11

 薄い擦りガラスの扉越しに、シャワーの音が聞こえてくる。俺は、その扉に背を向け、そわそわと落ち着かない気持ちで立っていた。

 あの後、ひとしきりメイド服を見せびらかし満足した音葉は、藪から棒に風呂に入りたいと言い出した。

 幽霊である音葉は汗をかいたりしないので、本来風呂に入る必要はないのだが、そこはやはり女の子なのだろう。これまでいろいろ気を使って口にはしなかったようだが、三日間も風呂に入らないのはさすがに耐えられなかったらしい。

 音葉と俺は一メートル五十センチまでしか離れられないので、音葉が風呂に入っている間、俺は必然的に風呂場の前で待っていなくてはならなくなる。

「絶対にのぞかないでよね」

 風呂場に入る前、扉を半開きにして顔だけ出した音葉が、じっとりとした目で釘を刺すように言ってきた。

「誰が覗くかよ!」

 威勢良く返したはいいが、薄い扉越しに同い年の女子が入浴していると思うと、どうにも気になってしょうがない。特に気を紛らわすようなものもなにもない脱衣場で、シャワーの音やら身体を洗う音を聞いていると、それだけで、脳裏に浮かぶよからぬ妄想で頭が沸騰しそうだった。

 ご機嫌な音葉の鼻歌が、シャワーの音に混じって聞こえてくる。

 悶々とした気分で、それでも後ろを振り返るわけにも行かず、不自然に目を泳がせていたときだった。突然、脱衣場の戸が開いた。

 ハッとして目を向けると、そこには姉さんが立っていた。

「な、なんで姉さんがこんなところに!?」

「はあ? 私が家にいちゃ悪いってえの?」

 慌てふためく俺に、姉さんが不機嫌そうに言う。

「あんたこそ、こんなとこでなにやってんのよ?」

 と、姉さんの視線が俺の背後に向けられる。音葉の入っている風呂場へ。

「ちょっと、シャワー出しっぱなしじゃない。誰も入ってないのにもったいないでしょ?」

「いや、これは違うんだ。誰も入ってないんじゃなくて──」

 焦る俺の言葉も聞かず、姉さんは俺を押しのけ風呂の扉に手をかける。そして、止める間もなく扉を押し開けた。

 シャワーの注ぐ、湯気で靄がかった浴場が視界に飛び込んでくる。そこには当然ながら、一糸まとわぬ姿の音葉がいた。

 濡れた、背を隠すほどに長い茶色がかった髪。ふっくらと形の良い臀部と、すらりと伸びた細い脚。髪をかき上げ、シミ一つない白い背中とくびれた腰が露わになった瞬間、音葉の動きがピタリと止まった。

 音葉が驚愕の表情で振り返る。ワナワナと身体を震わせ、素早く両手で前を隠す。音葉の控えめな胸が、押し当てられた腕で形を変えた。

「ち、違うんだ! これは姉さんが勝手に──」

「──っ!!」

 音葉が声にも鳴らない悲鳴を上げた。その場にしゃがみ込み、見る間に顔が真っ赤になっていく。

「バカ悠太! エッチ! 変態! スケベ! 最低!!」

「だから、これは俺じゃなくて姉さんが──」

「悠太、一体どうした?」 

 本気でキョドり出す俺に、姉さんが奇怪な目を向ける。しかし、今はそれどころじゃない。ブンブンと手を振り音葉へ弁解を続けていると、次の瞬間、俺の視界が暗転した。

「うっさいバカ! いつまで見てんのよ!!」

 音葉が投げた洗面器が、俺の顔面に突き刺さっていた。その衝撃に思わずのけ反り、尻もちをつく。痛みに鼻をさすると、ぬるい感触が口元を伝った。

「な、なに、今の!? 洗面器が勝手に飛んで……」

 姉さんが驚きの声を上げる。

「今のはなんでもないんだ。ちょっと水で滑って、地球の自転に逆らえなくなった洗面器が俺の顔に向かって飛んできただけなんだ」

 苦しい言い訳をしながらも、怒りに満ちた音葉の視線を遮断するように、風呂場の扉を即座に閉める。片手で、流れ出る鼻血を必死に押さえながら。

「姉さん、悪いけど今から風呂入るからちょっと出てって」

 早口に言って、納得のいかない表情の姉さんを脱衣場から無理やりに追い出す。有無を言わせぬまま戸を閉めると、俺はそのまま背中を預け、ずるずると滑るように床に座り込んだ。

「……いってえ」

 鼻の下を拭うと、指先に鼻血がついた。手近にあったティッシュを取って、鼻に押し込む。

「物理的にさわれなくても、間接的に攻撃する方法があったか……」

 俺は天井を仰ぎ、蛍光灯のあかりをぼんやりと眺めながら、悟るようにつぶやいた。

 それから鼻血が完全に止まりきった頃、音葉は満足したように入浴を終えた。とりあえずその後のおとがめはなく、命拾いしたと安堵のため息をついた。

 そんなこんなで、日はだんだんと暮れていく。

 明日は、音葉の葬式だ。

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