第三話…「初任務と慣れない空気」
「忘れ物はありませんか? 剣は? 杖は? お財布に昼食のバスケットは? 本当にありません?」
「あ、ああ」
垂れた耳と髪を揺らし、詰め寄ってくるティカは、いつもの押せ押せな雰囲気とは、ほんの少しだけ変わって、寂し気な色をその表情に混じらせながら、屋敷の玄関ホールで詰め寄ってくる。
「大丈夫だ。昨日からそうやって忘れ物は無いかって問いただされたら、さすがに確認しないのも無理だし、何度も何度も確認した。忘れ物は無いよ」
「う~…、いっその事、忘れ物をして帰ってきてくれる方がティカとしては嬉しいぞぉ…」
「縁起でもない事言うなっての。魔法使いとしてじゃなく、騎士団の人間としての初任務、初仕事だ。できればドジは踏みたくない」
---[01]---
毎日のように弟子達に魔法を教えるのとは別に、国王直々に重鎮を連絡役として送り込む程の重要な任務、その出発が今日だ。
魔法を教える先生としてではなく、騎士団の団員として、仕事をする日が遅かれ早かれ来る事はわかっていたが、最初がまさかこんなに重要なモノになるとは。
予想を遥かに超える重みに、少々というかそれなりに眠れず、睡眠不足からくる疲労が既にある。
それでも失敗はできないと、大丈夫大丈夫、と自分に言い聞かす。
「それはそうだがぁ…、チェントローノまでは片道だけでもすごい時間が掛かるし…、次にご主人のお世話をするのがいつになるのか、考えただけでもゾッとするぞ…」
「大袈裟…とはあえて言わないが、とにかく…俺がいない間、ジョーゼをよろしく頼む」
---[02]---
「む、それこそ言われるまでもなく、当然任されるぞ。でも、ティカにできる事は多くないとわかってくれ」
「単純だが、難しい事だな」
「それはもう大変も大変だ。ティカは良きお姉さんになろうと努力はするが、絶対にその域に至る事はできない。ティカじゃ、出来ちゃった穴を塞げないから。ご主人っ! さっさと仕事を終わらせて帰って来いよッ!」
「無茶を言う…。まぁ俺のできる範囲で最善を尽くすよ」
自分の意思で仕事の進行度合いを調整できるわけもなし、無茶ぶりなお願いだという事はわかっているが、俺とてジョーゼの事は心配だ。
そこに、嘘は無い。
視線をティカではなく、玄関ホールにある階段の踊り場付近、そこの手すりの影からこちらを恨めしそうに見やる少女に移す。
---[03]---
ご機嫌斜め、騎士団の入団試験の当日に感じた…私を裏切るのか…という心に突き刺さるような視線はないものの、見ているこっちが精神的に痛みを覚える光景だ。
ジョーゼのためにも任務を熟して稼がなきゃいけないのに、その為にジョーゼから離れる結果になる。
まさに本末転倒だ。
手段が目的を潰す結果になっている。
溜め息が出そうになるのを堪え、行ってくる…なんて意味を込めて、ジョーゼに手を振るが、少女はそれに何かを返す事なく、そっぽを向いてその場を後にした。
「じゃあ、行ってくる。帰ってくる頃には、また一層のジョーゼの料理の腕の上達を期待してるよ」
「任されよ、ご主人。というか、ティカが教えているのだ、旨くなるのは当然。さっきも言ったが、チェントローノまでは相当時間が掛かる。ご主人を驚かすには十分な時間があるって」
---[04]---
「そりゃあ楽しみだ」
ティカがこちらにお辞儀をしているのを尻目に、俺は屋敷を出た。
「師匠、なかなか来られなかったので、迎えに来ました」
屋敷を出てすぐ、俺の方へ大手を振りながら走ってくるアレンの姿が目に入る。
「言うほど遅いか? 時間にはだいぶ余裕があると思うが」
「それが、情報に行き違いがあったみたいで、僕達が聞いていたものよりも、実際の出発時間が早いとか」
「そうか。他の連中は?」
「すでに門の方へ荷物を含めて向かっています」
「わかった」
歩いていた足が自然と早足に変わる。
---[05]---
大事な日に遅刻は勘弁だな。
こちらとしても言いたい事がいくつかあるけど、それをぶつける相手がいないんじゃ、自分の胸の内ですり潰すしかない。
出発場所である門に着くと、王が同伴するとあって、なかなかの数の騎士団の人間が集まっていた。
馬に馬車に、まるで国の人間がいっぺんに移動するんじゃないかとすら思わせる程、その量には圧倒されてしまう。
大人数での移動の光景を見慣れていないという事もあるが、これがそれだけ重要な移動であるという事の裏付けでもある。
ヴィーツィオの件もある…というか今回は、それの対処が目的だ。
---[06]---
道中、それを良しとしない奴が現れたとして、そこにドラゴンが出てきたら…それらを考慮した上での人数。
試験時、大多数の人間が動けなくなったりもしたせいで、護衛に関しても軽く見る事は出来ないって話だろう。
「情報伝達ぐらい、もっと正確にやってほしいもんだ」
だからこそ、この光景を見た事で溢れてきた緊張感から、すり潰しきれなかった不満を口からこぼす。
その不満を誰にも聞かれていない事を祈り、咳ばらいをした後、軽く深呼吸をして、自分の持ち場へと向かっていく。
その途中、四方から飛んでくる視線に、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
---[07]---
視線を感じた方をチラッと見るも、見えたのはまるで今までこちらを見ていたかのような顔の動きだけ。
人間によっては、まるで隠す気もなく、不満げにこちらを睨みつける輩もいる。
「良い雰囲気だこってな」
全員が全員、そういう視線を送ってくる訳じゃない。
しっかりと見てみれば、そういった視線を送ってくる連中の、身に着けている物の品質の高そうな事…。
もっとちゃんと見てみないとわからないし、俺自身その辺の仕事を持つ身ではない。
しかし、これでも村の事でああいったモノの材料等も売っていた人間だ。
少しは心得がある…つもり。
---[08]---
おやっさんの所で良い商品を見たりもしたから、その辺の並みな人間よりは、目利きもいいはずだ。
それを考慮すると、ちょうど俺達が今歩いている場所は、ある程度身だしなみに金をつぎ込める、余裕のある連中。
はっきり言って、俺からしたら関わり合いになりたくない連中の集まっている場所だ。
馬車なり、人混みなり、避けながら進んでいると、見慣れた奴の頭が視界に入る。
周りの人間達と比べて、頭一つ分行かないぐらい抜け出た身長、本人には言えないが、その高さは便利だな。
「遅くなった、すまない」
その身長が高い弟子、セスに軽く謝りを入れる。
---[09]---
何故かと言えば、不機嫌な顔をしていたからだ。
自分のせいなのかどうか、それは分からないけど、可能性の一つとして、先に謝っておいて損は無い。
「何もしてねぇくせに謝罪の言葉を口にすんじゃねぇ…気色悪ぃ…」
「そうか」
どうやら不機嫌な原因は、俺ではないようだ。
周囲に視線を巡らせると、近くの馬車に見知った顔ぶれやら、見慣れたようで未だ慣れない仮面マントの姿を捉える。
「お前たちがここにいるって事は、俺達の持ち場はここか?」
「はい隊長先生、この馬車は私達カヴリエーレ隊長が率いる隊、その担当の1つです」
---[10]---
手持ち無沙汰気味に、暇を持て余していたフォーが、我先にと俺の問いに答えた。
「馬車ねぇ…。何が乗っているんだ?」
「この馬車は後方の隊の食料が積まれてますねぇ」
「食料ね。・・・、後方?」
「はい、後方」
「まぁそうだな。戦争まではいかないにしても、盗賊団のねぐらぐらい、一晩掛からず潰せそうな動員数だ。後方とかあるのもそうだよな」
「後方じゃ不服なのかね、隊長先生は?」
「そうじゃない。最初に総長直々に伝達しにきたろ? そこまでしたのに、結局その後の細かい情報のやり取りはまともにできていないし、そして後方担当だろ? 思っていた程の立ち位置にいないんだなと、思っただけだ」
---[11]---
「隊長先生は見た目によらず結構な野心家かな? 戦果が欲しい感じ?」
「戦争しに行く訳じゃあるまいし、戦果なんて気にする必要ないだろ? この場合、俺が世間知らずだったって感じだな。あとは、自分で思っている以上に、自尊心が高かったとか」
「あ~…、なるなるなるね」
フォーが納得したように頷く。
「あ、先生、おはよう」
そこに、馬車の中でゴソゴソと何かをしていたシオが、用事を済ませて降りてくる。
「おはよう。お前は馬車で何をやっていたんだ?」
「ウチ? ウチは、物資の漏れが無いか確認をね。カヴリエーレ隊長や同じ部隊の人達、皆忙しそうだったし、先生は遅れてるし。自分の準備を終わらせちゃった後だったから暇で、ウチがやるって言ったんだ」
---[12]---
「遅れてすまないな。手間を取らせた」
「案外やってみると楽しいもんだよ。間違い探しみたいでさ」
「そうか。だそうだぞ、フォー」
「え? なんでそこで私に話が飛んでくるのかな?」
「お前には手伝うって選択肢は無かったのかなと思ってな。暇そうにしていたし」
「そ、それは言いがかりだぁっ! 私だって、手伝おうかって、シオっちに聞いたし」
フォーは胸元で握りこぶしを作り、力を込めて反論をする。
その後、視線をシオに向けると、シオもそれに合わせるように頷いた。
「はい。一応フォーさんに手伝おうかって言われた」
「そうか、意外だな」
---[13]---
「酷い。意外は余計だ」
「悪かった。とりあえず、こっちも準備は終わり…て事か?」
「うん。積み忘れは無いっぽい」
「ふむ…」
遅れて来た分、出来る事があるならそれをやりたいと思っていたが、その必要もなさそうだな。
『変なとこに志願なんてしなけりゃ、良い隊に入れてもらえただろうに、お前は相変わらず捻くれてんな、ステッソ』
こちらに歩いてくる一際大きな足音に、その主へと向けられる嫌味。
『今の隊が嫌になったら言えよ? 上に話を通してやらんでもないからなッ!』
何事かと視線をそちらへと向けると、こっちに歩いてくるセスと、正反対の方へと歩いて行く、知らぬ団員。
---[14]---
「知り合いか?」
「てめぇには関係ねぇよ」
さっきも十分不機嫌な表情を浮かべていたセス、その眉間にさらに深いシワを掘り、歩く姿もまさに不機嫌を言葉ではなく体で表現していた。
「さっきのは、位の高さだけで言ったら、セスっちよりも高い人かなぁ~。さっきも来たのよ、別の人だけど。なんかセスっちにわざわざちょっかいかけに来た…みたいな感じで」
「なるほど、だから機嫌が悪そうだったのか」
「うるせぇ…」
位が…位が…と、地位に固執する連中が多いな。
普段はそういう連中の集まる場所に行かないから、あまり気にならないが、こうやって集まると、こちらの意思なんて関係なく目に映る。
---[15]---
今の団員が戻っていった方向、さっき嫌な視線を向けられた場所の方だ。
つまりそういう事だろう。
質の良いモノを身に着ける、別にそれ自体は悪い事じゃないと思うが、それが自己顕示欲を満たすためとなれば、悪くなくとも醜いモノとなるな。
「この国って貴族とかそういう制度は無いよな?」
「うん、無い。正確には、もう無いと言った方が正しいけど」
自分の村がどこの国に位置し、どこの国民なのか、王は誰なのか、生活に必要かどうか疑問を持つ事でも、一応は子供の頃に村長やらに教えてもらいはした…と思う。
教えてもらった…という漠然とした記憶はあるが、結局生活していく上で必要性を感じず、覚えていたその辺の知識は、いつの間にか頭から抜け出て、俺の元から消え去った。
---[16]---
「貴族制は1つ前の国王まではやっていたけど、今の王様が王位を継いだ瞬間に撤廃したらしい。私が生まれる前の話だから、詳しくは知らないけど、制度は無くなってもその影は今なお残り続けているのよねぇ」
それがさっきの連中の態度なり、俺達を見る視線なり、あとはセスの地位にこだわる理由か。
「というか隊長先生、魔法に詳しいのは当然として、それ以外はダメダメねぇ」
フォーが俺の顔を覗き込む様に、その無表情な仮面をこちらに近づける。
「まぁ生活するというか、生き抜いていく上で必要でないモノだったからな。教えられはしたが、そんなもんは何年も前に忘れたよ」
「あ~、それわかるわかる。私も惰眠を貪る事の重要性を理解し過ぎて、朝起きる事を忘れるもん」
---[17]---
「一緒にすんな」
何をどう考えれば一緒だと思えるのか。
呆れながら、少しの間を置き、改めて周囲の様子を伺う。
行きかう人、人、人、鎧を着ている者が大半だが、その足並みが先ほどよりも速く、その慌ただしさを増している。
理由は考えるまでもなく、出発の時間が近づいている事の表れだ。
そんな人混みの中に、こちらに向かってくる譲さんの姿を見つける。
こちらの存在に気付いた彼女は、手を振りつつ、駆け足で向かってきた。
「サグエさん、間に合ったみたいで良かったです」
「おかげさまで」
「お父さま達に出発前の挨拶をすると言っていたので、間に合うかどうかわからず、プディスタさんに迎えに行ってもらったのですが…、とりあえず問題はなさそうですね」
---[18]---
「そうだな。挨拶っていっても、譲さんの母親に。改めてしばらく帰れない事を伝えたりしたぐらいだ。時間が掛かるような用事じゃない。できれば父親、家主の方に話したかったが、今日はもう家を出た後だったからな。それも早く用事が済んだ理由だ」
「理由はわかりました。普段より父が出かける時間が早い気がしますが、そういう日もあるでしょう」
「かもな。それで? そんな話をするために来たのか? 急いでいるみたいだったが」
「そうでした。サグエさんに頼みたい事がありまして」
「頼み? こんな時にか?」
「はい。頼みと言っても、今回の任務の中での事ですから」
「任務内…ねぇ」
---[19]---
「サグエさんには、アパッシさんに積み荷の確認をしてもらっていた馬車の、御者をやってもらいたくて」
「御者?」
任務内での頼み…なんて言うもんだから、もう少し畏まった内容かと思えば…、俺じゃなくても出来るような内容が、彼女の口から出てきた。
重要な事かも…と、一瞬でも身構えたから、内容を聞いてほっとする。
「昨日はその辺やれる奴らとか、担当を決めてあるとか言っていなかったか?」
「ん? あ~、まぁそうなんですけどね。緊急で魔物退治の依頼が入って…、問題ない内容でしたが、今回の件で王都の兵の数が減るので、隊を作って向かわせました。戦力がこちらの任務と魔物退治の任務、能力のばらつきが無いようにしたつもりですが、その代わりに…」
---[20]---
「御者を外す事になったって?」
「はい」
「御者ぐらい、俺じゃなくても誰にだってできると思うが」
「馬に乗った経験なら、皆もあるのですけど、馬車となるとまた勝手が違うので。御者をした経験的に、サグエさんが良いと思ったのです」
「まぁ慣れてはいるつもりだが…。一応お願いなんだよな? 俺が断った場合は誰にやらせるんだ?」
「今回の任務に参加している隊員に割り当てますが、最悪の場合私がやります」
「なるほど」
そんな調整が必要な程人員不足なのか?
譲さんは、隊を指揮する人間、馬車を操るよりも、馬に乗って臨機応変に動けた方がやりやすいだろう。
---[21]---
俺以外の誰かに御者をやらせたとして、わざわざ俺に言いに来たって事は、つまりはそういう事で…、積み荷が食料である以上、下手な事になって損失しました…じゃ、話のネタにもならない程に酷い問題になる。
お願いと言っているけど、正直断る理由が見当たらない、選択肢のないお願いだな。
「わかった。乗り慣れていない奴にやらせて、食料が無くなるなんて嫌だし、俺がやる」
「本当ですか? ありがとうございます」
譲さんはお礼の意味を込めてか、そう言いながら頭を下げる。
「では、そろそろ出発らしいので、準備をお願いします。馬車を引く馬は、力持ちの優しい子なので、注意すべき点は特にありません。馬車の定員が2名、詰めて3名で、他の人は隊で飼育している馬を連れて来ているので、その馬での移動になります」
---[22]---
『なら、俺は馬に乗らせてもらう』
我先にと、セスが声を上げる。
馬車か馬か…、そういう話が出た時点で、この男がどうするかなんて想像するまでもなく、わかりきった事。
俺は苦笑を浮かべながら、譲さんも釣られるように苦笑した。
「他はどうする? 乗馬経験とかは?」
セスは決まりとして、残りの3人に俺は視線を向ける。
「僕は馬に乗れるので、馬の方で問題ないです」
「私は馬とか無理、そもそも視界が狭いから馬乗ると怖いんだよね」
「ウチは…、馬に乗った事、ありません」
決まりだな。
---[23]---
いっその事、この任務中に乗馬を経験させておくのもアリか。
何にせよ、弟子の中でも小柄な2人が残って、場所的に楽になったとも言える。
「そういう事らしい。馬は2頭借りられるか?」
「問題ありません。こういう時のための馬たちでもありますから」
その後、馬を用意してもらってから少しして、門が開くと同時に鐘がなる。
今まで聞こえていた話声は、鐘の音が掻き消すよりも早く止み、馬の蹄が地面を蹴りながら歩み出す。
予定通り、急がず焦らず、王を囲む兵の群れが、砂埃を舞わしながら歩み出した。
カンカンカンッと遠くの方で、鐘が鳴り響く。
「いよいよご主人の初任務、出発の時」
---[24]---
ティカは、ご主人を応援したいという気持ちと、世話ができなくて寂しいという気持ち、相反する気持ちに板挟みになりつつ、そんなご主人の部屋を掃除する。
この部屋を使い始めてそれなりの時間が経つというのに、その様子は、ご主人が使う様になった時と同じ、全くと言っていい程様変わりをしていない。
ジョーゼちゃんの部屋は、色々とモノが増えているというのに…、まぁその大半がティカからの贈り物だが…。
とにかく、時間が経っても物が増えないのは、余計な荷物を持たない様にするためか…。
それはなんかとても寂しい。
何時でもここから出ていけるようにしている…なんて事を考えちゃうから…。
普段はそんな事考えないけど、今日は普段とは違う状況、ご主人がしばらくこの部屋を使う事のない…その初日。
---[25]---
そのせいか、いささか感傷に浸ってしまう。
だからこそ、そんな気分を頭から吐き出すため…、毎日のように掃除して、軽く埃を取る程度で済む掃除にも全力を注ぐ。
そしてご主人へ、応援の言葉を贈った。
「頑張れご主人ッ!!」
それこそ、ありえないけどご主人に届けという思いを抱いて、そう叫んだ。
そんな時、トントンと、部屋の扉をノックする音が、耳に入る。
部屋の主が留守である事は、この屋敷にいる人間全員が知っている事、それなのにノックをするという事にいささかの疑問を抱きつつ、ティカはそのドアを開けた。
そこに立っていたのは、この屋敷の主の妻の姿。
「奥様? どうかしたのか?」
---[26]---
ご主人が家を空ける事を直に伝えに言った人物、だからこそ、ここに誰もいない事は他の使用人以上にわかっているはず。
ティカの頭には、より一層の疑問ができた。
「ティカ、ジョーゼちゃんを見なかったかしら?」
「ジョーゼちゃん? いえいえ、見ていませんよ。最近はジョーゼちゃんも色んな事ができるようになってきているからな。お掃除も分担してできるようになったのですよ。その成長にティカはいつもいつも感激している次第。時間的にそろそろ奥様たちの部屋に行く頃だと思うのだが…まだ来ていないか?」
「ええ。私もジョーゼちゃんの働きは嬉しいですし、そろそろ掃除に来る事も知ってはいたのですが、なかなか姿を見せないので心配になって」
「むむむ…、確かに心配だぁ。奥様は屋敷の中を探したりしたのか?」
---[27]---
「ええ、建物の中はだいたい。後は庭とかだけなのですが、中から見える範囲で見つける事は出来ず。ここにいるかと思って来てみたのだけど、いないみたいね」
「掃除を始める時に見たのが最後…」
「まさかとは思いますが、ガレスさんについて行ってしまったとか、そういう事はありませんよね?」
「ご主人に? それは考えづらい…、ジョーゼちゃんはまだ一人で外に出れないと思う。それこそ必要に迫られない限り、一人で外に出るなんて…」
自分で自分に言い聞かせるように話しているが、そんな中、全身に汗がにじみ出てくるのを感じる。
それは、身体が不安がっている証拠、自分に言い聞かせるつもりが、いない事への答えを出してしまっている証明だ。
---[28]---
確かな事は無い。
でも、ティカの危機察知能力は警鐘をガンガンと鳴らしている。
「もしそうなら、信じて私達にジョーゼちゃんを預けてくれたガレスさんに顔向けできませんね」
「と、とと、とりあえず、探してみなくては始まらないぞ」
大丈夫…大丈夫…とさっきまで平静を保つために立てていた壁、柱。
でもそれが一瞬で崩れ去り、後に残ったのはジョーゼちゃんの心配だけ。
「外を探すのはあなたに任せます。屋敷内は他の使用人を含めて私達が」
「合点承知の助、久々の獣人種としての本領発揮の時、人探しにおいて右に出るモノはそう多くないと思うティカにお任せください。奥様はお身体の事もあるので、あまり無理はなさらずに」
---[29]---
「ええ、頼みましたよ」
「ハハッ!」
ご主人様にお辞儀し、一目散に部屋を出た。
自分の部屋に戻り、動く事に優れた靴に履き替え、今度はジョーゼちゃんの部屋へ入ると、選んでいる暇はないとばかりに、適当に記憶にある限り一番最近彼女が来ていた服をクローゼットから引っ張り出す。
「これで必要なモノは揃った」
軽く鼻息が荒くなる。
興奮というか、焦りが、ティカを襲い、急げ…という言葉が警鐘となって鳴り響く。
ティカは、周りの事など気にも止めずに、頼りを探して街を走り始めた…。
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