7

「見てみて、悠太! 見てみてみて!」

 次の日の朝、俺はそんな音葉の声でたたき起こされた。

 寝ぼけ眼で枕元の目覚まし時計を見ると、針は朝の六時を指したところだった。

「いったい何なんだよ、こんな朝っぱらから……」

 あくびをかみ殺しながら身体を起こすと、ニコニコ顔の音葉がそこに立っていた。その胸には、子猫が抱かれている。

「悠太、私さわれたよ!」

 鼻息荒く、音葉がすごむ。胸に抱かれる子猫も、うれしそうに音葉の手に顔を擦り寄せている。

「どう? すごい?」

「お、おう……」

 朝からテンションの高い音葉に俺は思わずたじろいた。

「幽霊としてのコツをつかんだって言うのかな。力の入れ方がやっと分かってきたんだ」

 子猫を高い高いしながら室内をくるくると回る音葉。

「しかし、都合良すぎないか? 幽霊としてどうなんだ、それ」

「そんなことないよ。幽霊だってモノにさわれてもおかしくないもん!」

「そうかあ? おかしいだろ、どう考えても」

「そんなことないってば! ポルターガイストとか、幽霊がモノ動かしたりするやつがあるじゃない? あれと原理は一緒だって」

 ああ、確かに。そういう事例があるにはあるな。

 思わず納得しかけたが、あれは幽霊というか悪霊の類だろう。

 音葉、もしかしてだんだん悪霊化していってるのか?

 次に怒らせるようなことをしたら、本当に呪い殺されるかもしれん。

 そう考えると朝から気が気じゃなかった。

「でもまあ、なにはともあれ、触れられるようになったなら良かったな」

 言いながら音葉の腕へと触れようと手を伸ばす。

「これで、俺がテレビのチャンネルをわざわざ変える必要もって──あれ?」

 しかし、音葉に触れようとした俺の手は、するりと音葉の身体を通り抜けた。

「え、なんで?」

 音葉も不思議そうに言葉をこぼす。

 もう一度音葉に触れようとするが、やはりその身体を捕らえることはできない。

 子猫を下ろした音葉も、俺の身体に手を伸ばすが、やはり俺の身体をスカスカすり抜けるばかりだった。

「え~、どうして~?」



 音葉が触れられないのは俺だけではなく、括りで言うと、人間ということになるようだった。

 それから学校に登校するまでの間、俺の家族、道を歩いている人と手当たり次第に手を伸ばしてみた音葉だったが、どうしても人に触れることはできなかった。

「なんでだろ? 他のモノにはちゃんとさわることができるのに」

 教室に入り、俺が自席に着くと、ため息混じりに音葉は、机の上に置いてあった消しゴムを手に取った。と、それを俺はあわててむしり取る。

「バカ、他の人にはおまえの姿見えてないんだから、そんなことしたらほんとにポルターガイストだろうが!」

「え? あ、そうか。ごめん」

 しゅんとして肩を落とす音葉。

「ま、まあ、人はダメでも他のモンにはさわれるようになったんだから大きな進歩じゃんか。今度は人にもさわれるようにがんばれよ」

「あはは、まさか悠太にがんばれなんて言われるとはね。でも、がんばるよ」

 音葉が笑う。

「うるせーよ、まったく」

 俺がふてくされるように顔を逸らすと、

「なーにさっきから独り言ばっか言ってんだ?」

 不意に後ろの席から声をかけられた。

「べべ、別になんでもねーよ」

「は? なにそんなに慌ててんだ?」

 焦って取り繕うとする俺に、変な奴だなと訝しげな顔を向けるこいつは、鈴成宗介。

 同じクラスの、まあ、いわゆる悪友という奴だ。こいつと出会ったのは高校に入ってからだが、なんとなく気が合い、よく一緒につるんでいる。

「まあいいや、そんなこと。それよりさあ、この間貸したアレ、どうよ?」

「アレってなんだよ?」

「アレって言ったらアレしかないだろうが。おまえの好きそうなの貸してやったじゃんか」

 そこまで話を聞いて、そのアレに合点がいく。そう、アレとは、例のアレのことだ。

 隣でふわふわ浮いている音葉をちらりと見るが、なんの事だか分かるはずもなく、不思議そうな顔をしている。

「いや、分かった。アレのことな、アレ。でも、今はその話は止めよう。いや、マジで今は止めよう」

 慌てふためいて宗介を制そうとするが、宗介もまたなぜ俺がそんなに慌てているのか分からず、

「大丈夫かよおまえ? なにかあったのか?」

「いや、なにもない。全然なんにもないんだ。アレのこともそう、全部おまえの気のせいだって」

 いよいよ怪しみ出す宗介。そして、なにか感づいたように、

「あー分かった! おまえ、俺の貸したエロ本、失くしやがった──」

「うあああああ! ふざけんなおまえ、公共の場でなんて単語を口にしてんだあああああああ!!」

 勢いで振り抜いた俺の右拳が宗介の顔面にスマッシュヒットする。宗介はもんどり打って、机をなぎ倒しながら教室の後方へと吹き飛んでいった。

 教室に女子の悲鳴が響く。

「はあ……はあ……」

 机の山に埋もれながら宗介がノビて目を回す。俺は肩で息をしながらも、すでに思考は宗介とは別のところにあった。

 今のはセーフだったのか? それとも……

 そう思った瞬間に、全身に悪寒が走る。

 足の先から恐怖が駆け抜け、その道筋そって鳥肌が全身に沸き立つ。

 殺される。

 本能がそう告げていた。

 背後からものすごいプレッシャーを感じる。その重圧でもう立っていることさえもままならない。

 恐怖で振り向けない。そこにはきっと、鬼がいるからだ。いや、それは鬼ではない。幽霊、もう言ってしまえば悪霊だ。

「あ、あの……音葉さん」

 振り向かずに、言葉だけを恐る恐るかける。

「へぇ~、エロ本。悠太、エロ本なんて読んでるんだ」

 殺気が増した。この空間はもはや、憎悪と怨恨にまみれた悪霊に支配されている。

 どこから沸いたのか、紫色の、靄のようなものが教室を包み込んでいく。

「いや、それはあいつが、宗介が無理やり俺に押しつけてきただけで、その……」

 そのとき、ガラガラと教室の扉が勢い良く開き、担任が顔を出した。

「よーし、みんな席につけー! ホームルーム始める──」

 と、教室の惨状を目の当たりにした担任が唖然として動きを止める。

 教室はなにか紫色の負のオーラに包まれ、机はなぎ倒され、教室の後ろでは男子生徒が目を回して倒れていた。

「これってもしかして……学級崩壊?」

 担任は恐怖におののく表情でそうこぼした。



 理不尽である。

 本当に理不尽だと思う。

 音葉はこういった、俗に言う不純なものが苦手である。というか、絶対に許さない。

 しかも、病院の時に俺に回し蹴りを仕掛けたり、頭を壁に打ち付けさせたりすることからも分かるように、その報復は非情にして非道である。たぶん、俺がアイドル好きなのをキモイとかクズだとかいうのもそうで、音葉はアイドルとエロいのを同等に考えているのかもしれない。

 でも、他の男どもが女の話や、エロい話をしていても怒ったところを見たことないので、その基準については全く計り知れない。

 昔は、風呂にも一緒に入ったっていうのに……。

 忘れもしない。この件で、初めて音葉にキレられたのは中学に入ったばかりのことだ。

 学校の帰り道、たまたま通りかかった川沿いの土手で、俺はたまたま見つけてしまったのだ。

 男ならば誰しもが分かるだろう。週刊や月刊のマンガ誌とは違う、妙にしっかりとした表紙と、法外なくらいの値段設定。そして、表紙にある18の文字には上から×印がしてあった。ちなみにこういった本、なぜかタイトルは○○クラブとつくものが多いが、一体それはなぜなんだろう?

 まあ、それはどうでもいい。とりあえず、中一の俺は、思いがけずして、そのセーラー服姿のお姉さんが表紙を飾る、薄での本を手に入れてしまったわけだ。

 俺はドキドキしながらも、意気揚々と家路を急いだ。帰ってからのことを考えると、ワクワクと興奮と、同時に沸き上がる罪悪感で、頭の中はちょっとしたお祭り状態だった。

 でも、それがいけなかった。

 俺は、油断していたんだ。

 バカみたいによだれを垂らしながら、ヘラヘラと妄想にふけっていた俺は、気づいていなかった。音葉の存在に。

 スキップなんぞをかましながら家の門をくぐろうとしたところで、俺は音葉に呼び止められた。

 それは俺にとって、世界の終わりに等しかった。

 なにをそんなに楽しそうにしているのか。音葉は尋ねたが、きっとその時、既に俺は楽しい顔などしていなかっただろう。

 別になんでもないと言い張ったが、それで引き下がる音葉ではなかった。

 尋問にも近い音葉の詮索が始まる。いや、それはもうほとんど拷問だった。

 土手で手に入れた、男のロマンと欲望とフェティシズムが詰まりに詰まったそれが、音葉によってカバンごと奪い取られたのは、それから程なくしてのことだった。

 かつあげにあった時って、きっとこんな感じなんだろうなと、涙ながらに思った。

 そしてその日、俺は川に沈められた。



 宗介が目を覚まし、倒れた机を元の位置に戻し、担任から若干のお説教を喰らって、それからホームルームはいつも通りに始まった。

 音葉は背後でずっと「呪い殺す、絶対に呪い殺す」とぶつぶつ呟いていた。そのうち音葉は本当に悪霊になってしまうのではないだろうか。そう考えると、恐怖で身がすくんだ。

 しかしまた、音葉が幽霊であって良かったとも思った。俺に触れられないだけに、この場で撲殺されないで済んだからだ。

 出席を取り、諸連絡を済ませたところで担任が改まって言った。

「みんなに、話さなきゃいけないことがある」

 クラスの生徒を注目させ、担任がきり出したのは、如月音葉の死だった。

 教室にどよめきが起こる。

 出席の際、音葉の名前は呼ばれなかった。

 音葉の死を既に知っていた者、驚きを隠せない者。割合は半々程度だった。

 それから社交辞令のような黙とうを捧げ、音葉の葬式の日取りを簡単に説明し、ホームルームは終わった。

 そして、いつも通りの授業が始まる。

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