9

「泣いてしまって、すみませんでした」

 それから三國さんはすぐに自ら涙を拭った。そしてロッカーから取り出したのは、筆記用具と数冊の音楽関係の専門書、それと楽譜だった。

 少し汚れの目立つ楽譜を物珍しげに見ていると、

「これ、音葉が自分で作曲してたんですよ」

 笑顔に戻った三國さんがうれしそうに、その楽譜を手渡してくる。

「音葉が? 自分で?」

「はいです。結局完成できなかったみたいですけど、一生懸命練習の合間に作ってました」

「へぇ~、音葉が作曲ねえ」

「勝手に見たら……殺すわよ」

 今のは音葉の声だ。興味本位で楽譜を開こうとした俺に、殺気の満ち満ちた睨みをきかせる。

 全身に走る悪寒で、おもわず楽譜を落としそうになった。

 どうせ音楽やってない俺には、楽譜なんて見てもちんぷんかんぷんなんだが。

 そして、受け取るものを受け取りそそくさと帰ろうとした俺を、三國さんは音楽室の外まで見送ってくれた。

 なんていい子なんだろう。楽譜を開こうとしただけで、人のことを殺すとかのたまう女とは大違いだ。こんないい子が本当に音葉と仲が良かったのだろうか?

「ありがとう三國さん、ほんと助かったよ」

「いえいえです。あ、それと、ありすって呼んでくださいね」

 うん、ところどころ不思議な感じがする子だが、間違いなく三國さんはいい子だ。そしてかわいい。

 手を振る三國さんに、ガラにもなく手を振り返して俺は音楽室を後にした。



 音楽室を出たその足で、そのまま購買へと向かう。昼休みも半ばに差し掛かったこの時間、まだお宝が残っているのかいささか不安ではあったが、このままなにも食べずに午後の授業に突入するのはいただけない。というか耐えられない。

 まあ、なにかしら残り物があるだろう。

 そう適当に考えながら赴いた、既に戦火の静まった購買で入手できたのは菓子パン二つだった。さすがに惣菜パンは売り切れており、甘いものばかりになってしまったが、食料は調達できたのだ、文句は言えまい。

 この成果に音葉は、「ごめんね、私が部室行きたいなんて言うから」と申し訳なさそうにしていたが、これは先に購買で食料調達をしなかった俺の責任だ。音葉が謝ることではない。

「今日は外で食うか」

 購買横の自販機に百円玉を入れながら、少ししょげた音葉に言った。

 今さら教室に戻ったところで、宗介達いつものメンバーはもう昼飯を食い終わっているだろう。それに今日は良い天気だ。

 校舎を出て、人の少ない木陰を選んで腰を下ろす。

 あれだけ暑かった夏はもう過ぎ去ってしまったようで、外気は肌寒さを覚えるほどに涼しかった。爽秋の心地よさと芝生の匂いに全身で伸びをする。

 俺が陣取ったここは、ちょうど音楽室の真下だ。

 窓から漏れる合唱部の歌声はここまで届き、青く澄んだ秋空にゆっくりと溶けていく。

 音葉は木の幹に身体を預けるように立ち、その歌声に耳を澄ましていた。

 やわらかな風が吹く。

 長い髪とスカートがはためくのを、音葉はそっと手で押さえた。


 こんなにも、はっきりと感じられるのに。

 息づかいさえ、こんなにはっきりと聞こえるのに。

 それでもやはり、音葉は死んでしまっている……

 でも俺にとって、音葉は今も生きているのと変わりない。


「ねえ、悠太」

 名前を呼ばれてハッとする。

 音葉に見とれてしまっていた。

「な、なんだよ?」

「ありす、あの子かわいいでしょ。あんた、ああいうタイプ好きそうだし……私とは真逆の女の子っぽいタイプ」

 音葉は片目をつむり、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「そうだな。女の子はじゃじゃ馬よりもやっぱり優しい方がいいよな」

「あはは、じゃじゃ馬ってなによソレ。なんか古くない?」

 皮肉一杯に返してやるが、じゃじゃ馬という言葉がなぜかツボだったらしく、音葉はおかしそうに笑う。

「あ、そうそう。ありすってね、すごいんだよ、メイドカフェでバイトしるの」

「メ、メイド!?」

 その単語を聞いた瞬間、条件反射で目を見開いてしまう。

「あははは、やっぱり悠太そういうの好きなんだ! おっかしーい、悠太へんたーい!」

 俺の動きがさぞ面白かったのだろう、音葉はとうとう腹を抱えて笑いだした。

「でも、ありすがいくらかわいいからって、私の友達に手だしたらダメだからね」

 ひとしきり笑い終えた音葉が釘を差すように言う。

 まったく、俺は見境なしの獣じゃないっつーの。

「うるせーんだよ」

 ボソリと、聞こえるか聞こえないか分からないくらいの声で俺はつぶやいた。



 五時限目は自習になった。現国の教師が体調不良で早退したとかなんとか。

 まあ、理由なんてどうでもいい。睡眠の時間ができたというのはありがたいことだ。でも、もう五時限目なんだから、そのまま帰りになってくれたらもっと良かったのに。

「自習時間なんだから、ちゃんと勉強しなきゃダメでしょ」

 さっきまで横で音葉がなにやら口うるさく言っていたが、机に顔を突っ伏して、無視を決め込んだ俺にとうとう愛想を尽かしたらしい。今はもう静かなもんだ。

 まったく、自習の時間に勉強なんて。これだから優等生は。

 クラスの方々からの談笑がざわざわと、雑踏の中にいるように聞こえてくる。

 なんとなしに耳を傾けていると、その中に、音葉の話題があった。

 音葉のことを、悼んでいるのか、なにを話しているのかそこまでは分からない。

 ふと音葉のことが気になり、顔を横に向けてみる。

 しかし音葉はそんなことなど聞いていないようで、数人の女子が机を囲んで楽しそうに話しているのを、食い入るように聞いていた。

 話の内容は、どうやら恋バナのようだ。縁結びがどうとか、パワースポットとか、くだらない話をうれしそうにしている。

 くだらない、本当につまらない話……

 女子の輪を上からのぞき込むように聞き入る音葉を眺める。

 普段なら音葉もあの輪の中に入って、一緒に笑ってるんだろうな。

 ──音葉が、死んでいなければ。

 頭の中で思ったその言葉は、とても実感に乏しかった。

 音葉も、恋バナとかしたりするのかな?

 音葉、好きなヤツいるのかな?

 そういえば俺、最近の音葉のことなんにも知らないな。

 高校に入ってから、なんとなく音葉と距離を取ってしまっていたから。



 放課後になり、生徒たちが教室から散っていく。

 また明日な、と片手を上げる宗介に、じゃあなとかろうじて返す。

 まだ覚醒しきれていない目をこすり、腕を伸ばしながら立ち上がる。

 そういえば、明日は学校を休むんだった。

 気づいて宗介を探したが、もうすでに教室を出た後のようだった。

「悠太、寝すぎだよ。思いっきり爆睡してたでしょ」

「うん。さすがに寝すぎた」

 呆れたように音葉がオーバーなポーズを取る。

 俺は頭をかきながらカバンを持ち、

「さて、ぼちぼち帰りますか」

 年寄りのような台詞を言って、教室を出た。

「もうすぐテストがあるんだよ? 自習の時間無駄にして、悠太ちゃんと勉強してるの?」

 帰り道、音葉がそんなことを言った。

 そういえば、再来週からテストが始まる。

 俺はあまり成績の良い方ではないが、特にテスト対策の勉強をしているわけではなかった。

 つまるところ、なんとかなるんじゃないかな~とか、あんまり深く考えていないのだった。とりあえず、赤点にならないギリギリのラインを狙えれば、それで問題はない。

「いいな~、音葉はテスト受けなくて良くて」

「そういう問題じゃないでしょ! もお、ちゃんと勉強しないと留年しちゃうよ?」

 音葉のお説教が続く。

 その声を、右から左へと聞き流しながら歩いていたが、不意に音葉の声が途絶え、俺は振り返った。

「どうした?」

 見ると、音葉は少し怯えたような表情をして、居心地悪そうに両の指を絡めていじっていた。

 音葉の視線を追い、その先を見る。

 そこは、一昨日音葉が事故に遭った場所だった。

 電柱には、誰が手向けたのか分からない、白い花が瓶に活けてある。時刻も、ちょうどあのときと同じくらい。

 夕焼けが、街を赤く染めていた。

 朝は気づきもしなかったけど、音葉、やっぱりこの場所のことを……

「どこか、寄り道して帰るか」

 突然の俺の言葉に、音葉が驚いた表情を浮かべる。

「え、でも勉強は? テスト近いんだよ?」

「そんなの明日からやるから大丈夫だって」

「そんなこと言って、どうせ明日もやらないくせに……」

 頬を膨らませて見せる音葉だったが、その表情からは安堵したようすが伺えた。

 来た道を引き返し、とりあえず商店街の方へと足を向ける。

「どっか行きたいところあるか?」

 俺の言葉に音葉は少し考えてから、

「……綱櫛神社、行きたい」

 なぜか視線を逸らし、言いづらいことを口にするように答えた。

 綱櫛神社、この綱櫛町に古くからある神社だ。というかむしろ、この街は綱櫛神社を中心として栄えたと言って過言ではない。

 町の名前も綱櫛神社から取ったと、昔どこかで聞いたことがある。なにを隠そう、俺たちの通う高校の名前も綱櫛高校だ。まあ、ここまでいくともう神社がどうとか、そういう問題でもないのだろうが。とにかく、この綱櫛神社はこの辺に住む人間にとって、非常に馴染み深い場所だということだ。

 しかし、音葉も珍しいところへ行きたいと言い出したものだ。小さいころはよく神社周りを遊び場にしたものだが、ここ数年は特にお参りに行く機会もなく、最後に鳥居をくぐったのは、いつの初詣の時か、それとも夏祭りの時か。

 そのことを音葉に話すと、

「えー、そんな思い出せないほど久しぶりなの? 初詣くらいちゃんと行きなよ」

 この罰当たりめと言わんばかりの苦い表情をされる。

「ほら、俺基本的に無神論者だからさ。あんまりそういうのこだわんないようにしてるんだ」

「どーせ、寒くて家から出るのがメンドくさかっただけでしょ」

 音葉は言い捨てるが、まさにその通りだった。もはやぐうの根もでない。

「ぐう」

 とりあえず相づちを打つように言っておく。

「私は今年の七夕祭りにも行ったわよ、ありすと一緒に。それから初詣もちゃんとお参りしたし……悠太誘ったけど来なかったから、一人でだけど」

 口を尖らす音葉。

 確かに今年の元日に音葉が初詣に一緒に行こうと誘いに来たような記憶がある。しかし、なんだっけ? 確か、正月特番の漫才が見たいのと、外に出るのが面倒なのとでそれを断ったような、断らなかったような……

「断ったよ!」

 音葉が言い切る。ってか、心の声にまで突っ込みをいれるなよ。

「……ぐう」

「まったく。悠太が来ないから、私が代わりに、悠太が私と同じ高校に合格できますようにってお願いしてあげたんだからね!」

「あ……ありがとうございました」

 俺が高校に合格しますようにではなく、音葉と一緒の高校に合格しますように? よくよく考えれば腑に落ちないことこの上ない話だったが、勢いで礼を言ってしまう。

 という、端から見ればきっと俺は独り言を延々と言い続ける不審者に他ならないのだろうが、そんなこんなをしているうちに、俺たちは綱櫛神社へとたどり着いた。

 参道へと続く石段はおよそ百段にも及ぶ綱櫛神社。石段はところどころ削れ、崩れている箇所も見受けられるが、それは長い歴史を刻んできたことを感じさせる。

 昔は、この石段を一気に駆け上がるとか、とんでもない暴挙をよくしたものだ。

 石段を登ると、このオフシーズンにも関わらず、それなりの数の人たちがお参りに来ていた。まあ、この田舎の神社のオンシーズンなんて、せいぜい初詣と夏の七夕祭くらいのものだが。

 鳥居をくぐり、とりあえず本殿の賽銭箱に小銭を投げ込んで、頭を下げる。となりで音葉も、同じように頭を下げていた。

「で、神社に行きたいなんて、なにがしたかったんだ?」

 俺が問う。この時期、神社に来たところで祭りがやっているわけでもないし、紅葉にはまだ時期が早いし、ずっと疑問だった。

「うん……あのね」

 急に音葉がモジモジと身体をくねらせ始める。それをみるなり、嫌な予感で身震いしてしまいそうだった。

 音葉がこういう態度を取るのは、大抵ろくでもないことを言い出すときだ。

 でも、時すでに遅し。

 なにがしたかったかって聞いちゃった。もう、絶対に逃げられないなこれ。

 そんな暗雲立ちこめる思考を頭が駆け巡っていると、音葉はとうとう意を決したように、

「あのね、私お守りが欲しいの」

「お守り?」

「うん……あの……縁結びの」

 さも言いにくそうに付け加えた音葉の言葉を聞き、今回は楽な願いでラッキーだったぜと、安心しそうになっていた俺は一気に地獄へと付き落とされた。

 まず一呼吸置き、お守りの売られている授与所を見ると、巫女装束姿のお姉さんが売場の窓口に座っているのが見えた。

 で、これから俺は、その巫女のお姉さんの元へ行き、お守りを買わなければいけないと。

 男子高校生の俺が、あの女子大生くらいの可愛らしいお姉さんの元へ行き、縁結びのお守りをくださいと恥も外聞もなく、白昼堂々宣言しなくてはならないと!

「いや、音葉さん。それはどんな罰ゲームですか?」

「お願い、どうしても欲しいの! 死んだ幼馴染みへの手向けだと思ってお願い!」

 両手を合わせ、祈るようにお願いしてくる音葉。

 それを言われたらもはや断ることはできないが、いいように使われているようで、その理不尽さがなんとも納得いかない。というか、自分で言うなし。

「なんで急に縁結びなんだよ? しかも綱櫛神社のなんて」

「えっと、クラスの子たちが話してたのよ。綱櫛神社が縁結びで最近話題になってるって。なんかね、雑誌にも取り上げられるくらい人気らしいよ」

「さっきの自習のときか」

 女子たちの話を妙に真剣に音葉が聞いていたのを思い出す。

 しかし、綱櫛神社が雑誌にまで取り上げられたというのは初耳だ。確かにこの神社には、いかにも女子が喜びそうな伝承も残されてはいたが、この田舎町の神社をわざわざ雑誌で紹介しようとは。このなんにもない時期に参拝客がいるのもそのせいか。

 改めて周りを見回すと、参拝に来ている人はそのほとんどが若い女性だった。

 音葉が懇願するようにじっと見つめてくる。

 縁結びのお守りが欲しいか。

 やっぱり音葉、好きなやついるのかな。

 でも、俺に頼むことじゃないよな。まあ、今は俺しか頼めるやつがいないから仕方ないんだろうけど。

「分かったよ。お守りくらい買ってやるよ」

「ほんとに!? ありがとう!」

 音葉の顔がほころぶ。

 しょうがねえなと、ぶつぶつ言いながら授与所と向かう。すると後ろから、

「あ、お守り二つね!」

 音葉の言葉につんのめりそうになった。

 二つってそんな、居酒屋でビール注文するおっさんじゃないんだから。ついでみたいに言われても……

 抗議しようと振り返ってみるが、満面の笑みでいる音葉に、どうやら断ることはできそうになかった。

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