第一章 オムライス
1
如月音葉は俺、宮本悠太の幼馴染みである。
家が隣どうしでかつ同い年だということもあり、生まれた頃から兄弟のように育ってきた。初めて会ったときの事なんて覚えているはずもない。物心がつく前のことだ。
俺が言うのもなんだが、音葉は明るくまっすぐな女の子だ。面倒見が良く、正義感が強い。たぶん本人は正義感が強いだなんて微塵も思ってはいないのだろうが、自分の信念にそぐわないことはとことん許せない質らしく、後先考えずにつっぱしることもしばしばある。まあ、俺からすればただの迷惑でお節介なやつなのだが……
勉強もできて他人思いな音葉は周囲から人気があり、大人からの評価も高い。そんな音葉にくっついてきた俺はというと、なるべくしてなったというべき落ちこぼれである。
とは言っても、それほど出来が悪いわけではなのだが、いかんせん出来すぎた音葉には遠く及ばない。そんな音葉と事あるごとに比べられ続けた俺は、その度にナイーブな心に深い傷を受け、今となっては見事に擦り切れたガラスの十代というわけだ。
うん、よく分からんな。
とりあえず、これまでの俺の人生は、音葉の金魚のフンでしかなかったという事だ。
さて、そんな俺だったが高校に入ってちょっとした転機を迎える。反抗期というやつだ。しかしそれは親に対してではなく、情けなくも幼馴染みの音葉に対しての反抗期だった。
当たり前のように音葉と同じ高校を選んでしまった俺だったが、いい加減比べられるのも、引っ張り回されるのもイヤになっていた。
しかし、反抗とは言っても特になにをするわけでもない。ただ、少し音葉と距離を置くようになった、それだけだった。それが、チキンな俺にとってのささやかな抵抗の限界だった。
そんなこんなもあって、音葉と一緒に下校するのは割と久しぶりのことだった。
合唱部に入っている音葉は、放課後には練習がある。なので帰りが一緒になることはほとんどないし、最近ではあいさつもせずに帰ってしまうのが普通になっていた。だが、今日に限ってはなぜかチャイムと同時に音葉に呼び止められた。
「今日は部活ないから一緒に帰ろうよ」
笑顔で机の前に立ちはだかる音葉。こういうとき、俺には拒否権なんてものは一切与えられない。顔だけで抗議を示してみるが、そんな事は全く意味のないことだと分かっている。しぶしぶ立ち上がると、スクールバックを肩に担いで意気揚々と歩き出す音葉の後に無言で続いた。
もう一つ、如月音葉について言っておかなければならないことがある。
如月音葉はそれなりにかわいい。
それなりというのはあくまで俺の主観であり、幼馴染みという色眼鏡を通しての感想なのだが、音葉はなぜか男子連中に人気が高い。特にこの春、高校に入学してからというもの、その傾向は顕著に現れている。
連れだって教室を後にする俺たちの姿に、周囲にどよめきが起こる。主に男どもからの敵意の見え隠れする視線が恐ろしい。
一体なにを勘違いしているのだろう。これは女子と帰りに寄り道デートとか、そんな青春の甘酸っぱさを謳歌するような代物では決してない。生まれた頃から一緒の幼馴染みの俺にとっては、ただの強制連行に他ならない。
音葉は他人に優しいくせに、俺にだけは情け容赦がない。羨望と殺意の入り交じる視線に肩身を小さくしつつ、俺はこっそりと財布の中身を確認してため息をついた。
こづかい日、まだ先なのに……
そんなことを思っていた。
そんなくだらないことしか考えていなかった。
その帰り道、まさかこんな事が起こるなんて思いもしなかった。
誰も予想もしなかったし、誰も願いはしない。
音葉が、交通事故に遭うなんて……
それからすぐに救急車が到着した。傍らで呆然と立ち尽くしていた俺も、一緒に救急車に乗せられた。
程なくして街の総合病院に到着し、慌ただしく音葉の身体が手術室に運び込まれていく。
そして俺は、廊下に取り残された。
テレビでしか見たことのない様々な医療器具をつけられた音葉を見て、これは本当におおごとなのだと今さらながらに実感せざるを得なかった。
心電図が描く波は不規則で荒々しく、だがとても弱々しかった。
タンカに乗せられた音葉の身体は、息を飲むほどに真っ青だった。
怖いと思った。音葉を見て、怖いと感じた。
廊下のベンチに力なく腰を下ろす。
なのに、なのに……なぜだろう?
……何なんだろう。
一体この状況は、何なんだろう?
音葉が、俺の隣でバカ笑いを上げている。
「いや~、さっきのは傑作だったね! いくら私の事が好きだからって泣きすぎだろ、自分」
カラカラと、人を小馬鹿にしたように音葉が笑う。
おかしい。一体何なんだこれは。
おちつけ宮本悠太。
俺は深呼吸をして心を落ち着けようとする。
今のこの状況をなんとか整理しなければ。
じっとりとした汗を額に滲ませながら、俺はいまだに腹がよじれるほど笑い転げている隣のそれを見やった。
「おまえ、今手術室に運ばれてったよなあ?」
「え? うん、そうだね」
さらりと言ってのける。
「おまえ、音葉だよな?」
「は? 今さらなに言ってんの。交通事故にでも遭って頭打ったんじゃない? ……って、それは私かあ。いやー、しかしあれは驚いたね、なんとかなるかと思ったら全然なんとかなんないんだもん。音葉さんびっくりだよ」
上機嫌に一人ノリつっこみをかます音葉に、俺は頭を抱えた。
なんでこいつこんなにテンション高いんだ? 頭が痛くなってきた。
「ちょっと落ち着けよ。俺、今混乱しそうなんだ。まじめに答えてくれないか?」
切実に訴える俺に、音葉はやっとバカ笑いをやめ、「分かった」と言って、制服のスカートの裾を押さえながらベンチの上に正座してこちらに向き直った。
俺はまた深呼吸を二度ほどし、なんとか落ち着いたところで話を切り出す。
「帰り道で、音葉は交通事故に遭った。これは間違いないよな。夢ってわけじゃないよな?」
「うん、びっくりしたよ~。本気でぶつかってくるんだもん、あのトラック」
それはおまえが道路に飛び出すからだろ! そう言ってやりたい気持ちは山々だったが、また話が逸れそうだったのでグッとその衝動をこらえる。
「で、事故に遭ったおまえと、付き添いの俺はこの病院に連れてこられたと……」
音葉がコクコクと頷く。
「じゃあ、さっき手術室に運ばれて行ったあれは?」
「あれは、私だね」
なんの疑問もないように、当然と言わんばかりに即答する音葉。俺は隣に正座するそれを恐る恐る指差し、
「……じゃあ、おまえは?」
「私? 私は私に決まってるじゃん。もお、さっきから何回も同じ事聞いて、悠太バカなんじゃない?」
「バカはおまえだあああああああ!」
ついに俺は絶叫した。
「運ばれてったのが音葉だったらおまえは何なんだよ!? なんで音葉が二人いるんだよ!?」
大声を上げる俺に、音葉は両耳に指を突っ込み、さも嫌そうな表情をつくる。
「えー、知らないよそんなことー。私に分かるわけないじゃん」
「おまえが分からなかったら、一体誰が分かるっていうんだよ!」
「もう、うるさいなー。大きい声出さないでよ。病院なんだから静かにしないと怒られるよ?」
「……あ、すまん」
さっきまで大声でバカ笑いをしていたやつに言われるのはしゃくだったが、思わず謝ってしまう情けない俺の性分。
「私もよく分かんないのよ。トラックに跳ねられて、気がついたら私を抱きかかえる悠太の後ろに立ってたの」
自分で自分を見てるって変な感じだったーと、どこか感慨深げに言う音葉に、俺の脳裏に一抹の不安がよぎる。
「気づいたら後ろにいたって、それっておまえまさか──」
『みぃ……みぃ……』
と、突如聞こえた鳴き声に、俺の言葉が中断される。
声のした足元を見やると、そこには一匹の子猫がちょこんと座っていた。
「こいつは……」
薄茶の毛皮に、こぼれそうな目をしたその子猫は、さっき音葉が助けた子猫だった。こっそり救急車に乗り込んでここまでついてきてしまったのだろうか。もの言いたげに音葉をじっと見つめている。
「ネコちゃん無事だったんだ! よかったあ、身体はったかいがあったよ」
音葉は顔を綻ばせてベンチから降りると、子猫の隣にしゃがみ込む。
子猫もうれしそうに、まるでお礼を言うかのようにみぃみぃと鳴きながら音葉の足に身体をすり寄せる。
と、子猫の体が支えを失ったようにそのまま倒れた。
「えっ?」
俺と音葉が同時に声を上げる。
子猫が音葉の足をすり抜け、床に転がり倒れたからだ。
「うそ……」
驚きの声を上げて音葉が子猫に手を伸ばす。しかしその手はまるで雲をつかむように子猫の身体には触れず、右へ左へと空を切るだけだった。
やがて、音葉が絶望したような表情で俺を見上げる。
一瞬の逡巡の後、俺はさっき言えなかったその言葉を口にした。
「おまえ、まさか……幽霊になっちまったのか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます