6


「その心には、悪がある」

 風が吹きすさび、黒いローブがはためく。

「主よ、その悪行によって報い、その手の行為によって彼らに報復したまえ」

 胸の前で大きく十字を切る。足元に描かれた魔法陣が、詠唱に呼応して輝きだす。

「主は祝されよ。……汝、途に滅びん!」

 いかずちが閃き、雷鳴が轟いた。……ような気がした。

「……あんた、庭でなにやってんの?」

 振り返ると、姉さんが家の中からじっとりとした目で訝しげにこちらを眺めていた。冷たい視線が突き刺さる。

「いや、これはちょっと除霊の儀式を……」

「まったく、こんなときにバカなことしてないでよね」

 呆れたようにため息をつくと、姉さんは家の奥へと行ってしまった。しらけた表情が心に痛い。

 恥ずかしいところを肉親に見られてしまった。

 家の庭に白線で魔法陣を描き、大きめの黒いバスタオルをマントのように羽織って、悪だの主だの謎の言葉をのたまう俺をみて、姉さんはどう思っただろうか? なにか悪い病気にかかったのかと思われたかもしれない。

 だが、勘違いしないで欲しい。俺は決して中二病などではない。これは緊急事態故の行動なのだと、それを理解して欲しい。

「ところで音葉、今のはどうだった? なんか変化あったか?」

「どうって言われても……別になにも?」

 期待を込めて聞く俺に、音葉は自分の身体を見回しながら答える。

「だよなあ。やっぱり無理か」

「マンガのセリフ真似ただけなのに、上手くいくわけないでしょ」

「だって、他に思いつかなかったし」

 空中で俺を見下ろすように浮く音葉も、呆れ顔だった。

 俺はがっくりと肩を落とす。そこそこ良いアイディアだとおもったんだけどなあ。やっぱ本業の人じゃないとダメなのかなあ。

「ところで、さっきの悪とか悪行とか、一体誰のこと言ってたのかなー?」

 音葉の声色がにわかに冷たさを増す。見上げると、音葉の額に青筋がピクピクと浮いていた。

「いや、違うんだ。あれはその、言葉の綾っていうか、ただの冗談で……」



 一メートル五十センチ。

 それが俺と音葉が離れられる限界の距離だった。

「トイレと風呂は……ギリギリだな」

 部屋に戻った俺は、メジャーをするすると巻き取り、ベッドの上に投げ捨てた。

「ねえ、悠太。私分かったんだ」

 むしるような勢いで頭をかいていた俺に、音葉が改まったように言った。

「どうにかする方法が分かったのか!?」

「違う違う。分かったのは、私が悠太から離れられない理由だよ」

 知りたい? と、思わせぶりな態度をとる音葉。本当は、そんなことより離れる方法を教えてほしいのだが、一応その理由とやらを聞いてみる。

「私、悠太の守護霊になっちゃったんだよ」

「は? しゅごれい?」

 一瞬その言葉がどんな漢字で、なにを意味する言葉なのか理解できなかった。そして、我ながらバカ丸出しの顔を数秒間さらしてから、

「ああ、背後霊のことな」

「違うって、守護霊だってば」

 どっちだって同じようなもんだろうが。

 そう思ったが、音葉は妙にその守護霊というのを強調してくる。

「ほら、悠太って鈍くさくて私がいなくちゃなんにもできないじゃない? バカでスケベだし、それにすぐ泣くし。アイドルおたくのクズで変態だし、クズだし。だから私、悠太のことが心配で死んでも死にきれなかったんだよ、きっと。それで悠太の守護霊になっちゃったんだと思う」

 もう、死人にまで心配かけて、悠太ったらしょうがないな~。と、なぜかうれしそうに身体をくねらせる音葉だったが、俺は問いたい。そんなボロクソにこき下ろすようなやつの守護霊なんかで本当に良いのかと。そしておまえの言葉は理不尽すぎる。

「それにね、私頼まれたんだ。悠太のこと頼むって」

「頼まれた? 誰にだよ」

「事故に遭った時、気がついたら悠太の後ろにいたって言ったじゃない? あの時実は、隣に知らないおじいさんがいてね。白髪で腰の曲がったすごく優しそうな人だったんだけど、その人が『ゆう坊のこと、どうかよろしく頼みます』って」

 優しそうなおじいさんって、それってまさか。三年前に死んだ、俺の……

「そのおじいさん、それだけ言うと急に右手を挙げて、無理やり私にハイタッチを強要してきてね。思いっきり手を打ち合わせて、『ターッチ!』って大声を上げたかと思うと、『ばあさん、今行くからなああああ!』って叫びながらものすごい勢いで空に昇って行っちゃったの」

「──じいちゃあああああああん!」

 俺は窓を開け、青く澄んだ空に向かって叫んだ。

 優しくて気が弱くて、その割にエロくて女好きだったじいちゃん。俺は幼少からずっとじいちゃんに似ていると言われ続けてきた。そんなじいちゃん。

 やっと成仏できたんだな。というか、ずっと俺に取り憑いてたのかよ。

「天国でもばあちゃんと仲良くやれよ」

 さわやかな秋の風を感じながら、俺は目尻に薄く滲む涙を拭った。



 それから今後のことを少し話して、とは言ってもなんの進展もなく、ただ簡単な生活のルールみたいなものを決めただけなのだが……主に音葉が。

 決めた内容も非常にくだらなく、月曜は見たいドラマがあるから夜九時には家にいることとか、毎月二十日は雑誌の発売日だから買って欲しいだとか、俺のプライベートと財布の中身がどんどん削られていくような内容ばかりだった。

 ここで、昨日風呂にも入っていなかったことを思いだした俺は、とりあえずシャワーを浴びることにした。

 廊下と脱衣所の壁、脱衣所と風呂場の扉を上手く仕切りにして、音葉に見られないようにしてシャワーを浴びる。

 扉越しに、音葉の気配が感じられた。

「ねえ、悠太」

 しばらくシャワーを浴びていると、音葉が声をかけてきた。

 俺はぶっきらぼうに、なに? と返事をする。

 音葉は少し躊躇するように、

「あの……ごめんね」

 消え入りそうな声で、そう言った。

「私、うざいよね。離れられないとか。……悠太、きっと邪魔だよね? ごめんなさい」

 思わず言葉を失った。振り返ると、擦りガラスの扉越しに音葉の姿があった。その背中は、いつもよりずっと小さく、力なく見えた。

 音葉が謝った。あの意地っ張りで、俺になんて一切お構いなしの音葉が。

 もしかしておまえは今、泣いているのか?

 昨日の、自分の死にさえ気丈に振る舞い続けたおまえが。

「なにを……なーにを言ってんだよ、おまえ」

 俺はできるだけ明るい声で、さもそれがどうでもいいことのように言った。

 その瞬間、音葉の肩がぴくりと震えたのが分かった。

「生まれてこの方、おまえとはずっと一緒にいたんだ。今さらその距離が少し縮まったくらいなんでもねーよ。それに、迷惑かけられるのだって今に始まったことじゃないし。音葉がうざいのなんてもう分かり切ったことだろ」

 音葉は他人思いで優しくて、人一倍正義感が強いから。でも、それは自分の弱さと不安の裏返し。音葉に本当に必要なのは、頼りにしてくれる人じゃない。優しくしてあげる人が必要なんだ。

 だから、あんまり背負いすぎるなよ。

「……ひどいなー、悠太は。女の子にうざいなんて普通は言わないよ? もう、ほんと全然優しくないんだから」

 少しだけ、音葉の声が和らいだ。柔らかな声色でそう言う音葉は、どこかうれしそうに思えた。



 夕方近くになり、両親が帰ってきた。

 帰ってくるなり姉さんと一緒にリビングに呼ばれ、葬式には学校を休んで参列するようにと言われた。

 俺が、音葉が助けた子猫を飼って良いかどうか聞くと、両親は少し困った顔をしていたが、音葉の両親にも聞いてみないと分からないが、とりあえずはウチで面倒をみるということになった。

 音葉は後ろでずっと暗い顔をしていたが、この時ばかりは笑顔を浮かべていた。

 夕飯を食べて部屋へ戻ると、音葉はいの一番に、出迎えた子猫を抱き上げ──ようとして失敗していた。

 床に寝そべるように、子猫と目線を合わせた音葉は、頬を膨らませながら「やっぱさわれないのって不便」と愚痴をこぼした。

 音葉の助けた子猫だが、どうやら頭の良い猫らしく、部屋に残しておいてもおとなしくしているし、トイレも所定の場所を教えたら、きちんとそこでするようになった。

 今は、買ってきてやった猫用の缶詰を旨そうに食べている。もしかしたらどこかで飼われている猫なのかとも知れないと思ったが、帰ろうとする様子もないし、音葉にも懐いているようなので、ノラだったのだろうと勝手に結論づけた。

 こいつには音葉の姿が見えているらしく、何度も音葉に身体を擦り寄せようとしては、その度に床を転がっていた。

「なんで、おまえと俺には音葉の姿が見えるんだろうな?」

 独り言のように言う。動物は元来、霊感が強いと言われている。ならば、俺も動物並のものを持っているのだろうか。しかしこれまでの人生、心霊体験なんてものとは一切無縁の生活を送ってきたのに。

 音葉は、見たい番組があるからと言って俺にテレビをつけさせると、ベッドの上を占領してテレビを見始めた。どうせ浮いてるんだから、わざわざベッドに寝そべる格好をしなくてもいいんじゃないだろうかと思ったが、俺は黙ってイスに腰を下ろした。

 やがてドラマが始まる。それは特命係というよく分からない配属の、窓際刑事二人が活躍する刑事ドラマだった。

 食い入るようにテレビを見つめる音葉をなんとなしに眺める。

 髪を後ろで一つに束ねた音葉は、ショートパンツに薄手のパーカーを着ていた。たぶん普段の部屋着なのだろう。

 淡い茶色がかった髪の間から見え隠れする、白いうなじに思わず視線が釘付けにされる。

 首筋から二の腕にかけて視線を移動する。細すぎず太すぎず、女の子らしい柔らかそうな肉付きの腕。胸は未だに発展途上に思えるが、あの音葉が随分女らしくなったものだと感慨深くもあった。腰から足へのラインも細く、チラチラと目に入るふとももが目に毒だった。

 ドラマがCMに入り、俺の視線に気づいた音葉がなにやら恥ずかしがるような、非難するような複雑な表情を向ける。

「あーっ、今私のこと見てたでしょ? ダメだからね、エッチなこと考えても。悠太みたいな子供にはまだまだ早すぎです」

 バカにしやがって。

 触れられないというのは本当に不便だ。

 いや、変な意味じゃなくて。

 一発ど突いてやりたい衝動にかられたが、その気持ちを抑える。

 その後、番組が終わる三十分、一時間ごとに音葉はテレビのチャンネルを変えるように俺に指示してきた。まったくもっていいパシリだ。

 本当、モノにさわれないというのは不便だ。

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