~神住まう氷山と樹海に立ちし偽神~
~神住まう氷山と樹海に立ちし偽神~プロローグ
世界は変わった。
そう実感できる程、この世界の…こと生物の形…あり方は変わった。
何の前触れもなく、そいつらは、気づけば自分達のすぐ隣まで、その手を伸ばしていた。
いや、前触れはあったのかもしれない。
その手に握る愛剣が、赤黒い血で白金色の刃が染め上がり、刃を通じて、皮を、肉を、骨を断つ感触に嫌悪感を覚えながら…、彼女…アリエスはそんな事を思っていた。
それは自身がまだ幼かった頃、星読みの巫女の元へ通い、自身の力を磨き始める前から…、異変は大地に根を張り始めていた。
---[01]---
彼女が、初めてその異変に触れたのは、父を失った時だ。
最初こそ、狂暴化した動物に襲われたのだと思っていたものの、事ここに至っては、全てが繋がっているのではないかと思う。
動物の異変、森の異変…、それらは何年もの時間を掛け、着実に広がっていった。
数年に1回…、父を失った異変のような事が起きるが、それはまさに氷山の一角だ。
人間の国だと言っても、結局隅から隅まで全てを把握している者など存在しない…、それはその国を治める王とて同じ。
そして、ソレらはついに決壊したのだ。
あの森を調査しろという任務から、どれだけの時間が経っただろうか…、彼女はそれすら思い出せない程、日々を戦いに投じていた。
迫りくるは大口、変異した獣が、大口を開けて走り込んできているのだが…、もはや元の姿が何だったのか、ソレを察する事ができない程に、体を醜く変化させている。
---[02]---
四足歩行であるように見えて、その前足は人の手であるかのように手の平があり、そして指が5本…不気味に長くなったソレらが並んでいた。
身長は直立すれば2メートルを優に超えるだろう、体毛は後頭部から、背中、臀部にかけて長くもないモノが生え、その体はどちらかといえば細身だが、その腹部は贅肉を溜め込むように膨れ上がり、その大口で平らげたモノの数を表しているかのようだ。
大口…そういう例えをするが、不気味な姿の、一番の特徴がまさにソレである。
どんな生き物でも、口とは顔のほんの一部でしかない、しかし、彼女の目の前のソレは、そうじゃなかった。
まるで首から直接口が伸びているかのような大口だ。
顔と呼ぶべきものは、横に真っ二つに裂け、頭の付け根にまで及ぶ。
---[03]---
目と呼べるモノは辛うじてあるように見えるが、顔の大きさと比べれば、ゴマ粒に等しい、それだけ、その大口は大きいのだ。
一度ソレを開けば、180度に届かんばかりに開かれ、不揃いながらに口内にびっしりと並んだ何十本もの歪な牙が顔を覗かせる。
大口を開けている時は、胃袋へと通じる食道は見えず、その大口を別のモノで例えるなら、木の板にびっしりと釘を打ち付けたようなモノだろうか…。
まるで、肉をただ胃袋に入れる事だけを目的としていたかのようで、牙には、肉片や、布切れ、そして血が滴り、その不気味さに拍車をかける。
狂暴化した獣を何体も狩って来たアリエスだが、これは久方ぶりの大物だ。
変異は個体によってまちまち、そのほとんどが小さな変化に収まっている。
---[04]---
人語を介するようになった愛玩動物、満腹にならないのか永遠に食べ続ける野良犬、体が肥大化し廃人となった人間…。
そう…この変異の脅威、その最たるものは、その対象が動物に限定されていない所だ。
変異の大小に、動物も獣も関係は無いようだが、人も変異する。
動物も人間も、先に言ったがそのほとんどは小さな変化だ。
でも、どういう訳か、稀に大きな変化をするモノもいる。
それが、目の前の大口だ。
条件はわからない、そいつらは突如として現れる。
何の前触れもなく現れては、人里に被害をもたらす。
この大口は、その中でも凶悪な分類だ。
---[05]---
既に村が2つ程潰されている、喰われた人間は、もう10や20では収まらないだろう、そこに女子供等の区別はない。
等しく食われる。
国は、そういった怪物たちを生かしてはおけないと、国内の警備に力を入れた。
その結果、他国から攻め込まれようとも、他国に勝ったとて人が住めなければ意味が無い…と優先順位を上げた。
だが他国…いや敵国が攻め込んでくる事はなかった。
諜報員の報告では、怪物たちの被害は、この国だけに留まらないらしい。
ゾッとする報告だ。
小さい変化ならいい。
大きな変化、大口のような怪物は、1体だけで村を…下手をすれば町をも壊滅させる…、ソレがこの国だけでなく、他国にも起きているという事実に、彼女は身震いした。
---[06]---
手の届く範囲なら、自分で対処できる、でも他国となれば話は別だ。
不安ばかりが募っていく。
だが、そんな中でも、良い情報が無いわけではない。
それは、大小含めて、その変化は、基本的に個々の変化でしかないという事だ。
そいつがいるから…と、同じような個体が次から次へと出てくるという訳ではない、その1体を倒す事ができればひとまずは安心と言える。
そうでなければ、人が変化している時点で、一瞬にして多くの人は人でなくなるのだから。
…といっても、それはあくまで早急な対応ができた場合に限る事だった。
どういう理屈なのかはわからないが、怪物たちは繁殖する。
---[07]---
姿かたちは変わっても、結局は生き物である事は変わらない…と言いたげに、変異した怪物たちが成した子供を、彼女は幾度か目にしていた…、そして怪物から生まれた子は、等しく怪物だった。
それは全て、小さい変異を起こしたモノに限られてはいるが、大きな変化をした怪物たちには当てはまらない…とは言い切れない。
過去、失敗した任務で部隊が壊滅し、保護対象が死んだ…後悔の募るソレで遭遇した狼の変異体…、あれからそいつらと遭遇する事はなかったが、今思えば、アレも繁殖した個体の1つと言える。
あの怪物自体は、そこまで大きな変化をしていなかった…、それでも部隊が壊滅した…、最後の決定打はその後に遭遇した奴で、大きな木のような化け物だったが、アレこそ謎の怪物だ。
---[08]---
幸か不幸か、他の隊は脅威となりうる同一種の複数体からの攻撃は、他では起こりえない地獄だった。
他ではその辺の動物と変わりない変異からの繁殖体を討伐した報告だけで、彼女ほどの修羅場は未だ報告は無く、だからこそ、信憑性を疑う目…声を向けられる事が多い。
それ以来、ただでさえ多かった陰口や嫌がらせに、拍車がかかったようにすら思える。
しかし、彼女は見たのだ、集団で行動する怪物を、人が無力なまでに宙を舞う光景を…。
だからこそ、彼女も、その部下も、その凶悪な怪物たちに向かって行くのだ。
体当たりするように、盾へと打ち付けられた大口の口。
---[09]---
その衝撃を片手だけで支えきれず、剣を持ったままの手で盾を支え、ズザザ…と地面を滑りながら、その大口を止めきる。
ゾロッと揃った牙が、盾に食い込み、一瞬とはいえ、動きの止まった大口の横腹に向けて、彼女ではない別の隊員が肉薄した。
身長が2メートルはあろうかという大男、その図体に似合った大きな槌を持ち、ソレを全力で振るう。
肉が潰れる音、骨が砕ける音、ソレが盛大に耳へと響きながら、目の前の大口が横へと叩き飛ばされた。
ゴロンゴロンッと何度も地面を転がりながら、大きな口から血を吐き散らす。
そこへ追撃を掛けるのは、通常よりも大きな強弓から放たれる矢、起き上がろうとする大口の、砕けたあばら骨付近に突き刺さり、矢じりは反対側まで到達して、その先から地面へと赤黒い血を滴らせる。
---[10]---
当たった反対側…貫通した側の肉は、皮が破れ、肉片がボタボタと地面へと飛び散った。
…さすが強弓の名手。当たれば並大抵の者が身の何処かを失うとは、噂通りね…
アリエスは、矢が飛んできた方向を一瞥し、すぐさま大口の方へと向かう。
息も絶え絶えに、それでも立ち上がろうとする大口、その生命力の高さは、変異した怪物たちに苦戦する要因の1つだ。
伸びてくる手を盾で防ぎ、半開きになった口のさらに奥へと、自身の剣を突き刺す。
ガリガリッと自身の口の奥へと入り込む異物に、大口は何度も血を吐きながら、嚙み砕こうと何回も噛むが、徐々に弱っていく体に、その剣を噛み砕く力はなく、体を痙攣させながら、力なく地面へと伏した。
---[11]---
力が弱まった所で、彼女は剣を抜く。
血を払いながら、近くにあった松明でその剣を見れば、剣身には、噛まれた歯形が無数に並び、部分的にはヒビすら入っていた。
…隊長、お怪我はありませんか?…
剣を鞘に納め、一息ついてから、周囲への警戒を怠る事無く、隊員の元へと戻ると、見上げる程の大男が、彼女の方に向かって頭を下げた。
…私は大丈夫。ごめんなさいね、貧乏くじを引かせてしまって…
アリエスは、大男の体を一瞥しながら、顔を歪ませる。
…何のこれしき、怪物たちを仕留めるためなら、家畜の糞尿を全身に浴びる事など、躊躇するモノではありません…
がッはッはッと胸を張って笑う男からは、正直、鼻の曲がる臭いが漂ってくる。
---[12]---
それもそのはずだ。
大口から身を隠す為に、彼の言う通り、その全身に糞尿を浴びているのだから。
そういう作戦だったとはいえ、彼には申し訳ない事をしたと思う。
彼女は、自身の鎧に着いた家畜の血を眺めながら、アレに比べればこちらは幾分も増しだな…と思う一方で、先頭に立ち、あの大口への囮として立った事実に、今頃になって体を震わせた。
しかし、ソレを部下に気取られてはいけないと、いつも通りでいよう…と平静を装う。
大口に一度噛みつかれれば、その骨は砕け、肉はズタズタになる。
下手に人数を置いては戦闘の邪魔になるし、被害が大きくなりかねないという事で、少数精鋭で挑んだ訳だが、結果としては成功…、それでも一歩間違えれば…と紙一重の戦いだった事実に、戦いが終わった今でも、緊張の糸がピッチリと張り詰めて落ち着かない。
大口は目が退化している分、臭いに敏感であるという情報は得ていた。
---[13]---
肉を好み、村々を襲っているという事で、村ごとに部隊を配置し警戒に当たっていた訳だが、あの大口に着いた血肉を見る限り、他の場所で、誰かしらが襲われたのかもしれない。
何も知らぬ旅人か…、それとも行商人か…。
村人たちを、一か所に集めて護衛していた兵の幾人かを呼び戻し、彼女は、喰われたモノが誰なのか、その腹を裂いて確認するように…と指示を出し、井戸から汲んだ水で、鎧に着いた血を拭き取っていく。
臭いに敏感な大口をおびき出し、注意を私にだけに向けさせるようと血を塗りたくり、伏兵として隊の中で一番攻撃力の高い人間を忍ばせた。
その全身に家畜の糞尿を浴びせ、土地にその身を馴染ませて、できた隙に一撃で行動不能にする一撃を叩きこませる…。
---[14]---
もう一人の伏兵として、大男と同じようにして、尚且つ風下に配置した弓兵…。
緊張は限界値を越え、危機は去ったというのに、鎧を洗う彼女の手は、いつまでも震え、それだけで息が上がっていく。
怪物とただ戦うだけではこうはなるまい。
何度も、大小はあれど、怪物とは戦ってきた。
怪物との初遭遇であるあの森の戦いの時ですら、ここまでの緊張はしなかっただろう。
彼女は恐れていた。
大口の…あの異形の姿に、それ程までに恐怖を覚えたからか?
違う。
---[15]---
異形へ変化は人にも起こりうる…、その姿を自分に重ねたからか?
違う
徐々に表へと溢れ始めている怪物たちに、いつか国が滅ぼされるかもしれないと、未来を悲観したからか?
違う。
怪物の出現に対して、彼女は確かに恐怖を覚えている…、ソレは事実だ。
しかしその恐怖は、異形なモノに対しての未知への恐怖ではない。
日に日に、怪物たちの種類が増え、繁殖可能という事実を知り、その数が増えていくという事実…、その道筋に、重なるモノがあるのだ。
異形と初めて遭遇した森の調査任務…、その時に感じたソレは、異形と遭遇する度に脳裏をチラつくモノ。
---[16]---
異形の変化の大小…、元が何か全くわからないモノから、何が変化したのかわかるモノまで、その幅は大きい、大きいからこそ断定できないとさえいえるが、彼女…アリエスには、偶然とは到底思えない。
星読みの巫女から授けられる本…、彼女や血縁者、一定の関係を持った相手にしか読む事のできない本。
その本の中に登場する魔物…魔人と呼ばれる者達、ソレらと同種の怪物と遭遇こそしていないが、その変化の度合いが、無関係だ…と彼女が否定できない違和感となっていく。
そう…あの本だ。
あの本は何なのか。
---[17]---
それは子供の頃こそ、気にする事はなかったが、大人となり、騎士として部下まで持つ身になった彼女としては、ソレが何を意味するのか、ソレが気にならないと言えば嘘になる。
昔、この本な何なのか、何気なく巫女に聞いた事はあった。
その時は、彼女自身、そこまで本気ではなかったし、軽くあしらわれただけで終わったけれど、今となっては、本気で聞き込めばよかった…とすら思う。
自身と同じ名前「アリエス」の名を持つ女性が登場するのも、彼女が違和感を覚える理由の1つだ。
…アリエス…、本の中のアリエス…、君は……
怪物たちが、本に登場する魔物魔人と被るのは、ソレが彼女の生きるこの世界の事だからか?
---[18]---
歴史も、文化も、獣人種や甲人種、小人種はおらず、根本が違うように思う…、その世界に…アリエスは、自分の生きるこの世界を重ねてしまう。
怪物が溢れる世界、本の中の住人なら、ソレに対処できる人間が多くいる…、それこそその辺の一兵卒だって、戦う事が出来る。
彼女の隊の新人だって、変化の少ない怪物程度なら、倒す事は出来るだろう…、しかし、変化の少ない個体は、怪物というより、動物に近い。
戦闘能力が、その土台が違うのだ。
この世界の一般的な個々人の戦闘能力の平均で、あの世界と同じ脅威度に変化したら、国が亡ぶだろう。
人の力だけではどうしようもない。
現状でこの怪物の出現率なら、対処は出来る。
増えても問題は無いだろう。
彼女が、アリエスが恐れるのは、その先にあるモノだ。
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