第5話 その男
「やあ、二人ともお帰り」
尋と翔子が『A・I・C』本部に戻った時、唐澤は会議室で正面に垂れ下げられたスクリーンを睨み付けていた。スクリーンには神奈川区の地図らしきものが表示されており、赤く縁どられた大小不揃いの円がその上にいくつも描かれている。
「えっと……話って……」
「ああ、それなんだが……」
これを見てほしい、と言って唐澤は目の前のスクリーンの、一番大きな赤円を指差した。
「これは……?」
「『クリモイド』の反応が確認された範囲だ」
「『クリモイド』の反応……?」
尋の疑問に答えるように、翔子が言葉を繋いだ。
「言ったでしょ? 能力者が能力を使用する際には、能力者の体内から『クリモイド』が放出される。その『クリモイド』を横浜市中に配置された装置で検知出来た範囲が、この円よ」
風とかのせいでアバウトにしか分からないけど、と翔子は腕組みした。
「因みに、能力者の発する『クリモイド』には個体差がある。これは人により罪が異なるからという説が有力だが……まあそれはいい。とにかく、検知した『クリモイド』をデータと照合してみたが、合致する人物はいなかった。もちろん、尋君もね」
「え、じゃあこれは……」
「そう」
唐澤は沈痛な表情で告げた。
「新たな能力者だ」
ぞくり、と背筋が泡立つのを感じた。
「……『ディナイアー』、って事ですか」
尋は自らの『罪』に正気を失った悲劇の男――煉司の事を思い出した。
「……一概にそうとも言えないけどね」
尋の隣で翔子がぼそりと呟いた。
「えっ?」
その意味を聞こうとした尋の思考は、しかし唐澤によって遮られた。
「おまけに、この位置は少々問題がある」
唐澤は近くのパソコンを操作した。するとスクリーンの、『クリモイド』の検知された箇所の図の隣に神奈川区の実際の地図が表示された。更に、その二つの図が重ねられる。
「こうして見れば分かると思うが……」
そう言って唐澤は答えを促すように尋達の方を見た。
「えっと……」
そのままスクリーンを睨み付ける事五秒。先に気付いたのは翔子だった。
「あれ、ここって……」
そう言って翔子が指差した場所には、「多里沢高校」と書かれていた。
「うちの学校の周囲って事ですか?」
「ああ。更に言うと、検知できた時刻から察するに、発動時間は今朝の一〇時から午後二時頃まで。それも継続的に」
「……じゃあ……」
翔子がゴクリ、と唾を飲み込むのが尋にも聞こえた。
「俺たちが学校で授業を受けてる間に、誰かが力を使ってたって事ですか?」
言いながら、尋は自分の声が掠れているのに気付いた。
尋達が学校で普通に生活している間に、誰かが能力を使い、更には周囲に被害を齎していたのだ。
「今、彰あき岡おかを現地に向かわせているんだが……」
「彰岡君を?」
聞き覚えの無い名前に、尋は首を傾げた。唐澤の口振りから察するに、彰岡というのは『A・I・C』のメンバーなのだろうか。
その時、部屋の天井に備え付けられたスピーカーからガガッという音がしたかと思うと、男の声が聞こえてきた。
『こちらA01。現場周辺を捜索してますけど、特に変わった事は無いっすよ。怪現象の情報はおろか、死傷者も無しっす』
若い男のような印象の声に、やはり尋は聞き覚えは無かった。
「そうか……ありがとう。帰還してくれ」
通信を終えた唐澤は、椅子にどっかりと座り込み、悩ましげに眉を顰めた。
「あの……今の彰岡さん? とかA01とかって誰なんですか?」
「まだ紹介してないうちのメンバーよ。今度機会があれば紹介するわ」
翔子が胡散臭そうに頭を掻きむしりながら言った。
(……そうだ、今はそれよりも……)
「……何も起きてないって、どういう事ですか?」
「……可能性は三つある」
唐澤は俯きながら指を三本立てた。
「まずは、能力者が『ディナイアー』だが、その能力が影響をほとんど認知出来ないようなものである可能性。次に、能力者が『アドバンサー』として覚醒した可能性。これが一番望ましいがね……」
そこまで言うと、唐澤は再び押し黙った。
「……残る一つは?」
尋は恐る恐る尋ねた。
「…………」
しかし唐澤はそれには答えず、俯いたまま翔子に尋ねた。
「君らが学校にいる時、何か変わった事は無かったかい?」
「いえ、特には……」
……これが同級生なら「質問を質問で返すな」とか言うんだけどなぁ。
そんな事を考えながら、尋は今日の学校での生活を思い返した。
今朝は何事も無く起床。朝練のあった愛とは登校せず一人で登校、翔子と会う。その後何事も無く学校に到着。学校に着いてから翔子の件で一悶着あったが、特に変わった事があったという訳じゃない。
その後の授業も滞り無く終え、放課後になり、翔子と合流して、そしたら唐澤さんに呼ばれて……。
……ちょっと待て。
その前に何か……。
「……あ」
「どうした? 何か気付いたのかい?」
突然声を上げた尋に驚いて唐澤が声をかけるが、尋はもはや気に留めていなかった。
あの時感じた違和感は、やはり間違いではなかったのかもしれない。
「えっと、今日三原さんと会う少し前の事なんですけど……」
「その時の店員の顔は覚えているかい?」
尋の身に起きた出来事を聞き終えた唐澤はそう尋ねたが、尋はかぶりを振った。
「見たのは後ろ姿だけですし……」
「何それ。あんたが見たのが能力者か能力被害者かも分からないわけ? 使い物にならないわね」
相変わらずの、いや、いつも以上の翔子の辛口に唐澤も呆れ返っている。
「あのねぇ翔子……いい加減それ直らないの?」
「えっ? 何がですか?」
が、当の本人は悪びれるどころか、何が指摘されているかすら分かっていない様子で、唐澤に対して無邪気としか言えない笑みを浮かべた。俺に対する態度と唐澤さんに対する態度のこの差は何だろう。って、こんな事前にも考えたような……。
「……まあいいよ。でも少なくとも、能力の発動していた場所は判明したわけだから、現地に行こうか。何か手掛かりも得られるかもしれないしね」
そう言って時計を見ると、既に五時を回っていた。
「地下だから時間が経つのが早く感じるね……尋君は、遅くても大丈夫なの?」
「まあ、一人暮らしですし……」
偶に愛が家に遊びに来る事もあるが、そんな連絡も無いし大丈夫だろう。
「……って、三原さんこそ大丈夫なのか? 家族に連絡位入れた方が……」
何の気も無しに言った尋のその言葉は、最後まで続かなかった。
その言葉を聞いた瞬間、翔子はキッ、と殺意の籠った視線を尋に向けた。
「知った風な口を利かないで」
言いながら尋に近づき、いきなり尋を締め上げた。
「……何も知らないくせに」
「えっ、ちょっ、放っ……!」
襟元を締め上げる翔子の力が強すぎて息が苦しい。本当に女子なのかと思う程のとんでもない力だ。暴れて無理矢理引き剝がしたいが、相手が女子だからあまり乱暴な事も出来ない。
翔子の顔を見れば、最初に会った時以上の殺意と怒りを孕んだ表情で尋を睨み付けている。一体何が彼女をここまで怒らせたのだろうか? 何か失礼な事を自分は言っただろうか?
「翔子っ!」
翔子の行動を見かねた唐澤が翔子を怒鳴りつけると、翔子も我に返ったらしく、すぐに手を離した。
「ぐっ……げほっ、げほ……」
喉を締め付ける翔子の腕から解放された尋は、その場に倒れこみ咳き込んでしまう。
だが、翔子はそんな尋を一瞥しただけで、すぐに踵を返した。
「……外で待ちます。現地調査をしないなら連絡を入れてください」
振り返りもせずそう言って、翔子は部屋を後にした。
「大丈夫かい?」
「ええ、まあ……」
背中をさすってくれる唐澤に礼を言いながら、尋は先程の自分の発言を思い返した。
一体何が問題だったんだろう。尋が言ったのは翔子を案ずる言葉と……。
「……『家族』、か……」
「ん……?」
「三原さんの事です。あの人が怒ったのは、『家族』……ですか?」
翔子に対して言った言葉で、彼女が怒る原因となりそうな言葉はそれ位しかない。それも、尋の勘が正しければ……。
「彼女……家族がいない・・・・・・んですか?」
「……いや、いるよ。少なくとも、血縁上は」
唐澤はそう否定したが、そのやや含みのある言い方と悲痛な表情は、その裏側に複雑な事情がある事を物語っていた。
「まあ、これ以上は君自身も追及しない方がいいよ。僕個人から話せるような事じゃない」
「……分かりました」
恐らくは、例の『罪と関わりのある過去』なのだろう。深入りはしない方がいい。
だが、翔子のこれまでの行動を思い返し、何となく察しはついていた。彼女の行動はまるで……。
そこまで考えて尋はかぶりを振った。今は詮索する時じゃない。今するべき事は……
「……行くんですよね? 現場に」
「うん。行こうか、翔子が待ってる」
現場に着くまでの間、翔子は一言も話さなかった。一人で先を歩き、尋と話す事を拒絶しているようだった。
(……こりゃ、謝るのも一苦労だな)
「ここ、だね」
唐澤の声に我に返ると、尋達は夕方のコンビニの前に着いていた。
「でも、どうやって調べるんですか? 手掛かりは俺が見た後ろ姿だけだから、顔見ても分からないですし……」
尋の疑問に、唐澤は例の警察手帳を取り出し、自慢するように答えた。
「まずは、何が起きていたかを確かめる。これを使ってね」
唐澤は意気揚々と店内に入っていった。
「すいませーん」
入り口すぐの場所のレジには女性店員が一人いるだけで、店内には品出しをする店員を除けば誰もいなかった。唐澤は手帳を出しながら、優しく、それでいて畳み掛けるように話し出した。
「我々こういう者なんですが……詳しい事は言えないんですが、こちらで事件が起きたという情報がありましてね? 事実確認のため店長から話を伺いたいんですよ。あと、この店の監視カメラも見せて頂きたいんですが……」
「は、はい! 今、店長を呼びますので……」
唐澤の手帳を見た瞬間、その店員は顔色を変え、飛ぶようにバックヤードに引っ込んだ。
「……これ、職権乱用な気がするんですが」
「事件が起きた」というのは誇張のような気がする。実際被害にあった人がいるかすら分からないのだし。
「ま、細かい事はいいんだよ」
しばらくすると、バックヤードの方から店長と思しき男が現れた。
「えっと、け、警察の方々、ですね? 今、監視カメラの録画記録をお見せしますので、どうぞこちらへ……」
見るからにオドオドした様子の店長はそう言って尋達を店のバックヤードへと導いた。
(コンビニのバックヤードって……こんなとこなのか)
バックヤードは、言わばコンビニの裏方仕事を支える場所だ。商品の在庫が保管されている他、事務方仕事用のパソコン、そして監視カメラ用のモニターがデスクの上に鎮座している。店長はそのモニターの一つの前でキーボードを必死に叩いていた。
「えっと……時間帯はいつ頃ですか?」
「そうだな……翔子と連絡を取ったのが一時四二分だったから……一時半前後にしてくれ」
「はい……」
渋々、といった具合で店長がパソコンのカーソルを合わせる。
「はい、どーぞ。ついでに、一体どんな事件なのか教えて頂きたいんですよね。こっちも信頼問題とかありますし」
「残念ながらまだ事実確認の段階なので……それにほら、今はお客さんいらっしゃらないみたいですし」
ほら下がって下がって、と唐澤は胡散臭そうな目を向ける店長を誤魔化しながら、モニターを睨み付けた。
「えっと尋君が映ってるのは……これだね」
そう唐澤が指差した、六つの動画の内の一つには、確かに尋が映っている。だが、尋はその映像に違和感を覚えた。
後ろにいる筈の店員がいないのだ。尋の後ろで品出しをしていたはずの店員が。その店員の存在が目下の問題となっているのに。
ひょっとすると、尋が振り向く寸前に来たのだろうか? だが、唐澤が一・五倍速で再生する映像には、一向にその店員が現れる気配がない。
尋が頭を抱えていると、映像に動きがあった。問題の出来事、つまり映像の中の尋が振り向き、突然前のめりに倒れ込んだのだ。
「……あれ?」
おかしい。
あの店員が・・・・・いない・・・。あの時、尋の背後にいたはずの店員が。
「……どういう事?」
翔子が尋を睨み付けてくる。それも今までに無い程恨みがましい声で。
「……別に嘘言ったつもりは無いんですけど……」
「まあ、可能性は三つだね」
例のごとく、唐澤さんは指を三本立てた。
「一つは尋君の見間違い。まあ、可能性は無くはない、って感じだけど。因みにこれを見る前に考えていたもう一つの可能性は、その店員が尋君に見られたタイミングで何者かに消された……つまり能力被害者だという可能性だ。でも、この可能性は無い。そもそもそんな・・・・・・・店員はいなかった・・・・・・・・みたいだからね」
そう後ろにいる店長に聞こえないよう小声で言って薬指を曲げ、立てた指を二本にする。
「じゃあ、やっぱり……」
能力による幻覚か。
「うん。その線が濃厚だね。能力の発現場所と目されているのもこの辺りだし、まず間違いないだろう」
唐澤も尋の考えを察して頷く。が、その顔は浮かない様子だった。
「……正直、尋君の見間違いであってくれればいいんだがね」
「えっ?」
どういう意味だろうか。無論、相手の能力が未知数である以上、戦闘は避けられないというのは事実なんだろうが。
「あのう……もういいですかね……?」
下がらされて業を煮やした店長が後ろからモニターを覗き込んでくる。
「あ、はい。今終わりましたんで……」
唐澤は苦笑いで誤魔化すが、その声は店長には届いていなかった。モニターを凝視し、動かずにいる。
「あの、何か?」
「いえ、その……余計な事かもしれないんですが……」
そう言って店長は眼鏡をスチャッと上げた。
「見間違いでなければ、店員が一人少ないんですよ」
「一人少ない?」
「はい。うちのコンビニではいつも品出しの店員を一人、レジ担当を二人、在庫整理担当を一人と定めて、ルーティーンで回してるんです。でもこれ……」
店長がキーボードをしきりに叩くのを、尋達は脇から覗き込んだ。監視カメラの時刻は午前の一〇時を指している。
「唐澤さん、これって……」
翔子がこっそりと唐澤に耳打ちする。
「うん」
能力発動が確認された最初の時刻だ。
「あー、やっぱりか……くそっ」
モニターを見て何かに気付いた店長はそう悪態をついた。
「どうかされたんですか?」
「いやね……一人足りない理由が分かったんですけど、一人サボってたみたいで……お恥ずかしい限りです」
店長はそうばつが悪そうに頭を掻いた。まあ確かに、コンビニのような小さい店舗での一人のサボりは営業に支障を来たしかねない。
「おまけにこれまで休んでて、今日久々の出勤だと思ったらこれだ。全くもう……」
どう叱ったものか、と気を揉んでいる店長をよそに、尋は唐澤に尋ねた。
「ビンゴ、ってとこですかね」
「うん、まず間違いないな。その店員だ」
唐澤は頷くと、まだうんうんと頭を悩ませている店長の肩をポンと叩いた。
「失礼ですが、その店員というのは?」
「新にい島じま来らい君です……あの、彼が、何か? ひょっとして、サボってる間にどっかで事件起こしたとかですか?」
「いえ、そういう訳じゃないんですが……彼は今?」
「店内清掃を頼んでたんですが……この調子じゃあそれもサボってそうですね」
はあ、と迷惑そうに溜め息を吐きながらも、店長は店先へと尋達を案内した。
「よし、じゃあ尋君は僕と来てくれ。それと、翔子には頼みがある」
* * *
この力は面白い。
機械的にモップをかけながら、男――新島来は上機嫌に鼻歌を歌っていた。
学生と自分の幻影がぶつかりそうになった後、力・を使い続けるのは難しいと判断した来は幻影と入れ替わりで、自分で仕事を再開する事にした。
幸いにも来が入れ替わった事には誰も気付いていないらしかった。無論、そこでも力を使ったのだが。
この力なら、ストレスを感じない程度にサボりながらでも仕事をすることが出来る。いや、もういっそ仕事をすべてサボってしまおうか。
だが、と来はかぶりを振る。この力がそれ程便利なものではない事は来自身がよく分かっていた。
この力を自由に扱えるようになるには、もう少し時間をかけてこの力について知らなければならない。
何、心配は無い。この力が気付かれる事はまずないだろう。『嘘を現実にする』事が出来るなど、言った所で誰も信じはしない。
嘘とは本来そんなものだ。人は皆、目の前の人間が嘘を吐いても滅多な内容でなければ気付かない。
そのくせ、人は様々な場所で嘘を吐く。ちょっと寄り道して来る時間が遅れるのを「電車が遅れていた」と言ったり、相手の話をバカバカしいと思いながらも機嫌を取るために同意したり、逆に自慢のために話をでっち上げたり話題を盛ったり……一つ一つ上げていけばキリがない。
全く、人間とは滑稽なものだ。自分では嘘を吐きながら、相手の嘘には気付かないなど。だがまあ、仕方の無い事なのかもしれない。嘘は日常の中に溢れ、溶け込んでいるものなのだから、気付かないのは無理も無い事なのだろう。
だからこそ、来は昼の出来事をそれ程気にしていなかった。どうせあの学生は気付いていない。ただの見間違いだったと思ってすぐに忘れるだろう。そう考えていた。
だが、バックヤードから出てきた男達の顔を見た瞬間、来の顔は驚愕で激しく歪んだ。
* * *
店長に案内された店先では、一人の店員がモップ掛けをしていた。
その店員を最初に見た尋の最初の印象は、陰鬱そうだ、というものだった。背中は不自然に曲がり、伏し目がちな目は無関心で満ちているようだった。表情も暗く、気弱そうでもある。体格は少しほっそりとして、体力はそこまで無さそうだ。
その店員も尋達に気付き、表情を歪めた……が、それも一瞬の事で尋は気付かなかった。
「彼が新島君ですよ。おい、新島!」
「……翔子」
唐澤が、店長に聞こえない位の小声で呟く。
『はい、監視カメラにも映ってます。間違いありません。本人です』
耳元から翔子の声が聞こえてくる。無論、翔子本人はここにはいない。彼女はバックヤードのモニター前にいる。
幻影を見せる能力と目されている新島来に対抗するため、唐澤が出した指令だった。尋の目撃情報と監視カメラの状況から、来の幻影はカメラでは捉えられないらしい。だから翔子にモニターを監視してもらい、リアルタイムで来の居場所を伝えるべく、無線の小型マイク付きイヤホンを装着したのだ。これならば、来の幻影に騙される事も無い。
「はい、何すでか? 店長」
呼ばれた来は如何にも面倒臭いといった感じでモップを置き、気だるげに頭を搔きながら尋達の方へと近づいてきた。
『……問題ありません。新島、近づいてます』
「新島ぁ! お前今日仕事してないだろ!」
狭い店内に店長の怒号が響く。店内に緊張が走るが、当の本人である来は心当たりが無いとでも言うように頭を掻くだけだ。
「いや、そんな筈無いですよ。日南子ちゃんに聞いてみて下さい。ちゃんと働いてましたから」
「噓吐け! 監視カメラにお前が映ってなかった事はこっちでも確認したんだよ!」
「あのぅ……」
不意に背後で声が聞こえた。尋達が振り向くと、先程の、日南子と呼ばれたレジの女性店員が恐る恐るといった具合で手を挙げていた。
「私、新島君が働いてるの見てたんですけど……品出しもちゃんとしてましたし」
「えっ? でも、カメラには……」
店長は目を丸くした。恐らく、監視カメラに来が映っていなかった事と日南子が来を目撃した事とを頭の中で必死に結び付けようとしているのだろう。
「大方、僕が監視カメラの死角にいたってだけじゃないですかね? 悪気はなかったんですけど……」
来がへらへらとした笑みを浮かべながらそう言う。来のその態度に店長は眉をピクリとさせるが、言い返す言葉も見つからずに押し黙ってしまう。
「うーん、言われてみればそれもありうるが……」
店長がそう考え込んだ時、耳に翔子の高く鋭い声が響いた。
『対象、逃げます! ドアに!』
尋と唐澤がドアの方を振り向くと、来のあざ笑うような憎たらしい表情が夕方の町の闇に飲み込まれて消えるのがチラリと見えた。それとほぼ同時に、目の前にいた筈の来の姿がフッと消える。まるで映写機のコマ切れのように。
「あっ……!」
しまった、逃げられた。
突然の逃亡に尋は焦ったが、唐澤は冷静だった。
「尋君! 彼を追ってくれ! 翔子! 君もだ!」
「り、了解!」
『分かりました! 唐澤さんは!?』
「私はいい! 早く!」
尋は弾かれるように店を飛び出した。遅れてバックヤードから飛ぶように出てきた翔子も後に続く。
後に残された店長と日南子はポカンとしていた。
「え、えっと……何が?」
「店長」
唐澤は、突然の事に声が若干上ずっている店長の肩を掴み、やんわりと優しく、それでいて断りにくいような強さの声で語りかけた。
「来君の事はこちらで何とかします。なので、あなたがたにも協力して貰わなくてはなりません。構いませんね?」
「「は、はい……」」
店長も、レジで聞いていた日南子も、頷く他無かった。
一体どういうからくりなんだろう。
足が地面を蹴り飛ばす感覚を頭の隅で感じながら、尋はそんな事を考えていた。
ひょっとすると、来が幻影を見せられるのは人に限られるのだろうか。それが、尋や店員の日南子が来の姿を見た事実と、監視カメラが来の姿を捉えていなかった事実の食い違いの原因なのだろうか。
だとすれば、何故。何が両者の差なのだろう。
それに、と尋は思い返す。
翔子に言われるまで尋の視界の中には自動ドアが映っていたが、来は目の前にしかいなかった。つまり、来は自分の姿を透明に見せていたのだ。
だとすると、ここで矛盾が起きる。
何故自動ドアは透明な来に反応したのだろう。
センサーが機械だから? じゃあ何故……。
目の前を走る来を必死に追いながらそこまで考えた時、尋はちょうど公園前の交差点でピタリと足を止めた。
「……待てよ」
「ちょっと! 何してるの!? 逃げられるわよ!」
尋に追いついた翔子が叫ぶ。確かに、立ち止まった尋と走り続ける来との間の距離はみるみる離されていく。だが、尋はその背中を見つめたまま動こうとしない。
「あんたね! もう置いてくわよ!」
しびれを切らした翔子が再び走ろうとする。だが尋はその袖を掴んで足止めした。
「おい、待て」
「もう、何!? 離して!」
「落ち着け。よく考えろ。俺達が今追ってるあれは本当に来か?」
「……っ!」
尋の言葉の意味する所をすぐに理解した翔子はハッとした。相手は幻影を見せる能力を持っているのだ。目に映る物全てが事実と思ってはならない。
「……じゃあどうするのよ! このまま見逃すわけ?」
「任せろ。ちょい考えがある」
尋は冷静にポケットからスマホを取り出すとカメラを起動した。すぐにそれを動画モードに切り替えて撮影を開始する。
目には来の幻影が見えているのに、カメラには映っていない。つまり、その幻影は『実際にその場所に現れている訳ではない』という事だろうか。
仮にそうだとすれば、尋達には見えていなかった来に自動ドアが反応するのも頷ける。あの手のドアのセンサーは近くの人を赤外線で感知する。センサーが捉える来は実際にいる来なのだから、当然反応する。何故なら、カメラやセンサーが捉えている来の姿は透明ではないのだから。
来の能力のからくりが、少し見えた気がする。
目の前に高架下を走る来が見える。その来の背中にスマホを向けると、尋のスマホに同じ風景が映りこむ。だが、決定的な違いがそこにはあった。
来が映っていない。
間違いない。あれは幻影だ。
「ああもう! 逃げられた!」
尋のスマホを覗き込んで全てを理解した翔子は悔しそうな声を上げるが、尋はまだスマホを下ろさず、今度は周囲の撮影を始めた。
「来の姿はまだ見えてるか?」
「え? ええ、まだ見えるけど……でもあれ幻影でしょ?」
翔子は意外な事を聞かれたというように眉を顰めた。だが尋はお構いなしにカメラを回し続ける。
「来が見えなくなったら言ってくれ」
「え? でもあれは……」
「いいから」
来の能力の実態はある程度分かった。次に知るべきはその条件だ。
「……分かった」
尋の考えている事は分からなかったが、翔子は取り敢えず来の背中を見つめた。
遠くにある高架下を通り抜けた来――の幻影――は通行人の間を縫うように走り抜け、歩道橋下の角を曲がり……見えなくなった。
「……見えなくなったわ」
「サンキュー。十分だ」
尋は漸く撮影を終えると、スマホをしまった。
『どうだ、来はどうなった?』
イヤホンから唐澤の声が聞こえてくる。
「すいません、能力で逃げられました」
『そうか……』
イヤホン越しに唐澤の落胆が伝わってくる。無理も無い。幻影を見せる能力を持っているのだから、一度逃げられてしまうと再度発見は困難になる。
「……でも、」
だが、自信ありげにそう言った尋は上を見上げ、ある物・・・を見つけた。
あれがあれば、来を捕まえられる。
「尻尾は掴みました」
* * *
危なかったな。
来は悠然と歩きながら、昼と全く同じ感想を抱いていた。まさか、昼の学生が再び訪ねてくるとは思わなかった。それも、恐らくは来を目的として。
あの男達は何者だったのだろう。何故コンビニの監視カメラを確認しに来たのだろう。来を追ってきたという事は、まさか、来の能力がばれたのだろうか。だとしたら、何故。
少なくとも、今のアルバイトは諦めざるを得ないだろう。おまけに、もしあの男達が自分を追っているのなら、身元が割れるのは時間の問題だ。
まるで犯罪者だな、と来はほくそ笑んだ。別に、何の罪も犯してないのに。
嘘を吐くのは許されない事か? 否。
もし許されないというなら、この世界は犯罪者だらけになるだろう。嘘を吐かない人など、いない。嘘を吐くのは呼吸をするのと同じ、言わば生きる上での権・利・だ。
だから、嘘は許されなくてはならない。例えその嘘で人が傷つこうと、知った事ではない。
そう、例えその嘘で……大切な誰かの命が失われようと。
「いいな、俺の事は絶対にしゃべるなよ!」
小学二年生の来にナイフを突きつけながら、男はそう言った。
母より一足先に家に帰ってきた来は、家に見知らぬ男がいるのを見つけた。すぐに逃げようとしたが、男の方が一足早かった。逃げようとする来を引き倒して片腕で易々と押さえつけると、来の喉元にナイフを突きつけた。
「大声なんか出すなよ。殺すからな!」
口元と鼻を布で隠した全身黒ずくめのその男はそう来を脅した。
怖かった。自分なんかよりずっと強い大人のふるう力が、ただ怖かった。従わなきゃいけないと思った。じゃなきゃ、殺されちゃう。
だから来は恐怖に震えながら言われた通りにした。というより、恐怖で一言もしゃべれなかった。
来が騒がないと知った男はニヤリとほくそ笑むと、来を肩に軽々担ぎ上げ、部屋の中を漁り始めた。
引き出しを引っ張り出してひっくり返し中身を物色する。棚の中の金目のものを取り出しては床に置かれたバックに無造作に突っ込んでいく。その度に大きな音がして、来を震え上がらせた。
そのうちに、玄関の方で物音がした。
お母さんだ!
来は思わず声を上げそうになるが、その前に男が来の口を塞いだ。
「お前の親か?」
男に問い詰められ、来はコクコクと頷くしかなかった。
「お前が出ろ。だが……」
そう言って男は来の目の前にナイフを突きつける。
「俺がいる事は言うな。言ったら……分かってるな?」
男のナイフが窓からの光を反射してギラリと鈍く光る。
「いいな、俺の事は絶対にしゃべるなよ!」
男の潜められた、それでいてどすの効いた怒声は、来に有無を言わせなかった。ただただ頷く事しか出来ない。
来を漸く放した男は、流れるようにドアの後ろに隠れた。
ガチャガチャ、と鍵を開ける音がして、玄関が開かれた。何も知らない来の母がレジ袋を両手に下げて入って来る。
「お……お帰り、お母さん!」
来は出来るだけ平静を保ってそう言った。手の震えを押さえるために両手を握りしめ、引きつった笑みを浮かべながら。
「あら、ただいま。早かったのね」
来の様子を少しも不思議がらずに、来の母はリビングへと向かっていく。
思わず「変な人が部屋にいる」と叫びそうになるが、ぐっと堪える。駄目だ。そんな事を言ったら殺されちゃう。そんな事を言う前に、何か別の事を言わなきゃ……。
「あのね、き、今日、休み時間にね、ぼ、僕、サッカーして、遊んだんだ」
母の後ろからついて行きながら、来は自然とそんな言葉を口走った。嘘だ。来は今日ずっと教室で本を読んでいた。だが、来の口からは次々と言葉が衝いて出る。
「それでね、今日、僕っね、初めて、ゴール決めたんだ!」
言いながら来の目からは涙が出てきた。なんでだろう。悲しい事じゃない筈なのに。声が上ずって来る。それでも、自分が男の存在を話すのを防ぐため、必死に言葉を紡ぐ。
「あら、そうなの? すごいじゃない?」
来の様子を不思議とも思わずに、母はリビングまでの廊下を歩いていく。
「あの、それで、それでね……」
リビングのドアの前に着いて来は声を上ずらせながら必死にしゃべり続けようとする。
「何? どうかしたの?」
来の様子がおかしい事にやっと気付いた母が振り返る。来は顔を上げて母の顔を見ようとした。
涙で潤んだ来の目には、母の表情はよく見えなかった。ただ、母の体に黒い大きなものが背後から襲い掛かるのが、ぼんやりと見えた。
来は汗を撒き散らしながら飛び起きた。
街灯が来の顔を照らし出す。
その光を見つめながら、来は自分がどこにいるかを思い出した。周囲を見渡すと、フェンスに囲まれた原っぱの真ん中に寝転がっているのに気付く。周囲には背丈の高い雑草が生い茂っており、来の身を隠すのに一役買っている。
眠りこけた頭を整理しながら、先程見た夢を思い出す。
あの事件――来の家に空き巣が入り、母が殺された事件からもう二〇年になる。
母が目の前で殺されたあと、来はショックで気絶し、犯人の男は逃げ出した。近隣住民からの通報で警察が到着したのはその一時間後だった。
当初事件の唯一の生き残りだった来は警察からの聴取を受けたが、来は「知らない」「覚えていない」の一点張りだった。
だが、部屋に残された指紋等から犯人が割り出され、逮捕されると、来の証言が嘘である事が明らかとなった。
まだ小学生であった事、暴力で犯人に脅されていた事等から酌量の余地はあるとされたが、それを唯一許さなかった人間がいた。
父だった。
犯人に死刑判決が下された日の夜、来の父は周囲の静止も構わずに来を殴り飛ばした。
「なんであんな嘘を吐いた!」
父は泣きながら怒鳴った。
「聞けば、お前は母さんが帰った時も助けを求めなかったそうじゃないか! なんでだ! お前が助けを求めれば、母さんも死なずに済んだかもしれないだろう! お前が……お前が死なせたんだ!」
殴り飛ばされ、痛みでうずくまる来を、父はなおも掴み上げた。
「お前が、お前が殺したんだ・・・・・・・・!」
その父も、今はもういない。母が死んで二か月後、精神を病んで駅のホームから身を投げて自殺した。
二十年経った今も、来は自分の嘘を間違っていたとは思っていない。だって、もしあの時嘘を吐かなければ、母さんだけでなく、自分まで死んでいたかもしれないから。
母さんが言ってたんだ。「嘘も方便」って。
そうした方が良い結果が得られるなら、場合によっては嘘を吐くのも許されるんだって。
だから、間違ってない。
嘘を吐くのは罪でも、それは「許される罪」の筈だ。
まあいい。昔の事、過去の事などどうでもいい。今考えるべきは今の自分の状況、これからどうするかだ。
恐らく、自宅にはもう戻れないだろう。所持金や預金通知書等は家に置きっぱなしだが、諦めるしかあるまい。
この場所にいればしばらくはあの男達から身は隠せるだろうが、いつまでも隠れている訳にもいくまい。奴らが自分を追う限り、自由に生きることは叶わない。
逆に言えば、奴らさえいなければ自由に生きられる訳だ。この能力があれば、身分を詐称して生きる事も容易だろう。
奴らが来の存在に気付いたことを考慮すると……認めたくはないが、奴らも来と同じく何かしらの能力を持っていると考えるのが妥当だろう。という事は、自分の身を追っているのは奴らだけという事になる。この能力が世間一般に明かされていない事が、何よりの証拠。
では、どうするか。奴らにどうやって自分を追えなくするか。
一番いいのは地方への逃亡だが、そんな資金も無いし、すぐに足が付くだろう。
かくなる上は、始末。それしかあるまい。
なら、奴らをここに招待せねばならない。
教えてやるのだ。嘘を許されざる罪と断ずるのが、どれだけ愚かな事か。
「……教えてやろうじゃないか」
来は大の字に寝転がりながら、ニヤリと気味悪く笑った。
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