第6話 正体
来の逃走から一時間。尋達は『A・I・C』本部の会議室に戻ってきていた。
「君達にも無理を言ったね。幻影を見せる相手を追え、だなんて」
唐澤はそう言って手に持ったレジ袋をポン、と机の上に置いた。その形状から考えるに、カップ麺だろうか。
「今日はもう遅いからね、驕りだ」
「あ! ありがとうございます!」
翔子が真っ先にレジ袋に飛びつく。余程腹が減っていたのだろうか。
「じゃあ、先に食べててくれ。私はこっちで資料を纏めるから」
唐澤はそう言ってドア近くに立っていた尋に近づき、ポンと肩を叩いた。
「……ちゃんと言っときな」
尋にしか聞こえない程の小声でそう言うと、唐澤は会議室を後にした。
……言われずとも、分かってますよ。
心の中でこっそりそう呟くと、わざとらしく咳払いをして心を落ち着ける。
「あー、その三原、さん?」
尋は出来るだけ丁寧に――と本人は思っていた――翔子を呼んだ。
「……何?」
――が、翔子はやはりじっとりとした視線を向けてきた。
「相変わらず……ってそれは置いといて」
翔子の変わらぬ辛口な対応にも慣れた尋は居佇まいを正すと、
「その……さっきは、すまなかった」
腰が九〇度に曲がる位に頭を下げた。誠心誠意の謝意を示している……つもりだ。
「……別に気にしてないわよ。その、私も少し大人気無かったと思うし」
しょうゆ味のカップ麺の封を開けながら翔子はそう言った。
「突然怒り出したのは悪かったと思ってるわ。その、私は……」
「親がいない、だろ?」
尋の言葉に顔を強張らせながらも、翔子は黙って会議室に備え付けられた湯沸かし器に水を入れ始めた。
「まあ、俺も詳しくは聞かねーけどさ、別に俺に当たる事はねーだろ?」
「だから、さっきはごめんって……」
「そこじゃねえ」
ムキになって反論しようとする翔子を、尋は片手で制した。
「なんでお前は俺に対してそんなムキな態度取るんだ?」
「そ、それは……」
翔子のまごつく反応を見て、尋はやっぱりな、と思った。
ずっと疑問だったのだ。教室や唐澤の前では明るく、笑顔さえ見せるのに、何故尋には不愛想なのか。それは……。
「俺がお前と・・・・・同じだから・・・・・、だろ?」
「…………」
翔子は黙ったまま、答えない。
「……まあ、朝の事で気付いたさ。どうせ、俺の昔の事調べたんだろ?」
だから分かったのだろう。尋が翔子と同じく、親を失ったのだと。唐澤の言っていた『血縁上はいる』という意味はよく分からないが、それに近い状態なのだろう。
「要するに、お前はどう接していいか分かんなかったって所だろ? 同じ苦しみを知る俺に」
親がいない苦しみ。言葉にするのは簡単だが、並大抵の事では無い。それは尋自身がよく知っている。
毎日家に帰っても誰もいない。あらゆる事は自分でしなくてはならない。いい事をして褒めてくれる人も、悪い事をして怒ってくれる人もいない。
孤独。周りに誰もいない孤独。友達がいない孤独とは違う、親近的孤独。
だから、普通以上に他人との関わりを求めるのだ。翔子は同級生達や唐澤と、尋は愛や友人達と。
怖かったのだ。尋も普通でないと知っているからこそ、普通の人と同じように接するべきかどうか、翔子には分からなかったのだ。だからこその、無愛想。
尋がそう言うと、翔子はしばらくうつむいて考えを整理しているようだったが、やがて上げたその顔には、教室で見せるのと変わらぬ笑顔があった。
「……そうね。あなたの言う通り。何となく、あなたには普通に接しちゃいけない気がした。いいえ、出来なかった。あなたの経歴を見て、私と同じように苦しんでた、ひょっとすると苦しんでるかもしれないあなたに、おいそれと普通には接せられるわけないでしょ」
「その態度に余計傷ついた感は否めないんだけどな」
溜め息交じりに、そう言った。
「別に、普通に接してくれて構わないぜ、俺は。どうせ俺は、生まれてこのかた親がいないからな。慣れる慣れないとかじゃなく、俺にとっちゃこれが普通だからな。気にする事はねぇ」
「……ええ、そうみたいね。今まで無理して顔しかめて、馬鹿みたい」
「そーそー、ずっと顔しかめてっと、そのうち顔に皺寄るぜ」
「な、何よ! 女子に対してその言い方は酷いんじゃない!?」
尋の軽口に翔子は膨れっ面で応じる。こんな反応も出来るんだな、と一人で勝手に納得しながら、尋はカップ麺にようやく沸いたお湯を注いだ。
「まあいいさ、俺達が今すべき事は腹ごしらえと……」
「新島来にどう対処するか、だね」
聞き覚えのある声に振り返ると、唐澤がドアに寄りかかり立っていた。
「仲直りしたようで何より……と、それはいいとして。先程尻尾は掴んだ、と言っていたね。何か手があるんだろう?」
「……はい」
尋は唐澤に向き直り、自信に満ちたその目を向けた。
「正直、確証は無いです。ただの推測に過ぎない。それでも……構わないですか?」
「構わんさ。今は少しでも手掛かりが欲しい。三人寄らば何とやら、と言うだろう? さあ、お互いに知恵を出し合おうじゃないか。食事でもしながら」
「……で、何に気付いたんだい?」
シーフードラーメンをズズッと啜りながら、唐澤は尋に尋ねた。
「……来を追ってる時、考えたんです」
スープを飲み干して空になったラーメンのカップをとん、と置いて、尋は静かに話し始めた。
「来の見せる幻影は、俺や三原さん、唐澤さん、それとあのコンビニの人達……言い換えれば『人間』に作用しますけど、監視カメラや自動ドアのセンサー、スマホなどの『機械』には作用せず、実際の来の姿にのみ反応しました」
「うん、それで?」
「はい、そこで俺の考えた推測は……来の見せる幻影は『実際に起きている現象では無い』、って事です」
「ちょ、ちょっと待って、実際に起きてないなら、私達は何を見たっていうのよ」
翔子が話題に追い付けず割って入る。
「要するに、それが来の能力、って事だ」
「い、意味がよく……」
「つまり、俺達は来の能力を誤って認識していたんだ。あいつの能力は『相手に幻影を見せる能力』じゃなかった」
一呼吸置き、尋は続ける。
「あいつの能力は事実を誤認させる能力、もっと簡単に言えば『嘘を事実と認識させる能力』だ」
尋は確かな自信を持ってそう言った。
「来の能力は恐らく、空間に作用するものじゃない。もしそうなら、監視カメラにもあいつの幻影は映る筈だからな」
だが、事実はその逆だ。とすれば、残る可能性は……。
「『視覚、あるいは脳に作用する能力』、という事か……」
成る程、と唐澤は腕を組んでうなずいた。
「そして、来の能力が尋君の言う通りだとするなら、恐らく後者が正しいだろうね。成る程。それなら脳、厳密に言えば自己認識能力を持つ人間がとらえられる幻影が機械には捉えられない理由もうなずける。しかし……そこまでを自分の推測だけで辿り着けるとはね。脱帽ものだよ」
恐れ入った、というように唐澤は尋に頭を下げた。
「いや、そんな……俺は逆転の発想をしただけです」
「逆転?」
「そう」
尋はパチン、と指を鳴らした。
「『新島来の能力は何なのか』じゃなく、『新島来の罪は何なのか』ってね」
「……何それ。ムカつく」
状況を打開した尋に、しかし翔子が向けたのは軽蔑の目だった。
「最初の反応がそれかよ。そこは褒める所だろ?」
「なんか誇らしげに威張ってる所が、凄くムカつく」
膨れっ面のままそう続ける。
「い、いーだろ別に。苦労しなかった訳じゃ無いんだし、ちっとは威張りたいんだよ。まあ、そんな訳で俺の切れるカードはほとんど出しました。なので、唐澤さん」
「ん?」
尋の問いかけに、唐澤はにこやかな笑みで応える。
「これから来と対抗するには、来についてさらに多くの情報が必要です。唐澤さん……」
「『まさか俺と三原さんが来を追ってる間にしてたのがただの買い出しだけって訳でも、俺が三原さんを口説いてる間ずっとドアの外で待ってた訳じゃ無いですよね』って?」
「そこまで言ってないし思ってもいません。てか口説いてもいません」
「尋君、あんた……私の事そんな風に見てたの?」
翔子もじっとりした目を向けてくる。
「違うから真に受けないでくれ頼むから。とにかく……」
コホン、と咳払いをして考えを鎮め、唐澤に向き直る。
「午前一〇時から午後二時まで、本物の来・・・・はどこにいたかって分かりますか?」
尋の質問に釈然としない翔子を尻目に、唐澤はフッ、と笑った。
「その事なんだが……実に面白い結果だったよ」
「面白い?」
尋の疑問に答えるように、唐澤は机上のパソコンを起動させると、ポケットから取り出したUSBを差し込んだ。そのデータのうちの一つを選択すると、ディスプレイに一つの、見覚えのある動画が表示された。
「これは……コンビニの監視カメラの映像?」
「そう。君達が来を追っている間に押収した物だ。このうち見て欲しいのは……これだ」
そう言って唐澤が見せた映像は、どこかの路地だった。
尋は最初、コンビニの屋内とは思えないその映像に疑問を感じる以上に、どこか見覚えがあるような気がした。しかし、再生される動画内の時間が進み、現れた人の服装を見てハッとなった。その服は、尋にも見覚えのある服。
多里沢高校の制服。
「ここは……」
「そう。多里沢高校までの通学路でもある、コンビニ前の歩道だ」
そう言われてよく見れば、見覚えのある銀杏並木が歩道に沿って並んでいるのに気付いた。コンビニ前から歩道の角にある公園まで続く銀杏並木に違いない。
「これが、何か……」
「まあ、見ててごらんよ」
そう言って唐澤は早送りのボタンを押した。動画の示す時刻が瞬く間に変化し、その時刻が一〇時一七分を示した時、動画にある変化が起きた。
「車……?」
コンビニのちょうど前に、一台の軽自動車が停まったのだ。
だが、これはさほど大した事じゃない、と尋は思った。この歩道は、歩道に挟まれた大通りに面しているのだ。当然車の通りも多いから、コンビニ前に車を停めるのも、何も取り立てて不思議な事では無い筈だ。
「まあ、見ていれば分かるよ」
ディスプレイを覗き込む尋の心中を察したように唐澤はそう言って先を見るのを促した。
動画は休みなく再生され、時刻が一三時を指したところで、尋は何かがおかしいと感じ始めた。
「……車が動いていない?」
否、それだけではない。
「車から誰も降りてない……」
翔子も違和感に気付いて呟いた。
トラックやバンの類なら、荷物の輸送中に数時間に渡って停めているのも分からなくは無いが、これはただの軽自動車だ。それがこうまで長い間停め、誰も乗り降りしないというのは、まるで……。
コンビニを監視しているようではないか。
再び時間が経過して動画の時刻が一三時四〇分を指した時、更なる変化が起きた。
車のドアが突如として開かれた。
「あ……」
そして一人の男が降り、カメラの方へ……コンビニの方へ走ってくる。
その男の顔は……。
「……来?」
「拡大解析する間でもなく、まず間違い無いだろうね。ついでに車のナンバーを照会して貰ったが、結果は予想通りだった」
つまり……。
「来の、車」
「うん。ここから推測できる事としては、恐らく来の能力はある程度距離的な制限があるんだろう、という事だな」
「……それ、少し待って貰ってもいいですかね」
唐澤の決断を、しかし尋は留めた。
「ちょっと、引っかかってる事があるんです」
「引っかかってる事?」
「はい。唐澤さん、覚えてませんか? 来が俺と唐澤さん、店長の前から姿を消した時の事」
しばらく腕を組んで考え込んでいた唐澤は、しかしやがてかぶりを振って答えた。
「覚えているが、別段変わった事は無かったと思うよ。それこそ、我々の近くにいた彼は能力を発動する条件を満たしていたと思うが……」
「そりゃそうなんですけど……どーも引っかかるんですよ」
「何が、だい?」
「ほら、覚えてません? 来が逃げ出した時に見たじゃないですか……来の顔を」
今でも思い出せる。来のあの……相手をあざ笑う顔を。
「そうだったのか? すまないね、逃げ出す来にどう対処するかで必死だったからね」
すまないね、と唐澤は頭を掻いた。
「でも、それっておかしくないですか?」
隣で翔子が口を開いた。
「おかしいって?」
「だって、これから逃げようって時に、何でこっちに顔向けて逃げるんですか? 普通、追い詰められたんなら背中見せて逃げますよね?」
「……そうなんだよなぁ」
尋が感じた違和感はまさしくそれだった。来が自分の能力に過大な信頼を置いていて、その優位性を示すための余裕の表れと取れなくもないが、どうも裏がある気がする。
「……まあ、その疑問を解決する為のこれだったんだけど」
そう言って尋が取り出したのは、尋のスマホ。
「……あ、ひょっとして、あの動画」
察しのいい翔子がポン、と手を叩いた。
「そ。ひょっとしたら来が映ってるかもと思ってさっき確認してたんだけど……ビンゴだった」
そう言って件の動画を再生する。そして動画の開始地点から九秒の時点で一時停止する。
「これ、見てみろ」
そう言われて受け取ったスマホをまじまじと見て翔子は眉を顰め、唐澤に「どうぞ」と、まるで見たくない物をすぐにでも手放したいとでも言うように渡した。
翔子のそんな態度に苦笑いした唐澤は尋のスマホの動画を見たが、その顔はすぐに怪訝そうに歪んだ。
「こ、これは……」
「軽くホラーですよね、これ。趣味悪っ」
「……まあ、気持ちは分からなくは無いですけど……」
尋が撮った動画には、尋の予想通り来が映っていた。映ってはいたのだが……いかんせん、映り方が不味かった。
その動画の中の来は、道路に面した公園を囲む木々の内の一本から気味の悪い顔を覗かせていたのだ。映ってはいけないものが映っている辺り、来の青白い顔と相俟って、最早ホラー映画のワンシーンにしか見えない。
「ま、まあこれで、来の能力は推測出来そうだね」
「……ああ、そうだな」
「こっちでも確認しました」
来のホラー動画から早々に逃れ、監視カメラを確認し直していた翔子がパソコンから顔を上げた。
「来が唐澤さん達から逃げる時、後ずさりしながら逃げています。余りにも不自然です」
「……決まりだね」
恐らく、来の能力は対象を目視する事で発動するのだろう。コンビニで尋達から逃げる時、常に尋達を視界に入れるようにして後ずさりしていた事、尋達が来の幻影を見失うまで来が尋達を見ていた事が、何よりの証拠だ。
「能力の条件が分かれば対策も立て甲斐があるね」
「あと、多分町中の監視カメラでなら来の行方も追えそうですしね」
尋が来を追うのを諦めた理由もその一つだ。目視で来を追えなくとも、監視カメラに映る実際の来の姿なら必ず見失わない筈だ。
「ああ、警察本部にも捜査協力を打診するよ」
「はい……そういえば唐澤さん」
思い出したように尋は手を上げた。
「何だい?」
「ずっと気になってたんですけど……来って『ディナイアー』と『アドバンサー』のどっちなんですか?」
ずっと気がかりだった。来の今の状態は、『ディナイアー』のように自分の『罪』に怯えて我を忘れ、暴走しているようには見えない。かと言って、『アドバンサー』のように能力を正しく使っているようにも見えない。
まるで、自らの『罪』に溺れ、進んで『罪』を重ねようとしているかのようだ。
「……来が『ディナイアー』か『アドバンサー』のいずれなのかと聞くのであれば、答えは後者だ」
「じゃあ何故……」
「『ディナイアー』と『アドバンサー』の違いは、何も『罪』を償おうとするかしないかじゃないわ。『罪』を受け入れたか否かなの」
翔子が説明のため割って入る。
「『罪』を受け入れ、それでもなお『罪』を重ねようとする者、『アディクター』よ」
「『中毒者アディクター』……罪に溺れる者……」
『ディナイアー』以外にも、能力で危害を加える人間が存在する事に、尋は驚かされた。『罪』を受け入れてなお犯し続けようとする心境とは、どんなものなのだろうか。
「そういう事だ。全く、厄介すぎるものだよ」
言いながら唐澤は眉を顰める。
「説得の余地がある分、『ディナイアー』の方がまだ良心的だよ。逆に『アディクター』は説得など不可能な上狙ってこちらを攻撃してくるから、余計に質が悪い」
唐澤の言葉には、どこか怒気が込められていた。まるで、『アディクター』と戦った事があるかのような。
「……まあいい。来が敵である事に変わりは無い。取り敢えず、二人ともお疲れ様。……と、もうこんな時間か」
唐澤の声に時計を見ると、既に時計は八時を回っていた。
「うわ、もうこんなに時間経ってたんだ」
「さすがに帰った方がいいですかね」
ここに寝泊まり出来るような設備があれば話は別だが。
「うん、そうだね。尋君はそろそろ帰った方がいいだろう。残念ながらここで寝泊まりはさせられないし」
唐澤はニッコリと笑っているが、その目は笑っていない。まるで終電を逃す前にとっとと出て行けと暗に言っているようだ。
「……分かりました。じゃあ、申し訳ないですけど俺は先に。明日は休日ですし、朝から出勤、って感じですか?」
「ああ、明日の朝までにならいい結果が得られるだろう。明日の朝九時に集合だ」
「了解です。翔子はどうする?」
「私は……もう少しここにいるわ」
翔子はあっけらかんと言った。が、尋はその時翔子が唐澤を見たのに気付かなかった。
「そっか。んじゃ、お疲れ様でした」
「うん、お疲れ様」
「お疲れー」
尋が後にした部屋には、翔子と唐澤の二人だけが残されていた。
「ふう、やっと帰ってくれたかな」
「ちょっと唐澤さん、まるで尋君を帰らせたがってたみたいじゃないですか」
「まあ、そうだが?」
唐澤はそう言って意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ここは翔子の家・・・・だ。そこに部外者の男を夜遅くまで置いておきたく無くてね」
「……ありがと」
翔子は素直に感謝の意を述べ、目を伏せた。そんな翔子の頭を撫で、唐澤は立ち上がった。
「すまないが、先程の件で私は本庁に行く。今夜は帰れないかもしれない」
「……っ!」
唐澤の言葉を聞いた瞬間、翔子は顔を悲痛そうに強張らせた。
「仕方が無いだろう? 仕事なんだからな。お前ももう子供じゃないんだ。だから、今日は我慢してくれ」
なだめる唐澤の言葉に翔子はしばらく俯いていたが、やがて小さく「分かった」とだけ呟いた。
「いい子だ。よし、じゃあ行ってくる」
そう言い残し、唐澤も部屋を後にした。
部屋には翔子以外誰もいなくなった。しばらく翔子はそのまま足元に落ちる自分の影を見つめていた。
誰もいない。
また・・、誰もいなくなった。
「……嘘吐き」
一人にしないって、言ったのに。
「ただいまー……って、誰もいねーか」
自宅玄関のドアを開けた尋を待ち構えていたのは、誰もいない自室の暗闇だった。
月光の届かない、ほとんど完全な闇。だがそれは、完全な闇じゃない。次第に目が暗闇に慣れれば……ほら。
薄暗い暗闇の中に、尋の住むアパートの一室の輪郭がぼんやりと浮かんできた。街灯か、あるいは部屋の中の僅かな機器が発する光か。その光が部屋中の壁や机ではね返され、部屋の形状をぼんやりと示す。その、普通ならば視認する事も出来ないような光を、しかし今の闇に見慣れた尋の目は捉えていた。
所詮、こんな物だ。世間一般に言われる暗闇なんてのは、本当の暗闇ではない。この世界には必ず光がある。光がある以上、完全な暗闇などありはしない。だから、この程度の暗闇に怖気づく事など無い。
いや、もし仮にそんな暗闇が――光の全く無い、完全な暗闇が――存在したとしても、恐れたりはしないだろう。自分自身の意識が、感覚が存在している限りは。
それらが完全に無くなり、あらゆる知覚すらも消え去った完全な無に包まれる事。それこそが死であり、恐怖なのだ。
そんな事をぼんやりと考えながら、尋はベッドに服を着たままダイブした。
「……疲れた」
ここ数日、色々な事が起こり過ぎた。
一昨日、学校からの帰りに不能事件に巻き込まれ、未知の能力に覚醒した。そして同じように能力を持つ者である煉司を昏倒させ、翔子と会った。
昨日、その翔子が転校してきて、翔子とその上司の唐澤から不能事件と『ディナイアー』そして『アドバンサー』について聞かされ、『A・I・C』の一員となった。
そして今日、新たな不能事件に巻き込まれ、『アディクター』である来と対峙し、惜しくも逃げられた。そしてその来の罪や能力、その条件を推測するのに貢献した。
立て続けに多くの事が起こり過ぎて、頭がパンクしそうだ。
既に尋は、『不能事件』という非日常に片足を突っ込み、もう片方の足も入りそうになっている。
これまで尋が見てきた、信じてきた日常が崩れ去りそうになるのを感じる。まるで平均台の上で危うく落ちそうになっているような、そんな感覚。少しでもバランスを崩せば、真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。
このままどっぷりと入り込んでしまって、いいのだろうか。
このまま非日常に両足を突っ込むのみならず、全身浸かってしまっていいのだろうか。
そしたら、戻れなくなってしまう。あの日常に。愛や晃、夕菜と過ごす日常に。
今ならまだ、戻れるのではないか。
道ならもう示した。あとの対処は唐澤達に任せて、「自分には荷が重い」と言って引き返す事も出来るのではないか。
いや、出来た筈なのだ。最初からそうすべきだったのだ。あの時、唐澤に仲間になる事を提案された時、変に見栄を張る必要は無かったのだ。唐澤の言う通り数日間じっくり考えてから断ってもよかったのだ。火事を見つけた時だって、普通に通報すればよかった事なのだ。
尋は胸ポケットから布製のそれ――警察手帳を取り出した。
これを手放せば戻れる。
これを手放せば引き返せる。
俺は……俺は、今の日常を失いたくない。せっかく手にした、この日常を。
右手に握ったそれを握り潰そうとして、しかし尋ははたとその指を止めた。
それなら、どうなる?
尋が日常に戻ったとして、しかしそれでも非日常が無くなる訳ではない。それどころか、それは『不能事件』という形で更に日常を蝕んでいくだろう。
この日常は今、危険な状態にあるのだ。
バランスが危うくなっているのは尋ではない。日常の方だ。
尋が非日常に足を突っ込んでいるのではなく、非日常が日常を侵食し、尋が今経っている場所まで来ているのだ。
なら、どうする? 今いる場所から逃げるのか? それもまた手だろう。
だが、それならこの『罪ちから』は何のためにある?
この『罪ちから』は、自分の罪を償う為のものでは無かったか?
翔子や唐澤の事を思い出す。
彼女達もまた、尋と同様に『罪ちから』を抱えている。尋以上に、非日常の沼に浸かっている。それでも逃げないのは何故か。
守るためだ。
彼女達は自身の『罪ちから』を、日常を守るために使っている。それが彼女達の償い方なのだろう。
尋は手帳を握りしめた右手を下ろすと、今度は空いていた左手を見つめた。その掌に自らの『罪ちから』を想起する。
この『罪ちから』もまた、日常を守るためのものの筈だ。
なら、自分も彼女達と共に日常を守るべきではないか。日常が非日常に侵され、飲み込まれる事が無いように、自ら頸木となるべきではないか。
いや、守るべき・・・・なのではない。守りたい・・・・のだ。
日常を、自分が過ごしてきた日常を。
愛を。
晃を。
夕菜を。
友人達を。
自分と関わってきた全ての人達を。
守りたい。
自分よりも誰かのために。それが前道尋の償いの生き方。
違う。それこそが、今の自分のしたい事なのだ。
「自分から何かをしたいと言った事が無い」と愛は尋を評した。実際、それは正しかった。いや、正しいと思い込んでいた。
償いの生き方は、最早尋の望みなのだ。
この「罪ちから」が、尋にそれを教えてくれた。
それがきっと、この『罪ちから』を手にした意味だから。
だから。
「……守ろう」
思いのままに。
それが、俺の償い方したいことだ。
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