14
夢を見ていた。
小学校、それとも幼稚園の頃だろうか。
夏の日。太陽が容赦なく照りつける、とても暑い日だった。
綱櫛神社で遊んでいた俺と音葉は、カブトムシを採るために裏手に広がる森の中に入った。
森に一歩足を踏み入れると、そこはまさに蝉時雨。高い木々を見上げれば、セミの声が降り注いでいるような錯覚にとらわれた。
薄暗い森の中は少しだけ不気味だったが、木漏れ日がキラキラと落ちて、とてもきれいだった。
音葉と、手を繋いでいた。
暗くて怖いと言う音葉の手を握り、俺が音葉を引っ張って歩いた。
汗ばんだ肌と、小さな音葉の手。
森の中を、二人だけで歩いていく。
どうして今さらこんな夢を見たのか分からない。
俺は、知らず知らずの内に涙を流していることに気づき、目を覚ました。
悲しい夢ではないのに……
目を開けると、まだ夜中だった。
月明かりが朧気に室内を照らしている。
光源を追ってふと窓の外へ目を向け、俺は息を飲んだ。
窓際の縁に音葉が腰掛けていた。
月明かりを受ける音葉の肌は青白く、その端正な顔立ちはどこかうつろで、その容貌は冷たさを覚えるほどだった。
制服姿のまま、窓の外を見るともなしに眺めている。
「泣いてた……ずっと、泣きながら私の名前呼んでた……」
不意に音葉が口を開き、心臓が跳ね上がる。
「恐い夢、見たの?」
「いや、怖い夢じゃないんだ。ただ、昔の夢だった」
「そう」
「……眠ら、ないのか?」
「うん、眠くらないんだ。たぶん、寝ようと思えば寝れると思うけど……」
そこまで言って、音葉は逡巡するように目線を下げる。そして数秒の間を置いてから、
「寝ちゃったらそのまま、起きられないかもしれないと思うと恐くて……意識まで消えちゃたったらどうしようって。ずっと、恐くて……」
「じゃあ、もしかしてずっと」
──眠っていないのか?
音葉がうつむく。
そんな……。
音葉が幽霊になってから、もう四日になる。それなのに、その間ずっと寝ないでいたというのか。
言葉を呑んだ。
この長い夜の時間。暗闇の中をたった一人で過ごすというのはどんなに長く、不安で寂しいものだっただろう。
「ねえ、その昔の夢って、どんな夢だったの?」
音葉が優しく笑む。
話を変えるためだろう。
窓縁の上で曲げた片膝を自分の胸に抱え込むようにして微笑む音葉は、月の青白い光のせいもあってか、幻想的で、普段とは違う妖艶な美しさを感じさせた。
「子供の時に、綱櫛神社の裏の森にカブトムシを探しに行ったときの夢だよ」
「ああ、そんなことあったね」
「森の中が暗くて怖いっておまえが言うから、手を繋いでやったの覚えてるか?」
「悠太がカブトムシ採ろうとして、木から落ちて泣いたのなら覚えてるよ」
イシシと、歯を見せて音葉が笑う。
「あれは、おまえが無理やり登らせたんだろ。俺は低いところにいたカブトムシで良かったのに、上にとまってるやつの方が大きいからって言って」
「そうだったっけ?」
「そうだよ。都合悪いとこは忘れてんだな」
「でも、悠太は今も昔も変わんないね。ずっと、泣き虫のまま」
うるせーよ。
昔だって今だって、一体誰のせいで泣いてると思ってんだ。
「……おまえは、音葉は全然泣かないんだな」
思えば、音葉が泣くところなんて一体いつ以来見ていないのだろう。
昔から、音葉はあまり泣かない子供だった。
「私ね、泣いたら負けちゃうんだ。泣いたらすごく弱くなっちゃうの。だからね、出来るだけ泣かないようにしてるんだ。昔から」
「がまん、してるのか?」
「そうなの……かな?」
一瞬、音葉の声が揺れる。
「どうして、そんなのがまんできるんだよ? なんで、そんなに他人事のように平気でいられるんだよ? だっておまえは……おまえはもう、死んでしまったのに」
「分かってるよ」
「だったらどうして……」
「私だって泣きたいと思うよ。思い残したことだっていっぱい、いっぱいあるんだよ?」
音葉が声を詰まらせながも、必死に言葉を紡ぐ。
「…………」
「私ね、男の人も知らないまま死んじゃった。……キスだって、したことないよ」
膝に顔を埋める音葉の表情は見えなかったが、声はすぐにでも泣き出してしまいそうなほど震えていた。
「お父さんとしか……フフ、そういえば悠太とは幼稚園の時にしたことあったっけか」
懐かしむように音葉は言う。しかし、その言葉は俺に罪悪のようにのしかかった。
「私ももっと生きて、いろんなことしたかったよ。好きな人とデートして、キスして。……合唱の発表会だってあったし。大学に行って、いろんな恋をして、ピアノの先生にもなりたかったし、結婚だって……子供も産んで、それから──」
涙を堪える音葉。
もはや、かけられる言葉が見つからなかった。
「ねえ、やっぱり涙って言うのはね、きっと未来のある人のためのものなんだよ。未来があるからこそ、明日を想って、過去を顧みて涙を流す。私はもう、過去に取り残された人間だから。だから、私にはもう涙は必要ないんだよ」
顔を上げた音葉が笑う。
どうしてこんな時にまで、笑顔でいられるんだよ。
「それに、泣き虫な悠太が私の分まで泣いてくれるから」
その言葉に、思わず涙が頬を伝った。
やっぱり昔も今も、俺を泣かせるのはおまえじゃないか。俺が泣き虫なのは、音葉のせいじゃないか。
「今日も、私のために悠太がたくさん泣いてくれたから、私はそれで十分だよ」
「……おまえが近くにずっといてくれてて、おまえが死んだっていう実感が全然なかったんだ。それが、おまえの身体が焼かれるって分かって、煙が空に昇っていくのを見て。音葉がどこか遠い存在になってしまいそうな気がして、そしたらもう、どうしようもなくなって……」
昼間の火葬場でのことを思い出す。
すると、あれだけ流した涙がまた止めどなく溢れだしてくる。
音葉の身体がもうこの世に存在しないとう喪失感は、俺の心に大きな空洞を空けた。
止まらぬ涙に苦闘する俺を見て、音葉が眼前にやってくる。
そして後ろ手を組み、ベッドに座る俺に目線を合わせ、
「ねえ、エッチさせてあげようか?」
「なっ!」
唐突な音葉の言葉に俺は頭が混乱し、顔が一気に熱くなった。
「なっ、なにを、なにを急に言ってんだおまえ……」
しどろもどろになる俺を見て、楽しそうに音葉が笑う。
しかし、やがて言葉の意味するところを理解した俺は、そっと音葉の胸に手を伸ばす。
音葉の、控えめな膨らみに触れようとする。
しかしその手は、むなしくも音葉の身体をすり抜けた。
自分の身体を通り抜ける俺の手を、音葉が悲しそうにみつめる。
「……なんで、生きてるときに言わなかったんだよ」
俺の言葉に、音葉が吹き出す。
「そうだよね。遅いよね……遅すぎるよね」
しかし、その言葉を言い終える頃には、音葉の声は嗚咽へと変わっていた。
やりきれない不遇を痛感するように、音葉が唇を噛みしめる。
なぜこの子が、こんな普通の女の子が、こんなにも苦しまなければいけないのだろうか。
俺は溢れる涙に顔を覆った。
女性としての喜びも、人との関わりも、全部失ってなおこの世に存在し、なんのために自分の死を悲しむ必要があるのだろうか。
この子が悲しむくらいなら、俺が死んだ方がずっとましだった。
代われるものなら、音葉と俺を入れ替えて欲しい。俺は死んだってかまわないから、音葉に人生を返してやって欲しい。
悲しみと、涙をもってなんとかなるのならば、神様、俺の命は枯れ果てても良い。失意の闇に沈んだって良い。
音葉を……音葉だけは──
「ダメだよ、悠太」
ふと、あたたかな感触が背中を包む。後ろから両手でそっと抱き籠められる。
ハッとして顔を上げる。
背中から、音葉に抱きしめられていた。
月明かりが、眩しいくらいに部屋へと注ぎ込む。
「悠太は優しいから、すぐに他人のために自分を犠牲にしようとするけど、そんなの私が許さないよ」
触れる、感触。
音葉の柔らかな感触が背中から、抱きしめる腕から、感じられる。胸の前に回された音葉の腕に触れる。
「おまえ……どうして?」
「これの、おかげだと思う」
手を開いてみせる音葉。そこには、お守りが二つ握られていた。昨日、綱櫛神社で買ったものだ。
よく見ると、そのお守りはぼんやりと淡い光を放っていた。
「なんだよ、これ。なんで光って……」
「悠太、綱櫛神社の伝承って覚えてる?」
「え、ああ。だいたいなら。でも、そんなのなんの関係が──」
すると音葉はゆっくりと、耳元でささやくように綱櫛神社の伝承を語りだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます