わず謝るが、怒りは納まらないようで、とうとう我慢できなくなった音葉は、

「もう、ちょっと貸して! 私が解いた方が早い!」

「ちょっ、貸してっておまえ、なにする──」

「いいから、どいて!」

 俺の言葉を遮って、俺の上に乗るように音葉は無理やり席に座ってくる。

 俺と音葉の身体が重なった瞬間、全身にゾクゾクと寒気が走った。体の中に異物が進入してくるような、なんとも言えない気持ち悪い感覚。意志に反した身震いが止まらない。

 と、テストの解答用紙に解答が書き込まれていく。

 俺の手によって、あっというまに、あの苦戦していた問4─2の解答欄が埋まっていく。

 俺の意志とは関係なく手が動き、答案用紙がどんどん埋まっていくのだ。

 ──な、なんだよこれ? 身体の自由が、きかない。

『cos(θ+2nπ)=cosθ──』

 耳から聞こえるのではない。問題を解く音葉の声が、頭の中から聞こえてくる。

 これって……これって……

 もしかして俺、のりうつられてる?

『音葉……これって……』

『なに、あんまり話しかけないでよ! 時間ないんだから』

『……はい』

 音葉の気迫におめおめと引き下がる。どうやら頭で思ったことは聞こえるらしかった。



 チャイムと同時に俺(正確には音葉に憑依された俺)はペンを置いた。

「間に合った~!」

 腕を伸ばしながら、満足気に音葉がするりと俺の身体から抜け出る。

 また全身がゾクゾクと身の毛がよだつとともに、身体の自由が戻ってきた。

「感謝してよね悠太。今のテスト、会心の出来だったから!」

「つーか、なんだよ今のは? あんなんできるのなんて聞いてないぞ?」

「あれー? そうだったっけ?」

 腕に立った鳥肌をさすりながら、不満を漏らす俺に、音葉はたははとわざとらしく笑ってみせる。

「後でちゃんと説明してもらうからな」

「テスト代わりに解いてあげたんだから、怒ることないじゃん」

 すねた様に音葉が言う。確かにこれで、数学の赤点を免れたの間違いないだろう。そこは音葉に感謝しなければ。

 こうして、地獄のテスト週間第一日目はなんとか終了した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る