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 それから三十分に及ぶ討論と検証の結果、結局音葉は幽霊になってしまったということで結論づいた。

 俺の伸ばした手が、音葉の形の良い頭を捕らえることはない。そまますり抜け、腕がスッと音葉の頭を貫通する。感触は一切なく、まるで影や映写機からの映像に触れようとしている感じだった。

 何度やっても結果は同じで、音葉は壁やベンチ、あらゆる物に触れることができなかった。さらに、音葉の姿は他の人間には見ることができないようで、廊下を行き交う医者や看護婦、すべての人が音葉に気づくことはなかった。

 その音葉はと言うと、物にさわれないのならばなんで立ってられるんだろうという疑問から、自分が宙に浮かべるという事実に行き着き、気に入ったように四十センチ位の空中をふわふわと浮遊している。

 と、そうこうしている内に、事故の一報を聞いた音葉の両親が病院にやってきた。

 最初にやって来たのは音葉の母親で、血相を変えて飛び込んできたその表情は、まるでこの世の終わりのようだった。

 俺が事故の経緯と、今音葉のオペが行われていることを一通り伝えると、おばさんは落胆したように力無くベンチに座り込んだ。

 その数十分後、音葉の父親も到着し、同じく俺に経緯を聞いた後、おばさんの隣に腰を下ろした。

 どうやら二人にも幽霊の音葉は見えていないらしかったが、このことは音葉の言わないで欲しいという願いから黙っていた。


 俺は、おじさんとおばさんから少し離れたベンチに腰を下ろしていた。足下では件の子猫が丸くなり、隣には音葉がふわふわと浮いている。

 おじさんたちはあれから、ほとんど会話をすることもなく、押し黙ったままだった。時折おばさんのすすり泣く声が、静まり返った廊下に響く。

 おじさんたちの心境を考えればそれは当然なのだが、隣で浮いている音葉を見ると、俺はいまいち実感がわかず、居心地の悪さを覚えていた。

「しっかし、幽霊なんてほんとにいるもんなんだな。あんまりクッキリしてるから、幽霊だなんて思いもしなかっ──」

 俺が何気なく伸ばした手に気づいて、音葉が顔を真っ赤にしてそれを避ける。

「ちょっ、やめてよ! 今、胸さわろうとしたでしょ!?」

「バ、バカ、おまえなに言ってんだ! そんなわけないだろ! だいたいおまえ、身体にさわれないんだから意味ないだろうが!」

「そういう問題じゃないでしょ! まったくやーね、男子って。こんな時でもエッチなことしか考えてないんだから。ねー、ネコちゃん」

 子猫が音葉に同意してなのかどうかは分からないが『みぃ』と一声鳴いた。

 自分の胸を抱きながら、じっとりとした目でこちらを睨む音葉に、なにか悪寒のような物が走る。

「……呪い殺すとか、やめてくれよな?」

「んなことしないわよ!」

 言って音葉が大振りな回し蹴りを放った。思わず両腕を立てて防御の体勢を取ったが、霊体の音葉の蹴りが当たるはずもない。「あっ」と、音葉が驚いたような声を上げたが、蹴りは俺の腕と頭をするりと通り抜け、勢い余った音葉がその場で一回転する。と、そのひょうしにまくれ上がったスカートから真っ白に輝くそれが目に飛び込んできた。

「しろっ」

 まずい、口が滑った。思わず声に出してしまった。すぐさま口を塞ぐがもう遅い。

 見上げると、顔を更に真っ赤にした音葉が、頭からふつふつと湯気をあげてスカートの裾を必死に押さえていた。まさに怒り心頭といった様相である。

「絶対に呪い殺す!」

「結局呪い殺すんじゃねーか」

「……壁に、頭を打ちつけなさい」

「は?」

「頭を壁に打ちつけろって言ってるの! 罰よ、ばつ!」

「なんで俺が自分で頭を打ちつけなきゃなんないんだよ?」

「さわれないんだからしょうがないでしょ! いいから早くやりなさい」

 何なんだこの理不尽な命令は?

 もはや俺の理解を超えていた。この一連の流れ、どこをどう考えても俺が罰を受けなければいけない理由が一切見あたらないのだが。

「なんだよパンツ見られたくらい、昔はそんなもんいくらでも──」

「ああ?」

 そんなささやかな俺の抗議は、音葉の鬼のような一睨みによって、一瞬で無効化された。

 これ以上音葉に逆らうのは無駄である。というか逆効果である。後を考えるのも恐ろしい。

 静かな病院の廊下に、鈍い音が響きわたった。


「それで、おまえちゃんと元の身体に戻れるのかよ?」

 痛む頭をさすりながら聞く。

 やり直しを食らうことを恐れた俺は、思い切りコンクリートの壁に頭を強打した。打ちつけた瞬間、音に驚いたおじさんが訝しげにこちらを眺めていた。

「うーん、どうなんだろ? 分かんないなー」

「分かんないってなんだよそれ。戻れなかったらどうすんだよ?」

「大丈夫だよ。たぶん、なんとかなるよ」

「たぶんっておまえ……」

 音葉が言葉を濁す。そんな音葉の様子に微かな不安と焦燥を覚えたその時、手術室の扉が開いた。

 どれほどこの瞬間を待ちわびたことか。それはまるで長らく閉じられていた天岩戸が開かれた時のような。

 おじさんとおばさんが立ち上がり、中から出てきた手術衣姿の医者に駆け寄っていく。

「やっと、終わったみたいだな」

「うん」

 俺はなにか解放間のようなものを感じ、立ち上がって大きく伸びをした。

「早く身体に戻らないとな。さわれないし、他の人に見えないんじゃ不便だし、おまえが戻らないと身体も起きないんだろ?」

「…………」

 不意に音葉が押し黙る。

「音葉?」

 窺うが、うつむいた音葉の表情はよく見えなかった。

 そして、音葉は短くこう告げた。

「無理だよ」

「え? おまえ、なに言って──」

 無理? 無理って……

 その瞬間、衣擦れとなにかが落ちる音がして、俺は背後を振り返った。

 おばさんが、膝から床に崩れ落ちていた。

 医者を押し退けるようにして、おじさんが手術室へと駆け込んでいく。

 焦燥が、心臓を締め付けた。

「なあ、これって……これって……音葉……?」


「無理だよ……私、死んだんだよ」

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