第8話 釣 狐

 シェアハウス「大江山」に居ついてはや一週間が過ぎた。毎日酒を飲んでスゴロクしていると日が昇って沈んで終わりである。酒もスゴロクもどこからか無限に出て来たし、パイ投げとかをやって部屋中グチャグチャにしてもいつの間にか自然に片付いていた。あるいは寝ている間に千年の時が過ぎ去っていて、それで汚れが風化しただけなのかもしれない。「一週間が過ぎた」というのは錯覚かもしれない。時間感覚がはっきりしない、とにかくそういうハウスなのだった。


 そのような中で、正尊はよく正気を保っていた。多くの人間はこうしたハウスには向いていない。人間も似たようなハウスを作る時はあるが、その実情は全く違っている。まず、人間には死があるから、さまざまな感覚が死を前提に構成されている。「時間は有意義に使わないといけない」という感覚もその一つで、このために、大抵の人間は長時間ダラダラしていると空しさを感じ始める。彼らは「永遠の命……そんなものがあればさぞ退屈であろう」などと想像の内に言う。しかし事実は、「退屈」というのは死のある生き物に特有の感覚なのだった。妖魔は「退屈」しない。おれが「退屈」に敏感なのは、おれの中に人間が混ざっているせいなのだ。


 そう、おれは若干飽き始めていた。酒にもスゴロクにも飽き、手すさびにウーロン茶やらワインやらを混ぜて遊んでいると、横で正尊が写経を始めた。ちょうどいい、こいつに飲ませるとしよう。何といっても妖魔には、人間をからかうことにまさる楽しみはないのだ。


「正尊よ、精が出るのう。ご褒美に、狐娘の特製ドリンクなどいかがかな」


「その手には乗り申さん。先日尿を飲まされたばかりにそうろう


 すげなく断られる。ちっ、既に警戒されてるか。おれはめげずにでたらめを重ねる。


「いやいや、あれは薬効がちと強すぎたのじゃ。今日のはソフトドリンクだけで調合してあるによって、お口にソフト、効能もソフトじゃよ」


「……酒臭うござる。それがし出家しゅっけにて、飲酒おんじゅは控えて候」


「じゃが、酒呑しゅてんちゃんの酌は受けておるではないか。わしの酒だけは飲めんと申すか?」


「酒呑殿は……宿の主人ゆえ。一宿一飯の恩義ゆえ……」


 酒呑童子の名を出すと、正尊の表情はわずかに曇る。おれはそこを突いて動揺を誘おうとする。


「一宿っていうか、もう一ヶ月にもなるらしいの。いやあ、いい男は辛いのう。引き留められておるんじゃろ?」


「……それがしは熊野参詣さんけいの途中。いつまでもここに留まるわけにはゆかぬのだが、酒呑殿が今夜だけ、今夜だけと夜伽よとぎを申し付けられる間、ずるずると……」


「うんうん、体力的にも毎晩は辛いじゃろう。どうじゃ、このドリンクには強壮効果もあるぞ」


「はっきり申し上げておくが、想像めされるような事実はあり申さん。それがしは出家にて、邪淫じゃいん妄語もうごいずれも控えて候。ただ、東国の話をお聞かせしているだけにて候」


 ちぇっ、だめか……。おれは諦めてその場を離れた。


 それにしても酒呑童子の奴、本当に手をつけていないのだろうか。思ったより紳士的な奴だ。茨木に教えてやったら喜ぶだろうか、それともかえって取り乱すだろうか。おれはとりあえず裏を取るため、酒呑童子にも訊いてみることにした。何といっても妖魔には、ゴシップにまさる楽しみはない。


「酒呑ちゃんよ、特製ドリンクはいかがかな?」


「お、良いところに。丁度新しい酒が届いたところなんだ。一杯やっていきな」


 酒呑童子は逆に杯を押し付けてきた。今日はいつもの幼児姿より少し年上、ティーンエイジの外見である。赤い甚平に赤めのうの眼鏡、手にしてるのが酒瓶でなければ、さながら読書少年といったところか。こいつの姿は気分次第なのだ。


「しょうがないのう、付き合ってやろ。ときに酒呑ちゃんよ、正尊を手込めにはせんのかえ?」


「あけすけなやっちゃな。まあねぇ、れも乱暴なのはイヤだしね……」


「そうなの?」


 おれは渡された杯を飲み干し、聞き返す。酒呑童子はおかわりを注ぎながら答える。


「そうよぉ? それにれ、昔『僧に手荒な真似はしない』って誓いを立てさせられたんだよね。だから、ハウスでは僧を殺生しないことになってる」


「ふーん。じゃあミッちゃんはどうなんじゃ? 僧じゃないのでは?」


 おれが再び杯を干しながら問うと、酒呑童子はおかわりを注ぎながら答える。


「あの源氏の男は、あれはあれで面白そうだからね。まぁ、面白くなかったらもう殺しちゃってるよね」


「そんなもんか~」


 おれは駆けつけ三杯のテキーラを干したところで脱出した。一言喋るたびに一杯飲ませるつもりのようだが、お天道様も高いうちからそんなに飲みとうない。


 とはいえ酔いが回りかけたおれは、深呼吸しに裏庭に出た。「大江山」は深山にあるので、まさしく大自然が庭先で味わえる。ことに今は紅葉の盛り、木々の赤色が地を覆う苔と対比をなして、たいそう鮮やかである。おれが胸いっぱいにマイナスイオンを吸い込もうとすると、逆に血生臭い匂いが漂ってきた。


「お、お助け、お助けを……」


 見れば、白いほっかむりをした男が地に倒れ、こちらに助けを求めている。服装からすると僧のようだ。が、おれの目には正体が分かる。これは狐が化けたものである。そいつは必死な様子で上半身を起こし、言葉を続けた。


「わ……私めは白蔵主はくぞうすと申す狐にございます。あなた様は同族とお見受けしました、どうか、どうかお助けを……」


 血にまみれた指で胸を押さえながら言う。どうやら負傷しているようだ。おれが返答する前にしかし、僧の後ろからもう一人、男が現れた。その者は落ち葉を踏み込んで音も立てず、太刀を斜めに構えて近付き。


「ひいっ! お助け、お助けを……ギャッ!!」


 そうして、男は白蔵主はくぞうすを一刀の元に切り捨ててしまった。男は落ち着き払って刀の血を拭い、鞘に納めてからこちらに向き直って言う。


「……これはキャロル殿。野暮なところをお見せしました」


 一瞬は別人と見えたが、殺気が消えてみれば、それはミッチと名乗る源氏の男であった。否、殺気はまだ完全に消えてはいない。ミッチは穏やかな表情で、しかし瞬きもせずにおれの方を見ている。おれは静かに問いかける。


「……ミッちゃんよ、狐狩りかえ?」


「こやつ、刀を盗ろうとしたのです。私が紅葉を見上げている隙を狙って。山のものも油断なりませんね」


「紅葉狩りじゃったか。みやびじゃのう、わしも散歩に行こうかの。面白い場所はあったか?」


「……あれ、こだわらないんすね」


 ミッチは少し拍子抜けしたように言う。おれは肩をすくめて答える。


野干やかん(のら狐)がごとき、同族じゃありゃせん。わしは実力主義じゃゆえの。むしろ……お主の好感度、ちょっと上がったぞ。刀を振るえる男だったとは」


「それは光栄の至り。……が、あまり上手くはないもので……。普段、武士っぽい言動は控えているのです」


「どうじゃ、紅葉を見て来たなら、ひとつわしも案内してくれんか」


「せっかくですが、これから酒呑殿と約束があって……」


「じゃあ、特製ドリンクはどうじゃ。喉を潤すがよい」


「後ほど宴席でいただきます。殺生の後はノンアルコールと決めてまして」


 ミッチはそう言って頭を下げ、颯爽とハウスに戻って行った。その背中がドアの向こうに隠れるまで、殺気が途切れることはなかった。


「…………。


 ……いいじゃん。カッコいいじゃん〜〜~~!」


 思いがけず剛の者を見出して、おれは俄然盛り上がった。何といっても妖魔には、冷酷非道な男がタイプなのだ。おれはこの感動を誰かと共有したくて、ホクホクしながら茨木の部屋へ向かった。


「ギャップ萌え? ってやつじゃろ?」


「…………」


「いや〜〜あれじゃろ? あやつ、わしが背後から襲ってくるのを警戒して、そんで殺気が隠せなかった感じじゃろ? あーーーー尊い、尊いこれ、恋? 恋じゃない、これ?」


「…………」


 おれは捲し立てるが、茨木の表情はどんよりと曇って反応がない。その目は正尊以上に虚ろで、顔の上半分に斜線が掛かり、まさに魂も消え入らんといった風情。……ああ、忘れてた。


「NTRじゃったな、おぬし」


「…………」


「ってうそうそ、ゴメン! ……おや、怒る気力もない?」


「…………」


「ま、まあさ。ほっときゃいいのじゃ。正尊はここに留まる気なさそうだし、酒呑ちゃんもそのうち飽きるじゃろ」


「…………も……かい……」


「ん?」


「もう……限界……」


 茨木は指先をわななかせ、押し殺したような声で呟く。顔は無表情のままだが、瞳の奥では藍色の火が揺れている。


「限界……。やる。……正尊をる」


るっておぬし……」


「……手伝ってくれたら、源氏の男はあんたにやる」


「え、マジで? どうやって?」


「……鬼の手管てくだが色々ある。ハウスの鬼たちにも協力させる……」


「ええー、うーん……。正尊も、ちょっと気になる男なんじゃけど……。ていうか、表立ってやったら酒呑ちゃん怒らない?」


「……毒を使う。鬼には効かず、人のみに効く伝説のドリンク『神便じんべん人毒酒じんどくしゅ』。あんたの毒のスキルなら、それが作れるはず……」


「なるほど、それなら完全犯罪なのじゃ。んー、どうしようかな……まあ……」


 おれの手元の特製ドリンクには、いつの間にか蟻がたかっていた。蟻たちは全員ひっくり返って死んでいる。おれは目を閉じて考える。するとたちまち、先ほど目撃した源氏の男の容赦ない太刀筋が脳裏に閃く。背筋がぞくりとする。……いい剣だった。


 蟻の死骸ごと、おれはドリンクを飲み干して言う。


「まあ……。やるか〜〜~~」


「……キャロルちゃん。ありがと……」


 茨木はここで初めて表情を見せ、にっこりと微笑んだ。何といっても、妖魔の恋は一途なのだ。人間からすれば拙速に見える面もあるだろう。それは実際その通りであり、しかもそうした拙速さの報いを免れぬのが妖魔の常である。だからこの時のおれたちも、受けることになる報いについては全然分からなかったのである。

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