4

 朧気な意識の中、俺を呼ぶ声が聞こえた。

「悠……太……悠太、くん……」

 耳をくすぐるような、やわらかな声。

「悠太くん……悠太くん」

 おと……は……?

 最初に思い浮かべたのは、幼馴染の顔だった。

 でも違う。音葉は俺のことを君付けで呼んだりしない。

 じゃあ、この声は……

 ゆっくりと目を開くとそこには、少女の姿があった。

 俺の上に馬乗りになり、ゆり起すように優しく俺を呼び続けている。

 視線を少女に走らせる。俺の腹部にまたがる、白く細いふともも。赤のチェックにフリルのついたスカート。白いブラウスに、スカートと同じ柄のチェックのベスト。

 そこまで見て、俺は理解した。

 これは夢だ。俺はまだ夢の中にいるんだ。

 そして俺の上にいるのは、国民的アイドルBKR46のまゆゆだ。音葉や姉さんとは違う、優しいまゆゆだ。

 まゆゆが、俺のことを優しく起こそうとしている。

 優しいまゆゆ、かわいいまゆゆ、まゆりんまゆりんまゆゆゆゆ~。

 やばい、夢だというのに興奮してきた。どうしよう。

 いや、どうもしない。そしてどうしようもない。

 さあ、まゆゆ。俺の癒しの天使よ、どうか、どうか俺の妹になっておくれええええええっ!

 身体を起こしてまゆゆを抱きしめようとする。

 しかし俺は、両腕を広げた状態まま、驚愕の表情を深く刻んでフリーズした。

 そこにいたのは、BKR46の衣装を身にまとった……音葉だった。

 ご丁寧に、ハーフツインテの髪型までまゆゆと一緒にしてある。

「おはよう、悠太くん。まゆゆだゆん♪」

 両頬に人差し指をあて、にっこりと笑って首を傾げてみせる少女。だがそれは決してまゆゆではない。残念なことに、悔やまれることにそれは、まゆゆとは真逆の存在である幼馴染みの音葉に他ならなかった。

「なんでだああああああああああああああ!!」

 俺は絶叫した。

「なんで俺の上に馬乗りになってるんだ! なんでBKR46の衣装着てるんだ! まゆゆは語尾にゆん♪ とか付けねーぞ! っていうか、なんでまゆゆのマネしてんだ! そしておはよう! ……はあ……はあ……」

 息が切れ切れになりながらも、状況に対して一気に突っ込みきる。

 音葉は俺の絶叫から逃れるように、天井近くを嬉しそうにふわふわと浮いていた。

「おはよう、悠太。ねえ、見て見て。どうこれ、かわいいでしょー」

 あいさつもそこそこに、音葉は身にまとう衣装を見せびらかすように、空中でくるりと回ってみせる。

 高いところで回るもんだから、寝起きからスカートの裾辺りが気になってしょうがない。

「その服どうしたんだよ? BKRの衣装じゃんか」

 音葉の身につけてる衣装は、間違いなくアイドルグループBKR46のステージ衣装だ。

「ねえ、まゆりんまゆりんまゆゆゆゆ~ってなに?」

「ぐはっ!」

 さっきの声に出てたのか。俺としたことが……

 蔑むような目で見下ろす音葉に、思わず言葉が詰まる。

「そ、そんなのどうでもいいだろ! ヒトの質問に答えろよ」

「あれあれ」

 言って音葉は、壁に貼られた一枚のポスターを指さした。そこに写っているのは、BKR46の田辺まゆ。国民的アイドルの一人だ。

 頭に疑問符が浮かぶ。

 ここは俺の部屋だ。そして、あのポスターを貼ったのも俺自身。間違いようがない。だが、それが一体なんだというのか。

 意図するところが理解できずに首を傾げて振り向くと、音葉はどん引きしたように、ありえないほどに人を軽蔑した表情で、

「悠太、まだアイドルとか好きなんだ。……キモ」

「謝れええええええええっ!! 全国のアイドル好きに土下座しろおおおおおおお!!」

 いやいやいや、なに今の表情。人を小馬鹿にしてるとかそんなレベルじゃねーよ! 今の、完全に汚物をみる表情だったよ。駅で痴漢やって捕まった人を見る目だろあれ。人間を見る目じゃねえ! つーか、人としてそんな顔していいのかよ!

 再度絶叫する俺を見て、音葉はおかしそうに空中をくるくると笑い転げる。

「冗談だって。悠太はすぐにムキになって、ほんと子供だなあ」

 音葉は「ちょっと見てて」と言うと、ベッドに腰掛けた俺の目線まで降りてきて、「んん~」と拳を握って全身に力を入れ始めた。

 一体なにやってんだと思って見ていると、次の瞬間、ポンッと安っぽい破裂音とともに、音葉の身体から白い煙が上がった。

 驚いて、後ろに仰け反りそうになる。

 そして、消えていく煙の中から現れた音葉はなんと、昨日と同じ、ブラウンのブレザー姿。高校の制服姿に変わっていた。

 腰に手を当て、どやあと言わんばかりに胸を張る音葉。

「どう? すごいでしょ」

「早着替えか?」

「……その反応はちょっと、どうかと思うなあ」

 厳しいお言葉をいただいてしまった。

 音葉は呆れたように、わざとらしく大きなため息をついた。



「つまり、イメージした服にならなんにでも着替えられると?」

 膝の上で丸くなる子猫を撫でくり回しながら、音葉の言葉に耳を傾ける。

「そうなの。ドレスでも制服でもなんでも出せるの」 

 興奮気味に語る音葉は今、ニットにデニムのショートパンツというラフな格好だった。 

 明け方、壁に貼ってあったポスターに気づいた音葉がなんとなしにそれを見つめていたところ、この能力に気づいたという。

 朝っぱらから一体なにやってんだか、俺を起こすまでずっといろいろな服に着替えて遊んでいたらしい。

「でも、なかなか難しいのよね。うまくイメージが固まらないと着替えられないの。だから、普段着なれた服とか写真がないと上手くいかないんだ」

 空中元素固定装置みたいだなと、音葉の説明をぼんやり聞き流していると、「ちゃんと聞いてるの?」と怒られた。

「んで、あの煙は何なんだ? 服を形成する元素かなにかなのか?」

「え、元素? あれは、ただの目隠しじゃないの? 煙がなかったら、着替えるとき恥ずかしいじゃない」

 なんという都合の良い能力なのだろう。着替えを見られたくないと恥じる乙女の純血と純情を守るために、目隠しの煙幕まで発生させてしまうとは。……って、ほんとかよ。

 胡散臭いことこの上ないこの状況に呆れた笑いを浮かべていると、部屋のドアがノックされた。

 返事をする間もなく開けられたドアから姿を見せたのは、俺の姉、宮本詩織だった。

 茶色の髪を後ろでまとめたポニーテールを揺らしながら、ずかずかと人の部屋へと無断で入ってくる。

「悠太、起きたんならご飯食べちゃいなさい。あんた昨日、結局夕飯食べなかったんでしょ?」

 ドアを勝手に開けたことにはなにも言わない。そんなことを今さら言ったところで無駄だということは既に分かり切っているからだ。

 姉さんは俺の四つ年上で、今は大学二年生だ。今ので分かったと思うが、姉さんは非常にずけずけとした性格で、弟の俺のことをただのパシリくらいにしか考えていない。

 また音葉と昔から仲が良く、俺なんかよりも音葉と姉妹だと言った方が万人の理解を得られると思うほどだ。音葉は残念なことに、多分にこの姉の影響を受けてしまっている。きっと姉さんがこんな性格でなければ、音葉ももっと優しい子に育ってくれたのではと時々思う。そう考えると、人生悔やむに悔やみきれない。

「詩織さん、おじゃましてまーす」

 姉さんの姿を見た音葉が、反射的に挨拶をする。いくら挨拶しても、音葉の声は聞こえないし、姿も見えないというのに……

「あら、音葉ちゃんいらっしゃい」

「えっ?」

 思わず驚きの声を上げる。同様に、音葉も驚きの表情を隠せないでいた。

 見えてるのか?

「姉さん、今……」

「あれ? おかしいな……」

 しかし、俺たち以上に驚いた表情を浮かべていたのは姉さん自身だった。

「今、音葉ちゃんの声がしたような気がしたんだけどな」

 姉さんは辺りをきょろきょろと見回しながら、やがてその瞳に涙をためていく。

「姉さん」

 思わずかけた俺の言葉がきっかけになったのか、堰を切ったように大粒の涙が姉さんの目から流れ落ちる。

「ごめん、私。我慢してたのに。おかしいな、音葉ちゃんの声……聞こえた気がしたのにな。ごめんね、悠太。ごめん……私……」

 ごはんできてるから、ちゃんと食べるのよ。嗚咽の混じる声でそれだけ言い残すと、姉さんは顔を押さえて部屋を小走りに出て行ってしまった。

 後味の悪い沈黙だけが部屋に残る。

「……お腹すいたんでしょ? ご飯、食べちゃいなよ」

 確かに昨日の夕方からなにも食べていなかった。体は正直で、音葉のその言葉に腹の虫が催促の声を上げそうだった。

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