8
二時限目の授業が終わった休み時間、宗介が声を掛けてきた。
「一緒に便所行こうぜ」
一時限目の時には来なかったので、朝思いっきり殴り飛ばしたことを怒っているのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
連れ立って教室を出たところで、宗介が勢いよく頭を下げた。
「悪かった、悠太。許してくれ!」
思いもよらぬ宗介の行動に、驚き、思わず周囲の目を確認してしまう。
「な、なんだよ急に。なんの話だよ?」
「本当に悪かった。俺、如月さんがその……死んだなんて知らなくって」
困惑する俺をよそに、宗介は頭を深く下げたままに言う。
「おまえと如月さんって幼馴染なんだろ? しかも、事故現場におまえも居合わせたらしいじゃないか。おまえだってそうとうショック受けてるよな。っていうか、受けてないわけないのにな。それなのに俺ときたら、朝っぱらからなんにも考えないでエロ本の話なんてして……本当に悪かった。おまえが、俺を殴りたくなるのも当然だ」
「いや……あれは、その……」
まずい、テンションが違いすぎる。宗介、それは当たらずも遠からずだが、あの時の状況から言うに、全然全く間違っているぞ。
「気にすんなよ! 俺は殴られたことも、エロ本を失くされたことも全然気にしてない。おまえが俺の親友でいてくれれば、それでいいんだ」
もう、弁解するのも面倒だった。
「どうしても辛くなったら俺に言えよ。俺は如月さんの代わりにはなれないけど、親友として一緒にいてやるくらいはできるからな」
それだけ言い残すと、宗介はさわやかに走り去って行った。教室の目の前で、便所にも行かず、一体どこへと走っていくのだろう?
俺は、引きつった笑みのまま宗介を見送り、とりあえず当初の目的である便所へと向かうことにした。
「鈴成君って、見かけによらず情に厚い友達想いな人だったんだね」
見直しちゃったあと、感心したように音葉が言う。
「ああ、俺もビックリだよ。あいつがあんないいやつだったとはな」
……周りとの温度差に、若干の驚きを感じていた。
音葉が死んだ。
ホームルームでその報告がなされた時、女子の数人が涙を流していた。休み時間にも、俺と音葉が幼馴染だと知っている生徒が何人も声を掛けてきた。
しかし、俺はそこにひどい温度差を感じていた。
音葉なら、隣にいるじゃないか。
ぷかぷかと浮いて、隣でみんなの話を聞いているじゃないか。
どんなにそう言ってやりたかったか。
音葉はここにいる。生と死の垣根を越えたところで、音葉は俺と未だに一緒にいてくれている。
そのことで音葉の死も、今の現実も、霞をかけたように俺の中であいまいなものになってしまい、他の人との間に音葉の死という事象をもって、大きな隔たりを生んでしまっていた。
まるで俺と音葉だけが現実から切り離されて、夢の中にふわふわと浮いているような──
「悠太……ちょっと、悠太ってば!」
と、小便器の前でズボンのチャックを下ろそうとしたところで、俺の名前を呼ぶ声に我に返った。
振り向くと、音葉が俺に引っ張られるのに抗い、男子トイレの扉に必死に掴みかかっていた。足から引き寄せられ、身体を斜めにしながらも扉を放さんとするその姿は、さながら風に棚引く鯉のぼりのようだった。
どうやら、トイレのドアからの距離が離れられる限界を超えてしまっていたらしい。数人の男子生徒が、驚いたように勝手にガタガタと開く扉を見つめている。
「もう、悠太!」
悲鳴に近い音葉の叫びに、俺は用を足すのも忘れ、慌てて男子トイレを後にした。
「気をつけてよ、男子トイレ入っちゃうところだったじゃない!」
いや、もう完全に入ってたじゃん。なんて、恐ろしくて言えやしない。
「悪い、ちょっと考え事してて」
「まーたエッチなこと考えてたんじゃないの?」
腕組みをして、じっとりとした目で下から睨み上げてくる音葉。
まだそのネタを引っ張るのか。音葉、一回怒り出すと長いからなあ。
「ごめん、ほんとに悪かったって。これからは気をつけるからさ」
とりあえずこういう時は平謝りに限る。俺は、手を合わせて必死に頭を下げた。
音葉はうーっと唸るような声を上げると、唇をとがらせ、人差し指でその唇を軽く突つきだした。
これは音葉がなにかを考えるときの癖だ。
難しい顔をして、淡いピンク色の柔らかそうな唇を一定のリズムで突つき続ける。その姿は、どこか物欲しそうにしているようにも見える。
次はなにを言われるのか。俺はビクビクしながら、音葉の言葉を待った。
「……許してあげるから、ちょっとお願い聞いてくれない?」
ほら来た。俺はいよいよもって身構える。
「昼休み、合唱部の部室に連れてってくれない? 置きっぱなしにしてる私物、取りに行きたいんだ」
「え、それだけ?」
おもわず拍子抜けしてしまった。どんな恐ろしい指令が下るのかと思っていたのだが。
「それだけってなによ? 他にもお願いして欲しいの?」
「いえ、昼休みに部室に行けばいいんですね。お安いご用です、お嬢様」
俺の言葉に、音葉は上機嫌に「それでいいのよ、執事さん」と少し気取って見せた。
と、いうわけで昼休み。俺は合唱部の部室へと向かっていた。
部室とは言っても、実際それは音楽準備室のことだ。音楽室に併設してある準備室を、合唱部が荷物置きとして使用しているらしい。
しかし、だからといって部外者の俺が勝手に部室に入ってはまずいのではないかと思ったが、音葉曰く、来月にある発表会の練習で昼休みにも人がいるはずだから、誰かに断って入れてもらえば大丈夫とのことだった。
確かに、音楽室に近づくにつれ、歌声とピアノの音が聞こえてきた。
練習の妨げにならないよう、音楽室の扉をそっと開く。
中では、二十人にも及ぶ男女が壇上に整列して歌を歌っていた。
混声合唱の迫力に当てられ、俺はその場に立ち尽くした。あまりにも場違いなところへ来てしまった。ここに来るのを安請け合いしてしまったことに、今さらながらに後悔する。
壇上に立つ生徒達から入った扉は位置が悪く、誰も俺の存在に気づかない。
音葉は、戸惑う俺など気にもとめず、目をつむり、曲に合わせてリズムを刻んでいた。
練習の真っ最中、声をかけることもできず、途方に暮れていると、
「もうすぐ曲が終わるから、もうちょっと待ってて」
音葉が囁くように言った。
言われた通り黙って扉のところで待っていると、程なくして曲は終わりを迎えた。
しかし、部員達は一向にこちらに気づく様子はない。声をかけて良いものかどうか俺が迷っていると、
「今、私が呼ぶから」
「呼ぶって音葉、おまえの声聞こえないじゃ──」
「おーい、ありすー! ちょっとこっちきてー!」
人の話も聞かずに、両手を口にあてがい大声を出す。
だから、おまえの声は他の人には聞こえないから無駄だって。
と、こちらに背を向けていた一人の女子生徒が、まるで音葉の声に反応するかのように振り返った。
女子生徒は不思議そうに首を傾げていたが、扉の前で立ち尽くしている俺に気づくと、小走りにこちらへ駆けてきた。
「おまえ、本当に都合いいな」
ふふ~んと、偉そうに胸を張る音葉に、やってきた女子生徒に聞こえないよう小声でつぶやく。
こいつ、本当に幽霊なのか?
「あの、宮本悠太くんですよね?」
女生徒が、開口一番に告げる。
「え、俺のこと知ってるの?」
ああ、その子私の友達でね。前一緒にいるとき悠太のことみつけて──などと音葉が一人でしゃべっているが、それはシカトして、あくまで目の前の女子生徒と話を続ける。
「はいです。音葉、よく宮本くんのこと話してましたから。宮本くんのこと話すとき、音葉すっごく楽しそうにしゃべるんですよ」
一体どんなことを話していたのか気になるところだったが、彼女の表情を伺うに、変なことを吹き込まれているわけではなさそうだ。
「ありす……じゃなかった。わたし、一年C組の三國ありすって言いますです。ありすって呼んでください」
言ってニッコリと微笑む。頭の左右で結わえた長いツインテールが三國さんの動きにあわせてサラサラと揺れた。
くりっとした瞳と、人なつっこい屈託のない笑顔。彼女を見たら、きっと誰しもがかわいいと言うだろう。そんな三國さんの姿は、とても同い年の女の子には見えなかった。制服を着ていなければ、中学生や小学生に間違えられるのではないかと思うほど顔立ちは幼く、背もそれとあまり変わらないくらい小さかった。
三國さんは小首を傾げ、上目遣いにのぞき込むように俺を見つめてくる。
おもわず、ドキッとして息を飲んだ。
「ところで宮本くんは、音楽室になにかご用ですか?」
「え? あ、えっと……音葉に頼まれて──」
「音葉……に?」
その名前を口にした瞬間、三國さんの表情が曇る。
表情を隠すようにうつむき、肩が小刻みに震え出す。見ると、三國さんはその小さな拳を強く握りしめていた。
音葉が死んだこと、知らないはずがないよな。
「あの、俺さ、音葉の両親に頼まれて、部室に置いてある音葉の荷物を取りに来たんだけど……」
「あ、ああ、そうなんですね。宮本くん、音葉の幼馴染みですもんね。今、部室に案内しますです」
取り繕うように適当に話を作った俺に、三國さんは疑う風もなく、必死に明るく振る舞おうとしていた。その姿が逆に痛々しい。
三國さんに奥の部室へ案内されると、音楽室からまたビアノの音色が聞こえてきた。練習が再開されたようだ。
「練習、いいの?」
俺が問うと、「気にしないでください」と三國さんは優しく微笑んだ。
そのまま奥まで進むと、不意に三國さんは立ち止まり、
「……ありす、音葉とすごく仲良かったんです」
ロッカーの一つに手をかけながら、唐突にそう言った。
「ありすトロいから、いっつも音葉に助けてもらってて。音葉がいなくなったら、ありすどうすればいいんだろ? 合唱部だって、音葉がいてくれたから今まで続けてこれたのに……」
重い沈黙が流れる。音楽室からの歌声が、ひどく遠く、小さく聞こえた。
ふと視線を横に移すと、音葉が下唇を強く噛みしめていた。
隣にいる音葉。俺の隣で宙を浮いている音葉。でも、その姿は三國さんには見えない。声も聞こえない。
音葉は三國さんにゆっくりと近づいていくと、母親が子供にするように静かに頭をなでた。髪を梳くように優しく、そのまま頬へと手を滑らせていく。
しかし、その手は決して彼女に触れられない。肉体という媒介を失ってしまった音葉が、彼女に触れることはもう叶わない。
三國さんの瞳からこぼれ落ちるそれを拭おうとした音葉の指を、涙はそっとすり抜けていった。
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